流れる時は巡る時?
カレンダーが1枚めくれて10月、神様たちはもう出雲に集まったのかなと思っていたら、旧暦ではようやく長月の月が立ったところ、まだ一月先だった。今朝、薄暗いうちに外に出たらふんわりと金木犀の香り。ああ、秋になったなあと喜んでいたら、その後明るくなってから出た時にはもうそれが感じられない。不思議なものだ。夕方は夕方で、帰宅して車を降りた時に秋の匂いがする。あれは一体何なんだろう?稲刈りが済んだ田んぼの藁の匂い?長雨で遅れていた稲刈りもようやく始まって、もうすぐ新米が届く頃。
先日、ストレートネックを直そうとyoutubeを見ながら体を動かしていたら、上を見てくるくる回った瞬間に方向感覚を失ってひどい転び方をした。ぶつかったクローゼットの扉が外れる程だったけれど、それがショックを緩和してくれたのか、激しさの割に怪我はなくて助かった。それより、そういう転び方をしたことの心理的なショックが大きくて、自分への信頼がガラガラと崩れ落ちる音が聞こえるようだった。意外とこんなバカみたいなことでポックリ逝ってしまったりするのかもしれないなあとか、自分の終わり方に思いを馳せてみたり。
そうかと思えば、週末遊びに来てくれた友人グループの中に認知症の進む親御さんを抱えて家を空けられない人がいたり、職場でも一人暮らしだった父親が急に倒れて病院通いを始めた同僚がいたり。ようやく子供たちが一人前になったと思ったら今度は親や孫の面倒をみるようになって、そのうち気付いたらいつの間にか自分が面倒を見てもらう方になっている、きっとそういう連綿とした繰り返しが私たちを今日まで繋いできてくれたのだろう。
世界ではいろんなレベルでこれまで当り前と思われていたことのオセロ返しが始まっていて、それは初めての大きな変化のように感じられるけれど、丸い地球の水平線が直線に見えるように、その直線的に見える変化の流れも、ひょっとすると大きな弧を描く時の流れの一部なのかもしれない。時のサイクルは一日単位のものから何百年・何千年単位のものまであって、繰り返されることに安堵を覚えることもあれば、どうしてこんなことが?というものまで様々だ。自分では儘ならない流れなら、心地よいサイクルは全身で感じ取りつつ、避けがたい流れには、再びそれが巡りきた時せめて少しでも良い方に変わっているよう非力ながら出来ることを積み重ねていきたい。
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