間違いの鮮やかな流れ

自宅療養58日目。5:30起床。熟睡できてないせいか起きがけのダルさがすごい。水を飲んで少し動くとエンジンがかかって、ダルさは気にならなくなる。気温のせいならいいのだが、老化によるエンジントラブルだったら嫌だな。ゆっくりと性能が落ちていき、あるとき突然に気づく。こんなに劣化したのか…もうおしまいだな、と。

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左手一本不自由になっただけで、見える世界が一変しました。そう書くと負け惜しみ、あるいは泣き言に聞こえるかもしれません。しかし利き腕という、ある意味で自由や支配の象徴に制約が加えられたからこそ、見え始めた何かもあるのは事実なのです。

牧師である沼田和也さんのツイートより。沼田さんの本は過去に読んでいた。いつかこの方の礼拝にお邪魔できればと、ほんのりとだが思っていた。同時期に骨折したので、沼田さんの骨折ツイートには共感しかない。

僕の場合は足だが、本当にその通りで、世界が一変した。できていたことができなくなることには絶望感しかなかった。足の場合は移動の制限が露骨に現れる。自らの足でこの場を去れないこと、どこかに向かって歩き出すこと。自由の制約。

必要に駆られてもそれができない不自由。両膝をついて目の前10cm四方の床を拭くだけで膨大なエネルギーを必要とする。負荷もかかり、痛みを増幅させることにもなる。ならば他の方法はないかと探る。代案を試す、うまくいかない。別の案を試すがこれもダメ。しまいには諦める、そして思うのは『部屋が汚いままなのは俺のせいではない。無理なもんは無理だ。』ということだ。

常に代案を探すことが大切だが、できることとできないことの境界が見えたらスパッと諦める。そして別のことに目を向ける。

リハビリの努力でできることには限りがある。10倍の量をこなしても治りが10倍早くなるわけではない。体が自然に治癒するためには一定の時間がかかる。その最低ラインとリハビリの量の見極めが大事。

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今日はリハビリで病院へ。毎週だった診察は月一に変わったので、リハビリも2週に一度でも構わない。しかしリハビリの先生に具体的なやり方を教えてもらい、自分の勝手な思い込みを修正しながら、適切に体を動かすことが必要なので、週一をキープする。

家の前にあるドラッグストアでの買い物は、杖無しで何とかいけるようになった。ただ、めちゃくちゃ疲れるのと、左右に揺れる歩き方を何とかしたいと伝える。

結局、足を庇うために楽な角度を自然に選び、患部の左足を捻りながら歩いているとのこと。そうすると膝に負担がかかるから痛むのは当然。さらには、今度はその膝を庇うために杖に余計な体重がかかる。そうなると杖を支えている手に負荷がかかるから、右肘が痛むという流れ。自分の痛みの原因が間違えた歩き方にあることを鮮やかに教えてくれた。

とにかく足を真っ直ぐ出すことに意識を集中させ、速度は落ちるが、一歩づつ進む方法に切り替えよう。長距離の移動時は難しくとも、それ以外はこの方法を癖つけていこう。

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病院の帰りにスーパーに寄る。怪我してから初めて。野菜と切れていた調味料系を一通り買う。たまにはお弁当を買おうかと覗くが、全体的にボリュームが減っている。たいしたものを買って無いのに会計の値段を見て驚く。食材関係の値上がりはここまで酷いのかと初めてわかった。ともあれスーパーに行けることになったのが嬉しい。野菜の値段だけは極端に上がらないでほしい。




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