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#65 みんなで渡る?

 私事で恐縮だが(と言って毎回私事だが)、先日娘の結婚式があった。結婚はコスパが悪いと言われる時代に有難いことだ。入籍は去年済ませていたのだけれど、改めて結婚式に臨むと「ああ、二人は結婚したのだなあ」という実感が湧く。身内だけのアットホームな式でも、それをすることで自覚と区切りになるのがセレモニーというものなのだろう。相手は私と同じ獅子座のAB型で、私よりずっと背が高い穏やかなジョン·レノンのような風貌の人だ。式が始まる前にジョージ·ウィンストンのautumnが流れていて、自分たちの結婚式で流したwinter to springを思い出した。朝の強い風雨は式が終わる頃には止んで、最後に山手の高台に西陽が差す中で集合写真を撮った。シナリオにあったような展開が、二人を祝福してくれているようでうれしく思えた。
 自分の父母の時代は年頃になったら結婚するのが当たり前で、相手はしばしば家や親が決めたりしたようだ。極端な話、事前には写真を見ただけで、本人に直に会ったのは式の当日とか。私たちの頃は今から思えば浮かれた時代で、何となく相手がいないと恥ずかしいというような風潮があった気がする。だからと言って誰にでも相手がいた訳でないけれど、「恋愛狂時代」と呼んでいた人がいたのは言い得て妙な感じだ。今は結婚する人が減って、というか人口そのものが減っていて、結婚もいろいろな形が認められるようになってきている。個人の意思が尊重されたり、選択肢が増えたりするのは望ましい変化だ。
 ひょっとすると、私たちはいつも気付かないうちにみんなで赤信号を渡っているのかもしれない。みんがそうするからという理由で。確かにみんなで渡れば怖くないけど、その結果にみんなは責任を持ってくれないところに注意が必要だ。大事なことは自分で考えないと。でも、考えるといっても頭や理屈で考えすぎるとロクなことにならない。迷ったときは自分の胸に聞いてみることだ。心の声に従えば、少なくとも後悔はない。あれ、何の話だったっけ?ああそうか、結婚なんて昔も今も博打みたいなもので、自分の生活の純度も下がるし喧嘩もするけど、とは言ってもみんな誰かの子供だし、ときに家族はいいものだったりもするから、機会があったら一度位試してみるのも悪くないかも(っていう年寄りの大きなお世話だな)。
 PS. 結局35年前のタキシードに出番はなくて、人生で初めてモーニングをレンタルしたけれど、3kgダイエットしたお陰ですっきり着れた。問題は、式の食事でリバウンドして目標が無くなったこれからだ。

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