無年齢者の憂鬱

自宅療養25日目。6:20起床。また朝から素麺。午前中にAmazonから水が届くのを待つ。その後3日振りにシャワー。のちコンビニへ買い出し。健常時にはほとんど避けていた菓子パンの中毒になってしまった。帰宅後にバターロール6個、小さなクリームパン4個、コロッケパン1個をあっという間にたいらげる。何かのタガが外れている。

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『不滅』(ミラン・クンデラ)を少し読む。文庫版の奥付けを見ると1999年発行となっている。25年前だ。確か文庫が発売されてすぐに買ったはず。今まで何度もチャレンジしたが、読み通すどころか50Pにも到達していない。一気に読めるような本ではないので、気長に読んでいこうと思う。今回はどこまで読めるのか。

たぶんわれわれはある例外的な瞬間にしか自分の年齢を意識してはいないし、大抵の時間は無年齢者でいるのだ。


2.3ページ読み進めたところにこんなフレーズがあった。無年齢者という新鮮な響き。老いは体に刻まれるが、精神や振る舞いは必ずしも年齢通りの表現をしない。老いの喪失、時間の停止。

クンデラの本は、はっとするようなアフォリズムに満ちている。『存在の耐えられない軽さ』もそうだった。だから彼の本を読みたくなるのは、物語を堪能しようというわけではなく、人間はどういう存在かを物語の形式を借りて炙り出していく過程でこぼれ落ちた確信の言葉に出会いたいからだと思う。

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今日もまた足をマッサージする。今までなるべく患部を見ないよう、触れないようにしていたが、少しづつ慣れていかなければ。鉄の板で骨を固定しているが、残念ながら外から触ってもはっきりとその存在がわかった。

くるぶし周りの皮膚は薄いと先生は言っていたが、何かの拍子に飛び出したりしないか心配だ。だって板の厚みだけ皮膚が盛り上がっているのだ、人差し指で弾くと、そこだけ固い音がする。時間が経てばなじんで、肉体の一部になり、気にもかけなくなるだろうか。

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面白いドラマも無いので映画でも観ようかと思うが気分が乗らない。なぜだろう。ドラマは1話60分、映画は短いので90分くらい。ドラマを連続で観たら120分で映画の時間を超える。だから時間の問題ではなさそう。

ならばなぜ。理由がわからない。仮に一つ考えられるとすれば、ドラマは観ながしてもよく気持ちの準備がいらないが、映画は先に気分をチューニングする必要があると心のどこかで思っていることだろうか。自分の中ではドラマも映画も等しく好きだと思っているが、実は優劣をつけているのかもしれない。

優れたものを堪能するには、こちらもその準備が必要で、今日の自分にはその資格が無いということ。普段ならどうでもいいことだが、もう2ヶ月近く何もせず入院と自宅療養でほぼ誰とも会わず口もきかない生活をしていると、自分と対話するしかなく、その弊害なのだろう。普段思いもしないことがどんどん議題に上がってくる。

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日常の中で、インプットとアウトプットの量が圧倒的に足りない。仮にこれが何年も続くとする。仕事があっても誰とも口をきかないと仮定すれば、コミュニケーションの能力低下は避けられない。それをひきがねにして、さらには少しづつ狂っていくことすらあるのではないか。そんなことを思う。

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