ハレとケ

逆に云えば、言葉によって世界像は書き換えられることになる。エスカレーターに立っている時、その横をガンガンと大きな足音を立てて降りてゆく女性がいます。その度に苛々していたら、或る時、知人に『サンダルの構造上ああなっちゃう、カスタネットガールという種族なんです』と教えられました。すると、不思議なことに、彼女たちに出会っても『あ、カスタネットガール』と、むしろ面白く感じるようになりました。私が忍耐強くなったわけではなく、ひとつの言葉を知ったことによって世界像が変化したのです。

穂村弘「これから泳ぎにいきませんか」

自宅療養76日目。6:30起床。昨日は酔った勢いで煙草を吸いまくり、朝起きたら1本も無かった。ゴミをまとめてコンビニまで買いに行く。アディクションのせっつき方が半端無いが、即座に敬礼して従ってしまう自分もバカだ。そうわかっていながらも、ゴミをサクサクとまとめるスピード、手際の良さなど、自分が誰かにジャックされているかのようだ。アディクションの影響が発揮されているまさにその時、自分は自分ではない。

やはり仕事をしてないと日常にメリハリが無い。忙しくしてる時は休みがほしいと心底願っていたのに、いざ100%の自由が与えられたらそれを有効に使えないという体たらく。

・自分の意思で選ぶこと
・仕方なくやらねばならないことや人の要請
・それ以外の何となく過ごす時間

この3つのバランスが自分の生を作っている。手持ちの欲望、時間、お金をどう振り分け、結果どのような構成をするか。思ってた以上に、自分には強い欲望が無いことがわかった。だから時間を持て余すのだ。その代わりに深く自分を見つめ直す時間がとれるというメリットもあるが、こんな中年が自分を深ぼったところで、出てくるのはガラクタばかりである。ただその中にも愛おしいガラクタがあったりするので、そこから新しい欲望を喚起できればいいと思った。

少しモノを捨てる。首が伸びてしまったTシャツや、あったら便利だと思って買った小さなバッグ、入院時に買わされた身の回りのモノなど。体積が小さいモノが多いので、部屋の印象はあまり変わらない。

穂村弘の書評本を何冊か借りてあるので、少しづつ読む。穂村弘の視点がすごく面白くて、エッセイや対談本もよく読んでいる。言葉使いの多様さも、さすが有名歌人と思わせるものが多く、上の引用もさすが!となった。カスタネットガールって。本当にあったエピソードかネタかはどうでもいい。カスタネットガールという語感の響きを知っただけで元をとれた。

満足に歩けないことからくるストレスは空想を引き起こす。先日図書館に行ったさい、普段はあまり手に取らない旅行記や海外の生活エッセイなどを数冊借りてきた。パリ、ロンドン、ポルトガル、ミラノ。言葉と写真からイメージを膨らませ、そこにいる自分を空想する。石畳を歩く感じ、青い屋根と白い壁、その路地に作られる影、路地を抜けた先にある海。マルシェに霧、ナイトクラブと吸い殻、ネオンとドラッグ。そしてどこの世界にでも響いている音楽。例えばお金が無くて大きな買い物ができなくても、日々スーパーで食材を買うことで欲が満たされていくように、散歩しながら季節の手触りを味わえないとしても、本の世界で満たされる『動いて、見たい』と欲望。

小刻みに小さいあれこれをして過ごした一日。今日の印象もまた、薄くのっぺりとした、語るに値しない日になってしまう。ハレとケのハレはまだまだ先か。待つことの意味を思い知らされる。




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