正論は正しけれど救わない

 最近の世の中をネットを中心に生きているとどうしても正論を振りかざしたくなってしまう。その方面は現実の問題だったりネット上での出来事だったりさまざまである。

 個人的には正論をネット上で振り回しても誰も得しないどころかマイナスな気分になって損をすると思っているので、大抵はTwitterのように誰の目にもすぐ触れる場所ではなくnoteであったりブログであったりとワンアクション必要な場所に書き綴る。そうして自己満足しているわけだが、読み返して消すことも多々ある。結局はその時の感情に振り回されているだけなのだ。
 そして、感情に振り回されて振り上げた拳をぶつけなくていい人にぶつける。この行為ほど目も当てられないものはないだろう。一瞬の快楽と自己満足のために不必要に傷と敵を増やしている。

 世の中には正論で語らなければいけないことは多くあるはずだ。それでもネット上、特にTwitter上なんかでの話題には正論は必要ないのではなかろうか。140字という限られた文字数では満足に主張を伝えきることはできないし、ある意見を支持するも批判するのどちらでも本来の意図が伝わらない。
 意図が伝わらないことによるすれ違いは直接話していても必ず起きるというのに限られた文字だけで自由なタイミングでチャットしていてすれ違わないわけがない。

 なんてつらつらと結局正論を語っているわけだが、この正論は誰かの心を軽くすることもできないし有意義な時間を過ごすための話題の一部になることさえできない。
 正論なんてものはどこに書き綴ろうが自己満足の域をでることはできないのだろう。
 誰かの救いになりたいならばもっと場面を限定したり境遇に寄り添うような文章を書くだろう。話題の一部になりたいなら社会問題になっていることに対して深堀りして記述すればよい。そういったことをせず、ただ無意味に文字を浪費するのは何を求めているのだろうか。私自身もよくわかっていない。

 正論が誰かを救うことはないけれど、曲論も誰かを救うことはない。むしろ曲論に関しては正論以上に争いの種になりそうな気がするので振り回さないほうがいい気がする...

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