caramel.5. 夜通しアーリア

「……カラオケ、で、でで、デート、デートじゃん……! え、怖、男の子とデート……! いや、でも……私18だしそういうこともあっても……、」

 天野雨音はベッドの上で挙動不審になっていた。なんと宇海くんとカラオケデートの予約をしてしまったのだ。密室、密会。そういう雰囲気。
「……コンドーム買っていったほうがいい? いやでもそれサイズ合わなかったら意味ないよね……? っていうかカラオケでは流石にそういうことないし、で、でもあのあたりホテルあるし……ああああああ」

 ドン! 壁が叩かれた。
 うるさくて怒られたらしい。本当に申し訳ない。
「ごめんなさい」
 小声で言いつつ、顔を真っ赤にして土下座した。意味がない。

 さて寝てしまおうか、と思ったが。……眠れそうもないです、なんか、そういうのあるかもって思うと。
「宇海くん……」
 半ば泣きそうな気持ちで、布団に潜り込んだ。声が漏れないように口を抑えて。
 こんなの知られたら「変態」って言われちゃう。そう思うと、さらに興奮してしまう。早く寝なきゃ、そう思えば思うほど。暖かい手、柔らかくて低い声、厚みのある体躯。体を包み込む羽毛布団に体温が染み込み、体の端々まで汗ばむにつれ、そんな錯覚が現実のものとなり始める。細い指先が触れる場所、その感覚が、触れられたこともないその場所が。嗚呼、なんと浅ましい。

「あ、ぅ、ッ、ああっ……」
 堪えきれず声が漏れる。たった一瞬、体も頭も一色イッシキに染まる。

 しばらく何も考えずに余韻に浸っていたい。扇風機の風でカーテンが靡き、ややかけた月を薄い雲が覆い隠す様が見えた。部屋はモノクロでやや銀に輝き、汗ばむ体はやがて冷えていく。
 自分の体が自分のものでなくなる瞬間、人間性を手放す時。受け入れてもらえるなら、受け止められるなら。
 ぼんやりぼやけていく頭は、そんな普通を望んでいた。

 翌朝、眩しい朝日とよく晴れた柔らかい空がカーテンから出迎えた。
 いつも通り学校へ向かったものの、何か忘れている気がして昼休みには家に戻った。そうだ、メイク道具。あと、へそくり。
 カラオケに行くのならお金は必要だろうし、ご飯も外で食べるかも。
「……デートってお金かかるのかな」
 結局授業中も考え続けていた。ふと隣を見るとアサヒが怪訝な顔をしてこちらを見ていた。

「アメネ、何かあったの? らしくないよ」
 授業が終わるとアサヒが話しかけてきた。
「ううん、別になんでもない。生活費が足りるか勘定してただけ」
 私はそう誤魔化した。実際金銭面には一抹の不安があって事実その通りではあったから。
「困ったらうちに泊まればいいよ。あたし、実家暮らしでお金には困ってないから」
「うん、本当に死にそうだったら頼る」
「死なないで〜」
「死なないよ。大丈夫」
 真っ直ぐな目で私を見る朝日。
 この人もこの人なりに私のことを気にかけてくれていたんだな、と、やや邪険にしていたことを少し申し訳なく思った。

「そういえばさ、アメネ」
「ん? 何?」
「この間イケメンとご飯食べてたらしいじゃん、あれ誰?」
「……え!? な、あの人はえっと」
 唐突に聞かれたそれは、なんとも答えにくい質問だった。彼氏だよ、と言ってしまいたいけど、でも宇海くんはおそらくいろんな女の子から人気があるイケメン。そんな人を独り占めしてるみたいに思われたら、人間関係がこじれてしまうかも。私は声を抑えて話し出した。
「音楽部声楽科の、宮野宇海くん。自転車で転けてるところを手当てしたお返しにお食事に誘われたの」
 なるべく、こう言う類のことは大っぴらにしたくない。
「ふうん、それだけ?」
「……」
 これはもう隠しきれないな。参った。
「今日ね、カラオケに誘われたの」
「ええーーー! 私も行きたい! イケメンなんでしょ? 拝みたい!」
「……うん、聞いてみるね」
 空気読めよ。アサヒのばか。
「ねえ写真とかある? 宇海くんってどんな人?」
「写真は持ってないけど、とても気の利く良い人だよ。……アサヒが来るのを許してくれるかはわからないけど、とりあえずLINEはしといたから、いいって言われたら連絡するわ」
 正直OKされたくないけどね。
「やりぃ!」
 あーあ、アサヒには敵わないな、と、私はこめかみを押さえた。全く頭が痛い。

 わずか1分後、『可愛い子が増えるのなら良いよ』と宇海から返信が来た。可愛い子が増えるなら、って……。向ける先のない嫉妬にモヤっとしつつもその旨をアサヒに伝えると、満面の笑みで抱きつかれた。アメネ大好き! 天才!、と騒ぐアサヒの柔らかな暖かさを腕に抱いているとなんだかもうどうでも良いか、と言うような気分になった。台無しもいいところだ。
 本当は彼氏なのがバレてるんじゃなかろうか、と思ったが、このアホそうな子がそこまで見ているかどうかは定かではないなと思った。

 四限が終わり、私たちは宇海くんが待つベンチへと向かった。
 宇海くんは目立つ。背の高い彼は座っていても目立つのだが、立つと一層存在感があった。私がサッと手を上げると、ぱっと明るい顔をする。
 私は彼にはっきり聞こえるように言った。
「宮野さん、お待たせ」
 私はそれとなくサインを送る。あなたならわかるはず。宇海くんは小さく瞼だけで微笑んで姿勢を正した。
「や、天野さん、あと……そこの可愛いきみ、名前なんて言うの?」
「かっ、かわ……!?  あ、わ、私、東野朝日て言います、あの、アサヒって呼んでくらひゃい」
 私は呆れた顔で宇海を見た。どこの王子様だよ。そこまでせんでよろしい、という思いを込める。彼女の前だぞ、女を落とすな。
 気付いているだろうに、宇海はアサヒばかりに構いながら、私はそれを追いつつ。
 複雑な心のうちをおくびにも出さず、気付けばカラオケ屋の前だった。
 
「ね〜宇海くん、部屋どこ〜?」
「Aの3号室。東野さん、部屋の機械でチェックインしといてくれる?」
「りょ〜かい!」
 宇海に体を寄せ、甘えるように言うアサヒに笑顔で応える宇海。本心の見えないその笑顔が、ある意味安心材料にも思えた。
「宮野さん、私は?」
「ん〜、天野さんは……じゃあぼくたちはドリンク選ぼうか。東野さん、欲しいもの言ってよ」
「あたしコーラ! ペプシの方ね!」
「はーい」
 隣に選んでくれたことに安堵しつつ、私は彼の隣に並んだ。
「宇海」
「ん? どしたの雨音さん」
「無理言ってごめんなさい、でも、どうかこの関係がバレないように手伝って」
 私がそう言うと、宇海くんは私を見てキョトンとした後、微笑んで私を引き寄せた。
「大丈夫、わかってる」
 ちゅ、と音がして、それが耳にキスをされたからだと気付く頃には、彼は二つ目のコップに飲み物を注ぎ終えていた。
「雨音、どれ飲む?」
「自分で選びます……」
 震える指でコップにアイスティーを注いで、こっちだよ、と言う彼のあとを追った。
「雨音、開けて?」 
 悪戯っ子のような笑顔で言うその仕草に言いようのない安堵を覚えて、私はその言葉に従った。

「おそいよ〜2人とも!」
 屈託のない笑顔で言う彼女に悪意があるように見えないのが、ひどく不気味であった。
「ごめんごめん。チェックインありがとね」
 どこまでも清潔に爽やかにコップを置く王子様を横目に、私は無造作に席についた。
「さ、2人とも曲は決めた?」
 宇海はそう言うとマイクを二つ差し出した。
「一番手、誰にしよっか」
 本心の見えない綺麗な笑顔でそう語りかける彼に、不思議と安心を覚えた。
 私は思い切って提案することにした。
「……じゃんけんしたらどうでしょうか」
「いいね」「さんせー!」
 2人分の賛同を得て、私は最初のグーを出した。
「「「さいしょはグー、じゃんけんぽん!」」」
 勝ったのは私だった。

「……あの、私カラオケ久しぶりで機械の使い方わかんないんだけど…これどうしたらいいの」
 情けない私は助け舟を求めて2人を交互に見た。
「アメネ、ここ押して曲選ぶの」
 声を上げたのはアサヒだった。
「ん、こう?」
「そう。……で、選べたらマイクの電源を入れて、再生したらいいの」
「お、できた。ありがと」
 伴奏が鳴り始める。

「天野さん、ステージ行っておいでよ」
 はにかみながら宇海が言う。
 私は真っ赤になってステージへ向かった。

 歌ったのは、中学の頃に合唱コンクールで歌った曲だった。声が震えてなかなか歌いにくかったけれど、点は89点。全国平均79点の曲にしては、よく出来た方ではなかろうかと思う。

「上手いね、天野さん」「アメネすごーい!」
 2人が褒めてくれるので、少し緊張がほぐれた気がした。
「じゃ、次ぼくか。んー、国歌でも歌うか」
「んなベタな!」
 宇海に体を寄せようとしつつアサヒが言う。お前はベタベタするんじゃねえよ。
「じゃ、ステージ行くね。聴きながら曲選んでくれていいよ」
 アサヒを引き剥がし、慣れた仕草でマイクを握る彼は、さすがプロだった。

 ステージ上、そしてスピーカーから、倍音の効いた深い歌声が響く。君が代はこんなにも良い曲だったのか、それとも歌手が凄すぎるのか。
 聞いたこともないような生歌に聞き惚れて、私は目を奪われた。
 伴奏の余韻が消え、彼が一息つく。

「……あはっ、思いっきり歌っちゃった!」
 そう言う彼のその点数は、100点。国歌でこんなに感動させるのだからもっと点が高くて然るべきだと私は思ったが、「つぎあたしね!」とアニソンを即ぶっ込んできたアサヒのせいでその感想は言えなかった。
 アサヒの歌は、どうにも形容のしようのない、ごくフツーの歌声だった。
「うん、かわいいね」と宇海が言うのも納得の、申し訳なくなるくらいに本当にフツーな歌声だった。
 照れて真っ赤になるアサヒに、同情さえ覚えるほどだった。

 そんなこんなで数時間歌った。ほとんどアサヒが連続で歌い、私はたまに長めのお茶汲みに行って時間を潰すだけだった。

「はぁ……連れてくるんじゃなかった」
 貼り付けた綺麗な笑顔でお世辞を言う宇海を見るのも、お茶を汲み続けるのも、正直うんざりだ。
「早く帰ってくんねえかな……」
 友達に対して思うことではないと思いつつも、そう思わざるを得ない状況だと言って差し支えない悲惨さだ。そもそも私は彼氏とイチャイチャしたくてカラオケに来たのに、どうして下手の横好きの歌を聞かねばならぬのだ。せめて練習くらいしてこい、と独り文句をたれた。

 スマホが振動する。宇海からLINEが来たらしい。
「……はあ?」
 その内容は朗報か悲報か、いや朗報か。

 簡単に言えば、アサヒが寝てしまったから、家に連絡して欲しい、とのことだった。宇海は連絡先を知らないから、と。
「仕方ないなぁ」
 私は一旦トレーを置いて、彼女の家に連絡する。
「もしもし、東野さんのお宅でしょうか」
「はい、アサヒさんの友人の天野です。カラオケ広場京都駅南店でアサヒさんが寝落ちしてしまったので、どうか迎えに来ていただけませんか。……はい、あの、何しても起きないみたいです、はい」
 電話に出たのは彼女の姉と名乗る人だった。呆れた、と言うふうな声色で「今すぐ行きます、ごめんなさいね」と仰った。

「……はあ、勿体ない」
 せっかく3人分汲んだ飲み物を1杯捨てて、部屋へと戻った。
「……雨音、ごめんね」
 部屋に戻ると宇海がアサヒを膝枕していた。幸せそうな寝顔しやがって。
「何してんのよ、ばか」
 極力声を小さくして言った。絶対に起こしたくないし、このめんどくさい台風女にこれ以上場を乱されるのは懲り懲りだった。

 しばらくして私のスマホに電話がかかってきた。
 アサヒを迎えに来ました、という彼女の元へ、宇海がアサヒを抱えて行った。
 私は部屋にひとり残され、やっと息をくことができた。

「……疲れた」
 私はアイスコーヒーを一口飲んでため息を吐く。宇海はなかなか帰ってこなかった。
「もう22時かぁ」
 今日はあんまり楽しめなかったな、とアイスコーヒーをまた口に含む。宇海は楽しんだのかな、アサヒは当然楽しかったろうな、と思案しつつ、こういう普通の娯楽の場を全く楽しめない自分に嫌気がさした。

 だから、宇海が個室の扉を叩いた時、私はどうやら酷い顔をしていたに違いない。
「お待たせ、ひとりにしてごめんね」
 そう言う彼は心の底から申し訳ない、というふうな顔でこちらを見た。
「ぼくが断っておけばよかったね」
 隣に座り、耳元で囁く。
「……い、いや、友達だから別に良いんですよ」
 私は嘘をつく。宇海は私の両肩を真っ直ぐ引き寄せ、両目を見つめる。心臓が跳ねた。
「……雨音、ぼくはね、後悔してるよ。二人の時間を大事にするべきだったね」

──深い、樹脂のような透明な瞳が私の顔を映す。瞳の中の少女は彼と同じ表情をしていた。

「……ね、夜はまだ長いよ。楽しもっか」
 彼は心底楽しそうな笑顔で私の肩から手を離し、マイクを手にした。
「二人で歌わない?」
 私は透明な目に魅入られたまましばらく声が出ずにいた。そんな私を知ってか知らずか、彼はカラカラと笑って指を鳴らした。
「はい、動ける?」
「あ、ああ、うん」
 体の力が抜けて、まるで昨晩の……欠けた月夜のような。私は呆気に取られて力の入らない手でマイクを受け取った。そんな私の手を後ろから握って、宇海は再生ボタンを押した。
 A whole new world 。誰もが知っていると言っても過言ではない曲だった。
 広いステージ付きの部屋で、ソファで2人重なって、声も目線も重ねて歌う。体を震わす宇海の低い声。これって実質SEXじゃない?
 そんなことも思いつつ、空飛ぶ絨毯の上で、私たちは夢を見ていた。
 余韻が消えるまで雨音は宇海の上にいた。

「……宇海!」「あはは、楽しかったね」
 私は疲れが吹っ飛んだのを感じていた。けらけらと子供みたいに笑い合い、次の歌を選ぶ。
「次も2人のやつ?」
 宇海がそう聞いてくるので、私はわざと別のを選ぶ。
「ううん、次は私が歌うの。さっきまで一度しか歌えていないから」
「それもそっか、じゃあ聞かせてよ、雨音の本気の歌」
 ばれてーら。さっきは体が冷えてて声が出なかったのも、緊張してガチガチだったのもお見通し。私は釣られてけらけら笑った。
「天野雨音、いっきまーす!」
 コーヒーを飲み干した。
 ガラにもないと思っていたけど密かに好きだった流行りの曲。清楚な女の子が飲み会で歌えば逆に似合ってしまうような。
「……なるほどね、ぴったり」
 宇海がニヤリと笑う。
 再生ボタンを押す。
 
 そう、例のあの曲です。ナイフのような思考回路持ち合わせるはずもなく。でも遊び足りない、何か足りない。困っちまうこれは誰かのせい?
 以下、略。

 叫ぶようにして歌い切った。
 採点が入る。92点。まずまずだ。
「うーん、本家より好きかも」
 宇海くんがそう言ってくれたので、100点満点の150点だと思うことにした。

 この後も朝まで無制限で部屋をとっているとのことで、私たちは夢中になって歌い、お腹が空いたら食事を頼み、ピザやポテトやドリンク、サラダ等々、滅多に夜中には食べないようなものを食べて遊びに遊び尽くした。

「……雨音、もう4時半」
「うん……そろそろ出よっか」
 私たちは満足して幸せな気分で個室を出た。
 会計。不甲斐ないことに私の財布の中身が半額にも足らず、へそくりを出そうとしたところ、宇海は私を制止した。
「今回はぼくに払わせて」
 こともなげに穏やかな笑顔で一万円近く払う宇海。割引を使ってもこの値段。また来ようと思ったけどあまり頻繁には来られないな、と思っていたところ、宇海くんはまた来ようね、と言った。
「ずいぶん高かったけど」
「これはあの子の分も入ってるから。あとであの子のお姉さんにでもツケとく」
 困ったなという笑顔でそう言う彼は、なんとも頼り甲斐のある様子だった。

 建物を出る。空は青み掛かっている。
「宇海」
「ん?なぁに」
 私はなんでもないのに彼の名を呼んでいた。
 ずっと立って歌ったせいか、足腰がたたなくなっていた。
「疲れたでしょ、足とか大丈夫?」
「大丈夫……」
「じゃなさそうだね。抱っこしたげるからほらおいで」
「……元気ね」
 幸せの酔いも覚め、宵も開け。
 白みゆく空を見つめつつ。
「お陰様で」
 雨はそそぎ流れ着く。
 笑顔で雨音を抱く宇海は幸せそうに笑った。
「朝焼けがこんなに綺麗でよかった」
 私はそう言って身体を委ねる。

「さ、君の家はどこ?」
 私たちは家へ向かった。


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