#72 実家の記憶
私が高校を卒業するまで過ごした実家は、関東の外れにある茅葺屋根の農家だった。今はもう瓦を模したアルミ系?の部材に覆われているが、子供の頃はボールを投げて遊んでいると、時々ボールが屋根に刺さった。それを長い物干し竿で取ると、後にボール大の穴が残る。自分が大人だったら速攻で禁止しているところだが、じいちゃんも親父も寛大だったなあ。
当時、家に入ると広い土間があった。土はきれいに踏み固められていたが、さすがに少しは土埃も出るので、夕方それを掃き清めるのが子供の仕事だった。その角には一段低くなった馬屋があって、自分の記憶の最初の頃に馬はいなくなり、馬屋は埋められて物置になった。私が奴凧や釣り道具を置いていた場所だ。冬には土間で縄跳びの練習をした。二重跳び150回超の記録もそこで作った。
炊事場も竈も土間繋がりだった。多分、農作業との関係で履物を脱がずに使えた方が便利だったのかもしれない。下足のまま食事が出来るテーブルもあった。米は釜で粗糠(もみ殻)を燃やして炊いていた。お風呂も五右衛門風呂で、追い焚きをするにもその度木に火をつけなければならなかった。
土間を上がったところに掘り炬燵があって、その上は梁がむき出しで屋根の裏側が見えた。囲炉裏の煙が抜ける仕組みになっていたのだろう。炬燵は練炭だったから、火をつけた直後によく猫が中で伸びていた。気付いて外に出すとじきに元気なった。土間と床の高低差が縁の下になっていて、柱と柱の間の板を外した奥に大工道具が置いてあったのだが、そこにはいつもひんやりとした空気が流れていた。
食事は板張りの部屋で、大きな座卓を囲んで正座で食べた。じいちゃんが塩引きが好きだったので、年末にはおじさんやおばさんからお歳暮に贈られた新巻鮭が何匹も梁からぶら下がっていた。そこに暖房はなく、納戸にいれた煮魚は自然と煮こごりになった。
他の部屋は全部畳で襖で仕切られ、南側と東側に縁側があって、夏に全部開け放つと風が抜けて気持ち良かった。網戸もなかったから虫も燕も出入り自由だったが、当時はそういうものだと思っていた。子供の頃座敷で昼寝をすると、みんなで寝たはずなのに、目が覚めると自分一人だけでカナカナとヒグラシが鳴いている。あの瞬間の泣きたくなるような心細さが忘れられない。
*その後実家は改装されて、土間も五右衛門風呂も濡れ縁も無くなった。父が亡くなり、母が施設に入ったので、今は兄夫婦が換気をしてくれている。そんな主のいなくなった実家の昔の様子を書き留めてみたくなった。