人はでたらめに死んでいく

「人はでたらめに死んでいく」とハメットはその理念を表現している。「生きているのは、盲目の偶然が見逃してくれているあいだのことでしかない。

ポール・オースター「オラクル・ナイト」


自宅療養78日目。7:30起床。窓から差し込む光の強さで目玉焼きが焼ける。すごい息吹だ。毎日やってくる太陽に、君は律儀だねーと思いながら、昨日の飲み残しのワインを流しに捨てる。なぜだろう、ワインや酒を捨てる時に、心の中でごめんねと言っている。いま唐突に思い出した。おそらく毎回呟いている気がする。これはなぜだ?無意識にアプローチできそうな感じだが、思いつく答えは冴えないものだ。

父親はアル中で、その死に目にも立ち会わず縁を切っていたが、酒が父親の象徴だとすれば、それを捨てる時にごめんねと言う事は、父親に対して謝っているということか?謝られるのはこちら側なのに。朝から気持ち悪い想像をして後悔する。

仮に、生前文句をぶつけて謝罪させるとする。老人の親に対して詰め寄り、おそらくどちらか、もしくは両方ともが涙を伝わせながら怒鳴りながら謝罪を要求すること。そうしたとして。やはり詰め寄った後味の悪さが残るだろう。罪悪感も生まれそうだ。

そして今の自分は、多少薄まったとはいえ、まだ父親の呪縛に囚われている。いや、本人が死んだ時点で脱したはず。なのに時折思い出しては苦々しい気持ちになる。

いずれにせよ、一度刻まれた記憶は失わない限り影響を及ぼし続けるということか。面倒だ。家族以外の良い記憶もたくさんあるのだ、一秒でも一瞬でも、その記憶を呼び起こしたい。そうこうしてるうちに自分も死んじゃうよ。

ダイパやコスパ。人生が有限であるかぎり、こんな言葉が幅をきかすのも当然だ。しかしなるべく遠ざけたい言葉である。目的がはっきりとしすぎているから。何かをする時、そこには時間の見積もりがある。この作業なら30分でできるな、この本を読み終えるにはまる一日かかるなとか。少ない時間で、少ない労力で物事を終わらすことは悪ではない。しかしその過程を楽しむ場合は、時間か労力、もしくは両方ともを犠牲にする必要がある。優先順位が変わるから。

なかなか本が読めない日が続いてるなー。どうにかしたい。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?