傷を舐め合う

自宅療養61日目。6:50起床。日記をつけることに飽きてきたのだろうか、毎日更新が途絶え、日中にメモアプリを起動する回数が減ってきた。足が治ってくるとともに、心は、仕事モードの運転手を新しく雇ったのだろうか。例え仕事を開始したとしても、この日記を書くために日々を過ごす自分と、食べていくために労働に耐える自分のは、2人で存在しなければならない。そしてもう1人、その2人のバランスを取る自分も必要だ。三位一体が理想である。

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『傷を舐め合う』という言葉がある。あまり良い意味で使われることはないが、弱い者同士が、そっと柔らかく濡れた舌で、お互いの傷を癒し合うという状況は、美しく、稀有なものでもある。指先でもなく、もちろん道具や機械でもなく、温かい唾液でいたわり合う。そういった行為は『退行的だ』と、低く見られやすいが、発達過程の初期に傷ついた人たちにとって、安全に退行できるというのは、回復における大きなステップである。

『トラウマにふれる』(宮地尚子)を読む。『傷を愛せるか』がとても良かったので、様々なレビューを読んで借りてきた。

彼女の文章は映像的だ。もちろん専門的な説明の部分は理解できない部分もあれど、美しい表現によって、その理解できなさが幾分軽くなる。理解できなくとも先に進みたいという欲にかられる。

『安全に退行できる』こと。弱さを抱えた大人たちのセーフティゾーン。『傷を舐め合う』ことから始まる回復への小さな営み。それは安全な場所で、極々少数で、秘密裏に行われる。小動物の巣である穴倉のように。セックスにおける赤ちゃんプレイ。幼児退行のそれも、トラウマを回復するための代償行為だろうか?

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少し離れた場所にあるスーパーまで行く。歩くと40分ほどかかりそうだが、リハビリも兼ねて、杖なしで行ってみる。やはり最初の10分が限界で、それ以降は歩く速度が半減してしまう。

そのスーパーに行きたいのは野菜が安く新鮮だから。朝食は大量の野菜サラダを食べることが多いが、怪我の後は食べておらず、そろそろ限界だったのだ。

そのスーパーのすぐ近くにドラッグストアがあり、そこでドレッシングを買いたいのも理由の一つ。他のスーパーでも売っているところはあるが、値段が違いすぎる。通常168円のドレッシングだが、そのドラッグストアでは128円で売っている。一度に5.6本まとめ買いをするので、どうせなら安い場所で買いたい。

レタス、人参、大根、茗荷、セロリ、カイワレ、キャベツ、ラディッシュ、アスパラなどを一気に買い込む。たくさんの野菜を抱えていると不思議な幸福感がやってくる。自分の場合は、肉を食らうことよりも、野菜を喰む方が動物的で野生的な感じがする。大量のサラダを食べることは健康のためとかではなく、野生を取り戻す作業なのだ。

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アマプラにドラマ『ごめんね青春』を見つける。2014年の宮藤官九郎の脚本だが、知らなかった。クドカン作品はほぼ追ってきたのだが、まだまだもれている作品があるみたい。一度調べて未見の作品をメモしておこう。

想像以上の面白さで一気に全話観た。アホくさい伏線の多様、モブキャラの細かい設定、バカバカしいセリフと感動的なセリフのスカッシュみたいな応酬。

不適切なセリフもたくさんあるが、決して差別的には感じない。そこにいる人々を丸ごと認めるために必要なセリフのように思う。

仲間とか家族とか、人が集い、共に生きていく。その中で起こるドラマのおかしさ。やはりクドカンは喜劇と悲劇を同時に描くのがうまい。クドカン作品を観ていると、自分もその輪の中に入りたいと思うことが多い。不思議だ。

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読書がおろそかになっているので、毎日少しでも読んでいかなければ。気分に左右されると本を読む時間は確実に減る。働き始めたらなおさらだ。少しの時間でもいいから本を開く、1ページでもいいので先に進める。その繰り返しを習慣づけたい。




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