老いることは訂正し続けること

では、老いるとはなんでしょうか。それは若いころの過ちを「訂正」し続けるということです。30歳、40歳になったら20歳のころと考えが違うのは当然だし、50歳、60歳になってもまた変わってくる。同じ自分を維持しながら、昔の過ちを少しずつ正していく。それが老いるということです。老いるとは変化することであり、訂正することなのです。

東浩紀「訂正する力」

自宅療養75日目。6:55起床。足首の腫れというか浮腫みがやっと治まってきた。ボコっと腫れたような膨らみが少し萎んでいる。これは良い兆候かといつもより入念にマッサージをする。とはいえ足首を曲げた時の角度が一定ラインから戻らない。これが戻らないと、階段を降りる時に交互に足を出せず、一段づつ両足を乗せながら降りなければならない。膝の痛みもまだ残っていて、長く歩くほどに痛みは蓄積していく。リハビリのためには歩く必要があるが、その度に痛みが残り続けるという矛盾。

図書館に期限切れの本を返却に行く。行く場所があるだけでありがたい。50過ぎの仕事も無い男が訪れていい場所なんて酒場か公共施設だけだ。無印のリュックに本を詰めて足を引きづりながら歩いていく。土曜日の今日、町田の街は人であふれている。道路一本挟んで、自分は神奈川県相模原市の住所である。小池蓮舫石丸その他のお祭りには参加できない。

図書館と100均を回って、何となく飲むかという気分になる。よくわからないスーパーで500円の見切りのスパークリングを買い、ネギをカットしてもらう。若い女性の手慣れてないネギのカットを見て、おぉ大丈夫かい?と声をかけてしまい後悔する。オッさんの存在価値は無く、何かコミュニケーションをとれば怪しく見られてしまう。本当に恐ろしい世の中だが、自分が中年になってよくわかる。オッさんは基本的に気持ち悪い存在だ。役に立ってないし害しかない。

肉を焼く、スパークリングの栓を抜く、ボンッ!と懐かしい音がする。相当飲んだつもりだが買った赤ワインのボトルが残る。歳のせいか怪我のせいかわからないが、摂酒量のカウントに齟齬が生じる。老いることの実質的な知覚。

酔った勢いで音楽を聴きまくる。音楽はダイレクトに恍惚をもたらしてくれる。理解する頭も、コミュニケーションもいらない。タップ一つでご機嫌になれるドラッグだ。いろいろ摂取してシーアのシャンデリアをリピートして酔い覚ましする。

一日をきちんと終えるには、太陽が沈むだけでは足りない。今日も仕事を頑張ったぞとか、あとは明日続きをやろう今日はここまでみたいな、やり切った感や翌日への連続性が必要だ。そういう意味では、何日もの間、今日一日を終える事ができていない自分しか認める事ができない。

古くなったキッチン用のタオルやダスターを一新する。グレーで統一していたが、やはり基本のグリーンに戻す。これが自分の色彩であると心から断言できるのがグリーンで、もう30年以上、その地位が揺るぐことは無い。普段から頭の中がとっ散らかっていて癒しを必要としているからか、大地の色彩で一体感を得たいからかはわからないが、とにかくグリーンがしっくりくる。これで料理の質が上がればいいと思いつつ。




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