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自分のダメなところしか見えなくなった時、答えを教えてくれるのはあったかいスープなのかもしれない。

*このお話はフィクションです。

「私って、どうしてダメなところばかりなんだろう」
なんだか、急に、涙が出る。いいところがなぜかひとつも見えなくて、過去の頑張ってきた時間まで、なかったことのように思えてしまう。なのに、気力は湧いてくれない。ただ、涙が溢れるばかりで、体も心も鈍くなっていく。
ああ、もう、何もしたくない。頑張るのも怖い。お願いだから、助けて。
苦しくてしゃがみこんだ玄関で、目を瞑って、深呼吸する。なんとか立って、ドアを開ける。会社、行かなくちゃ。

でも、いつからだろう。こんな気持ちになってしまったのは。ちょっと前までは、どんなに嫌みを言われても、貶されても、悔しさと前向きな気持ちで乗り越えられたのに。乗り越えようと、思っていたのに。周りなんて関係なく、言い訳しないで、やりがいは自分でちゃんとつくるものだって、思っていたのに。どうして、私、こんなに弱くなっちゃったんだろう。
だから、頑張らなくちゃ。早く、ダメなところを無くさなくちゃ。そう思えば思うほど、自分がわからなくなっていった。


3年前、私はこの会社に新卒で入社をした。IT企業で、法人向けのシステムを作っている。最初の配属は広報部。希望の部署だった。ずっと広報の仕事をしたくて、大学生の時も講座に通って広告の勉強もしていた。やりたいことやアイデアを、入社前からノートにまとめていた。楽しみで仕方がなかった。

「夏希、研修今日までだよね」
大学の時から付き合っている巧は、一つ上で、一足先に社会人をしていた。巧との電話が、緊張を楽しみに変えてくれる。
「そう。明日から配属先に行くんだ」
「楽しみだね。目指して頑張ってきたもんね」
「うん」
本当に、楽しみだ。気合い入れて行くんだ。
「頑張るね」

なのに、行った初日から雰囲気に違和感を感じてしまった。でも、せっかく入った会社の広報部。ただの気のせいだし、入ったばかりの新人が、そんなこと判断してちゃいけない。大丈夫だ。ちゃんと頑張っていけば、大丈夫。

「これ、やっておいてね。ここだけこうして、あとは自分でやってみて」
「はい」
初めての仕事は、社内イベントの広報からだった。必須内容をもらって、作成する。まず任せてもらえるんだ。ちょっとぶっきらぼうな気もしたけれど、気にしない。能動的にやれる方がいい。

「課長、確認して頂けますか」
できた内容を渡す。
「あ、これ、日付、違うよね」
3月25日。メールで送ってもらった内容と間違いない。
「3月25日で頂いていたはずですが、」
「すみません、でいいよね。このイベントの日、2月25日だよ。最初からこれじゃ困るよ。頑張って」
「はい」
というしか、なかった。席に戻ってメールを見直すと、やっぱり3月25日だった。でも誰にでも間違いはあるし、細かいこと言っても仕方ない。締め切り前にわかっただけでもよかった。

この時作った社内イベントのビラは無事通って、次はある製品のWEB広告を担当することになった。
「斉藤さんがリーダーだから。あ、斉藤さん、こっちこっち」
課長が呼ぶと、パンツスーツのかっこいい女性がやってきた。
「新入社員さん? よろしくね」
「木野夏希です。宜しくお願いします」
「この子、手が掛かりそうだけど、頼んだよ」
課長が嫌みを付け足した。反応しちゃ、いけない。流して、斉藤さんに付いて行く。
「木野さん、手、掛けないでね」
「が、頑張りますので、宜しくお願いします」

課での業務を覚えながら、自分の担当製品の広報をつくっていく。会社というものに慣れるところから、必死だった。早く、馴染みたい。早く、一人前になりたい。今日も、23時になってしまった。
「木野さん? まだ残っていたの?」
声のする方を見ると、同じチームの柏木さんだった。私より2年先輩だ。
「新入社員なんだから、まだ甘えていい時だよ。って、私たちが悪いんだよね、無理させて」
柏木さんは申し訳なさそうな顔をして、私に言った。
「理不尽なこと、ばっかりでしょ。でも、私、木野さんの仕事への姿勢も、アイデアも、いつもすごいなって、思ってる。何言われても、自信持って、やっていってね」
「私、初めて褒めてもらいました。そのまま、受け取ってもいいんですよね」
柏木さんは笑って、
「もちろん。それより、助けてあげられなくて、ほんとに申し訳ない。私も必死で。かっこ悪いね」
あ、こんな風に話してくれる人がいるんだ。みんながいる時じゃ、余計に目つけられちゃうもん。仕方ない。それより、今、話しかけてもらえたことが、嬉しかった。
「また、お話、させてください」

その日から、少しだけ、気持ちが軽くなった。見ていてくれた人がいるってわかったら、ちょっとだけ強くなれた。

忙しい日々はあっという間に過ぎ、3年目に入ろうとしていた。自分の企画からつくったものが、WEBページに載るようになった。閲覧数やイベントへの集客も数字になって出始めていた。
なのに、課長との定期面談では、自分でアイデアを出せ。お前は言われたこともできない。と、否定されてしまった。
「あの企画と、この企画のことは、どう見て頂いているんですか」
我慢ができなくて、聞いてみると、
「それは、斉藤さんが土台つくってくれたものだろ。じゃなくて、自分で、」
「私、企画書、出しましたよね。課長の了承も得てたじゃないですか」
ああ、明日からも会社に来なくちゃいけない。言い過ぎちゃいけない。なのに、限界だった。
「提出して一緒に見て頂いた資料、持ってきます」
席を立とうとした私を見て、斉藤さんが、
「やっぱり手の掛かる子ですね、2年も経つのに」
と笑っていた。

もう、いいや。私の中の何かが、削がれていく。自分のためにやっているんだ。でも、こんなに言われるってことは、私の仕事の仕方がダメなのかな。

「木野さん? 面談、大丈夫だった?」
柏木さんが、トイレですれ違った時に、声をかけてくれた。
「私もね、散々だったから、気にしちゃだめだからね」

仕事だから、やって当たり前。できていないことは注意されるもの。滅多に褒められないこともわかっているし、全部が評価してもらえるなんて思っていない。でも、やったことをなかったことにされるどころか、侮辱されて、私はどう頑張ったらいいんだろう。

頭ごなしに言われる回数は増えて、私は言われないようにしなきゃといつの間にか怯えるようになっていた。口に出しちゃいけない。目についちゃいけない。ひたすら謝るようになって、自分が本当に悪いことと、悪くないことがわからなくなっていった。眠る時は、今日の嫌だったことで頭がいっぱいで、朝は今日への憂鬱で頭がいっぱいになった。

「夏希さん、広告賞、応募してみたら」
柏木さんが、励ますように、リンクを送ってくれた。
「せっかくいいアイデア出せるんだから、挑戦してみなよ」
どうしよう。これで他の業務でミスしたら、きっと、余計なことしたからだって、怒られるんだ。そんな気持ちが湧いてしまう。ああもう、ダメだ私。


「夏希、今週の土曜日は、息抜きするよ」
私のいっぱいいっぱいを見て、巧が無理やり連れ出してくれた。美味しいものを食べて、外の空気を吸った。なんだか久しぶりにうきうきした。お昼を食べてすぐ、カフェに入って、大きなタルトも頼んでしまった。
「話したかったことがあるんだけど、」
大きなタルトを頬張る私に、巧がゆっくり話しかける。自分のことばかりで、最近ちゃんと話せていなかったことに気が付いた。
「ねえ、そろそろ一緒に暮らそうよ。その方が助け合えることもあるし。僕、ご飯作るのは得意だし。どう?」
嬉しかった。本当に、嬉しかった。でも、私はこんな気持ちの時に、一緒に暮らしたいって、甘えじゃないのかな。
「不安、かな。それとも、結婚の前に同棲はしない、って決めてる?」
「ううん、そうじゃない。そうじゃないんだけど」
仕事のこと、ちゃんとしてからでないと、巧にも失礼かな。でも、私の本心は、同棲したいと思っている。今落ち込んでいなかったら、そうしよう、と即答している。今の不安は、飲み込んだ方がきっといい。
「仕事、大変だからこそ、一緒にいればいいんだよ」
巧はそう言ってくれた。
「ありがとう。一緒に暮らしたい」


一緒に暮らし始めると、仕事でこわばった気持ちが、家に帰るとほぐれていく。こわばっては、ほぐれ、ほぐれては、こわばって、こわばって。巧には申し訳ないことはわかっているのに、多分、一緒に何かしている時も、上の空かもしれない。プライベートはこんなに幸せなのに、職場への怯えは消えなくて、今の状況が早く終わって欲しくて、何かを埋めるように、なんとかしなきゃともがいていた。でも、何を埋めたいのかも、埋まっていく感覚もわからなくて、ただ、明日の恐怖ばかりが浮かんできて、自分のコントロールができなかった。

せっかく一緒にいられるのに、どうして私は不甲斐ないんだろう。足りないことばっかりで、自分が悪いのに、うまく笑えない。好きな人と話す時でさえ、私の話し方、大丈夫かな。なんて、いちいち考えてしまう。自分の輪郭が、わからなくなっていく。
そんなことが頭の中で渦巻きながら、私の心は空っぽで、でも無心でノートに向かっていた。キッチンからいい匂いがする。気が付いたら、開いたページの上が、涙でいっぱいだった。

「夏希、」
スープのいい匂いのする巧が、私の背中を包んでいた。
「もう、やめよう。やめていいんだよ」
巧の声が、泣いていた。私の首に、冷たい雫が落ちて、我に返る。
「ねえ、どうして。巧は泣かなくて、いいんだよ」
気が付いたら巧は、私よりも泣いていた。こんなに泣いている巧を、初めて見た。
「泣くよ。泣くに決まってるじゃん。こんなに好きって思ってる夏希が、こんなに自分を責めてるの見ると、僕だって、どんだけ辛いか、わかる? それに、そんなふうに思わせた奴にも、本当に、腹が立つ」
巧の暖かさが、私の体に、染み込んでいく。優しさに押し出されるように、涙が止まらない。
「大丈夫。夏希は、大丈夫だよ。ちゃんと頑張ってきたし、ちゃんと頑張ってる。夏希は、いいところばっかりなんだから」

「それに、ちゃんと向き合っていない人は、こんなに悩んだりしないよ。夏希はちゃんと一つずつ乗り越えてる。自分が一番ちゃんと見てるんだから、夏希が夏希のこと、認めてあげないと、かわいそうだよ」

泣きじゃくる私に、涙でいっぱいの巧が涙を拭いて、
「ほら、スープ、食べよう」
と、出来立てのスープを持ってきてくれた。体の中に、暖かいものが入っていく。巧の体温。優しい言葉。信頼できる人から認められていること。美味しいスープ。私の心が、溶けていく。凍った感情が、柔らかく、ほどけていく。心の芯が、あったまったら、外側にある冷たいものが、ちゃんと冷たいとわかるような気がしてきた。あ、私の心は、凍っていたんだ。負けちゃダメだ。冷やされちゃダメだ。自分の心を、凍らされてたまるか。冷たいものには、染まるんじゃなくて、熱をもって、負けないようにしなくちゃ。どんなに冷たくて鋭くて、心を突き刺すものでも、暖かさには、敵わないから。
「私、そんなことに、真に受けない自分になりたい」
言い訳なんかじゃ、ない。先のための忍耐じゃなくて、今日を凌ぐための我慢なら、時間も、気持ちも、もったいない。
「自分も変わりたいし、職場のことも、異動届け出したり、転職もちょっと、考えてみる」
「うん、そうだね」
「せっかく一緒に暮らし始めたばかりなのに、自分のことで、いっぱいいっぱいで、ごめんね」
自分を責めてばかりで、進めないでいた心が、動いていく。
「夏希のせいじゃないよ。それより、これから、もっと楽しい方へ進むんだよ」
巧は優しい目をして、包んでくれる。
「楽しくなるね」
「うん」
「それに、何かあっても、傍にいるから、大丈夫」


自分ってダメなところばかりだ。そう思うのに、立ち上がれない時。自分のいいところが見えなくなる時。怒りがひとつも湧かなくなる時。前向きに乗り越えたい気持ちが消えてしまった時。そんな時は、きっと、心が凍ってしまった時だ。最初は周りの温度の冷たさに、心の痛みに気がついていたのに、自分の心が凍っていくのに反発していたのに、ずっと続けば、自分の心が凍ってしまう。凍ってしまえば、周りの冷たさまでわからなくなって、自分の感覚が麻痺してしまう。麻痺してしまうと、過去のことまで凍ってしまうかもしれない。今までの自分を否定して、今が凍ってしまえば、未来まで動かなくなってしまうことだってある。
そんな時は、自分が悪いんだ。なんて言い訳をしないで、はやくあったかいスープを飲まなくちゃいけない。雪山に放り出されて、耐えられなきゃ甘えだ、なんて言われても、はやく、あったかいスープのところへ走っていかなくちゃいけない。
手遅れになる前に、全部凍ってしまう前に、自分の心を溶かしてくれる言葉や、笑顔や、人の体温のところへ、走っていかなくちゃ。自分の好きな自分のところへ、戻らなくちゃ。

ちゃんとあったまって心が動き出せば、自分の温度がちゃんとわかる。自分の温度があれば、冷たさから守ることもできるし、鋭利な氷を溶かすことだってできる。そんな温度のところに戻らなくなって、自分がいるべき温度、自分の心が一番動く温度の場所へ行くことだってできる。未来がちゃんと、動いて行く。

「あったまった?」
巧の温度と美味しいスープが私を元気にしてくれた。
「あったまったよ。もう、大丈夫」
「無理しちゃ、だめだよ」
「うん」
心が動くって、こんなにも幸せなんだ。体も顔も柔らかくなって、いつの間にか、自然に笑えていた。
明日からまた、冷たい場所へ、行かなくちゃいけない。あの空気に触れたり、思い出したりしたら、また一瞬で心が凍ってしまうかもしれない。でも、今、私は、自分の温度を確認できた。あったかいスープだって、待っている。凍ったりしない場所へ行く選択肢だってあるってわかった。大丈夫だ。きっと、大丈夫だ。
巧の顔も、自然な笑顔になっていた。
「ありがとうね」
巧が私を温めてくれたように、私の温度だって、ちゃんと相手に伝わっている。もうこの温度を忘れない。そう思いながら、もう一口、あったかいスープを頬張った。


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