無為

自分の人生を使って何かを試すこと。それが人生のようにも思うのです。

ナガオカケンメイ「ナガオカケンメイの考え」




自宅療養66日目。5:40起床。昨日模様替えをしたせいか、新鮮な感覚で目が覚める。足の痛みが酷くなっていてうろたえる。きょう一日様子を見て、明日も痛むようなら診察を早めてもらおう。室内を歩くだけでもキツい。3週くらい前の状態に戻ったような痛み。もうこれ以上の仕打ちは勘弁してくださいと、どこかでほくそ笑んでいそうな意地悪な神様にお願いする。

音楽もかける。今日はスタイルカウンシル。懐かしいと思いながら聴いていると、BGMとしてちょうどいい。好きな曲が流れるたびに意識をそちらに取られて気が散ることがない。ポップさがあるけど、自分好みのポップさでなく、アップテンポからミドルなバラードまで幅広く揃っている。今後も朝のBGMとして流していこう。

試されているという言葉は比較的よく使う。それに反して、試していると言う機会は少ない。受動的な思考、能動的な行動。試しているというセリフは自ら動いていないと出ない言葉。受け身には自分のエッセンスが少ししか入っていない。だから他責思考に繋がりやすい。何となくそう思った。

朝ご飯をきちんと食べる。食器も洗う。室内を箒ではく。シーツその他を洗濯して干す。コーヒーを入れて一服する。昨日買いた日記を投稿する。ここまでは順調。

カフェだと2時間でも3時間でも椅子に座っていられる。仕事したり本を読んだり、考えを書きつけたり、何かしら作業しながら心地よくいられる。でも部屋のほうが自由度が高い。室内をカフェ化すれば良いのでは?と思う。それには何が必要かと考えたら丸テーブルではないかと思い立つ。仕事用のデスクが黒だから、今の室内の印象が硬くなるのだ。

必死に想像してみると益々そう思えてきた。センスある小さなノルマ花瓶にドライを刺して、あとは何も置かない。本があり、コンセントボックスや各種ケーブル、ノートや書類が目に入る、いかにもなデスク。これを脱したい。とにかく木の温もり的なやつと大量の観葉植物。これで居心地の良い部屋になって、わざわざカフェに行かずとも済むのではないか。

今日も鬱々としているが、とりあえず買い物に行く。大きなスーパーのワインコーナーでボトルが可愛いからと一本買ってしまう。飲むつもりは無かったのに。欲望が喚起されることで安心する。本当に鬱になってしまったらこれどころではない。ワインだけでは安心できず、ビールやストロングゼロも買う。欲望が新たな欲望を産んでいく。おつまみとかチーズも加えて会計をすると思いの外高額になってしまう。生きるための食料確保ではなく、純粋な欲望の値段。

アジアンタムが風にそよいでいる。スーパーの入口にある園芸店で。値段も大きさも手頃なのでお迎えしようかと思ったがやめた。育てるのが難しくて、過去に3.4回失敗している。でも帰ってすぐに後悔したので、次回残っていたら買ってしまうのだろうな。酒なんか飲まずに植物を買えばいいのに。

足の痛みが酷く、酔った勢いで寝てしまう。そんなダメな日。

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