嫌な気分よ、さようなら

幸福とは善きダイモーン、または善き[指導理性]のことである。ではお前はここでなにをしているのか、おお想像力よ。神々にかけていうが、あっちへ行け、お前がやってきたのと同じように。なぜなら私はお前を必要としないのだ。それなのにお前は昔からの習慣でやってきてしまった。私は別にお前に腹を立てているわけではないが、ただあっちへ行ってくれ。

マルクスアウレーリウス『自省録』第7巻17  神谷美恵子訳

最近は、「チャットgpt」を使って思考を整理することを始めた。
対話型AIはいい。ある程度こちらが前提を整備すると、60点ぐらいの答えがいつでも返ってくる。

これは常々自覚していることだけれども、僕は意識しないとひたすらに思考をしてしまうので、どうにかこれと付き合っていこうと思っている。
やはり、僕にとって最適なのは文章を書くことだ。
文章を書くと、不明瞭なものに体型を与えて、道筋を示せるような気がする。

つまり、文章化とは、論理が繋がるように文章を組み立てる過程で、そこにはある程度の不必要な情報が切り捨てられているわけだ。
そこには、物事を単純化させる効果があって、それはわかりやすいのでスッキリさせてくれるのだ。

僕は自分のことを、体験を、文章にして客観にしている。
そうすると、客観にされた僕は、僕の手から離すことができる。
厳密な事実とは則さないが、物語のような形式で書くことによって、僕にとって一番都合のいい解釈を許されている。

最近はお世辞にも体調が良いとは言えない。
毎度毎度、体調がすぐれない理由などを無闇に考えても、どうにもならないと感じながらも、考えずにはいられないようだ。
最も、これも体調が悪いということを厳密に分析するのではなく、僕がみたいように、僕のことを分析するだけなのだ。

今日は、街中を1時間散歩した。
雨が耐えきれずに降るか否かという、なんとも言えない空模様だった。

最近、仕事をすると交通費がもらえる。
最寄駅から、職場に一番近い駅で降りる。
そこから、1時間ぐらい当てもなく歩く。

街中の街中すぎると、気持ちよく歩けない。
人が多すぎるし、何よりスーツを着たサラリーマンを見るのが嫌だ。

あまりに色々な情報があると、僕はどうでもいいことを考えさせられてしまう。
やはり、サルトルがいうように他者の視線とは地獄なのだろうか。

今日は散歩をしていて、ゆっくりと呼吸瞑想ができた。
街中や、完全な自然の中よりも、何気ない住宅地を歩いている時が一番バランスがいい。

右手で指折りしながら、淡々と呼吸を10回続ける。
ふとすると、何かを考えていることに気がつく。
そうすると、また呼吸を1から始める。

これをただひたすら続ける。
これは心をフラットにする儀式みたいなものだ。

今日は散歩をしていて、尾崎の回帰線を久々に聞いていた。
歩くときには、イヤホンをして歩くようになった。
理由は、単に他者と関わりたくないからだ。

歩いていると、本当に言われたのかそうでないのか、よくわからない声が面倒になる。
極度の緊張状態と、疲労状態が重なったとき、僕は自分の耳に聞こえているのが真実か幻聴なのかの区別がつかなくなった。

俺はただ、呼吸をして、歩いていたいだけなんだ。
誰も俺に期待していないで、放っておいてくれと。
そんな内言を思いついた。

きっと、疲れているんだろう。放っておくことにした。

「他人は信用できない」
そんなことも最近頭をよぎるようになった。
ただただ僕のことを放っておいて欲しい。

かといって、すぐに何かを変える行動ができるほど、今の僕には余力がない。
ルーティンに沿って日常生活をして、やっとこさと時を過ごすだけで一杯いっぱいだ。

以前までできていたことが、できなくなることほど、心に来るものはないんじゃないだろうか。
心に平常心を保つには、常に現実とのバランスを保ちつつ、諦めるしかない。

僕は、僕が欲しいイメージよりも、ずっとまだ離れていることに気がついた。
道元の入門書で読んだ「迷いをちゃんと迷え」のようなフレーズが気に入っている。

病であれば、病を演じろ。
蜘蛛の糸を掴むのであれば、必死に掴むこと、そのものであれ。

淡々と歩いて、座る。
アウレリウスの「自省録」を読む。

諦めと平常心は近しいところにある。
表象よちょっと待ってくれ、君は誰なのかと。

もう、どうでもいい。

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