弱さの共有

自宅療養51日目。5:00起床。起きがけにドラマを2本観る。『believe』7話と『リベンジ』9話。両方とも急展開だが、茶番感が目立って面白さが半減してしまう。シーンごとの強さや説得力が足りず、展開の妙だけで無理矢理進めているような。今日は本が2冊届く予定なので自宅待機。家でできるリハビリを頑張る。

忘れないように昨日教わったリハビリ内容をメモする。

・怪我した足首周りをマッサージ
・体全体のストレッチ
・椅子に座ってつま先立ち
・立ったまま両足でつま先立ち
・床に座り足を伸ばしタオルを引っ掛け手前に引っ張る
・スクワットする
・お尻を突き出していいから深くスクワットする
・手すりのみで階段昇降
・杖無しでの室内歩行練習
・左足全体の筋トレ

まだまだやる事が多い。杖無しでも少しだけ歩けるようになったが、昨日のリハビリで歩く姿を鏡で見せられて愕然とした。自分ではきれいに歩けていると思ったが、全くそんなことはなかった。足を庇いながら歩くので、ぴょこぴょこと小さく跳ねていた。いかにも足が悪そうな歩き方だった。

骨はくっついたらしいので、怯えずに攻めたリハビリをしていこう。体力もつけないとダメだ。せめて自転車があればよかったのだが撤去された。図書館に行けば本を選んでいる時は止まれるので良いリハビリになるかもしれない。ただ外を歩くより、目的の本を目掛けて歩く方が気も紛れるだろう。

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昨年読んだ宮坂道夫さんの『対話と承認のケア』(医学書院)という本に、こんなことが書かれていました。「私たちは〈いずれ死んでしまう存在〉どうしであるがゆえに、適切な聞き手になれる」と。
はっきりした根拠なしに唐突に書かれているこのくだりに、僕はすごく納得がいったんです。ナラティブ・アプローチやケアの前提に、こうした「弱さの共有」がある、ということ。
恭平さんが時折かいま見せる「弱さ」には、そういう意味があるように感じます。もちろんこの発想は、まだ一般化することはできません。
ただ、弱さや人間的限界は、支援においてはポジティブな意味を持ちうるのではないか、という発想は大切にしたいと思うんです。

「いのっちの手紙」(坂口恭平・斎藤環)を少し読む。アーティストの坂口恭平は個人携帯の番号を公開し、「いのっちの電話」という自殺防止の活動を10年に渡り行っている。その活動について、精神科医の斎藤環と手紙をやり取りしたものをまとめた本。全文引用したいくらい優れた本で、2.3回は通読している。

自殺防止の相談に乗るのだから、しっかりしなきゃいけない。そう思うのが普通だ。電話がすぐ繋がるようにする、スタッフの相談スキルも大事だ、仕組みをきちんと構築するなど。

でも坂口さんは一人でそれをやっている。自身も躁鬱病を患っていて、電話を取れない時期もある。

「弱さの共有」と言うと少し大げさな感じもするが、これはあたりまえに誰もが行っている。強い立場からのダメ出しに近い自己責任論は押しつけに近いが、弱さからスタートすればまずはジャッジを回避できる。死にたくなるほど追い詰められている存在にとっては重要なことだ。

様々な反発や異論もあるが、この坂口恭平の活動を全面的に支持したい。そして弱さに敏感でありたいとも。

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筋肉をつけるために夜は肉にする。となるとワインが飲みたくなる。酔うのも体力がいるから、今は前に比べて飲みたいと思う機会は少ない。単に合うのだ、肉と赤ワインが。でもどうなんだろう、これも無意識の言い訳だろうか。



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