体の持ち主の務め

自宅療養44日目。5:00起床。雨。午後は晴れるそうなので、リハビリを兼ねて本を売りにいくつもり。本が増えると昔の芸術至上主義の自分は喜ぶが、今のミニマルな生活を求めている自分がNOを突きつける。間をとって、売ったお金で別の本を買うことにする。大した金額にはならないから、その取引でちょうどいい。もしお金が残ったら大福でも買って読書のお供にする。そんな小さな贅沢が愛らしい。

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自分を適所においてあげるということは、体の持ち主の努めだと思う。
(中略)
単に退屈して不満で病みそうなのか、ほんとうに向いてなくてそうなのか、少し動き方や場所や角度を変えたら大丈夫なのか、それでもどうにも合っていないことなのか、自分のことは自分にしかほんとうにはわからない。しかし、自分の大嫌いな仕事でも他の人から高い評価を得ていたら、向いている可能性も否めない。自分の体を適所に持っていき、なるべく疲れず、でも毎日ちょっとづつ限界を超えていける幸福なつきあいを自分とできるようにするのもまた、持ち主の務めだ。

『生活を創る(コロナ期)』(吉本ばなな)を読む。ばななさんのエッセイは、どのページを開いても適度に刺激的なフレーズが目に止まる。この『適度に』というのが大切。のちに考える余白を残してくれる。

これがズバリと言いあてるダーツの的の真ん中にヒットするような内容だと、そこで感動してしまう。感動は呆然とセット、生まれるはずの思考が生まれる前に死んでしまう。

生活者としての自分に寄り添うような軽いテイストのエッセイだけど、この『どくだみちゃんとふしばな』のシリーズは、読んで楽しんで終わりではない。心の花壇に種を植えてくれる。大胆な決断や作業を強いるような直接的短期決戦な大輪の花が咲くのではなく、決まった季節に咲く花のように、時期によってその景色が変わる花壇になる。

毎日ちょっとづつ限界を超えていける幸福なつきあいを自分とできるようにする。

例えば『日々自分を超えていけ』みたいに、短縮した別の言葉に置き換えたら身も蓋もない内容のことも、丁寧に糸を紡いでいくように言葉を配置し、その意味を的確に、そしてソフトに伝えることで、全く響きが変わる。

毎日
ちょっとづつ
限界を超えていける
幸福なつきあいを
自分と
できるように
する

一人の自分だけではない。二人の自分がきちんと表現されている。『体の持ち主の務め』の言葉に、深く深く頷く。奇しくもいまトラウマケアの一環として、インナーチャイルドの癒しを実践している。『怠けはネグレクト』このフレーズもまた、自分をメタ視点に立たせてくれる。心の中の人称の曖昧さを、『ケアする私とケアされるわたし』に分けてとらえる事ができる。

本を読み続けているとこういうシンクロがたびたびやってくる。それは文字通り、『相手としてやってくる』感じがある。言葉と概念が人の形に姿を変えて、こちらに向かって歩いてくる。目の前に立ち止まったら握手をする。ばななさんの本は少しスピ的な要素もあるので、自分の中にあるスピ的な感覚が鋭敏になるのかもしれない。だがそれは歓迎すべきことなのだ。

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本を売りに行く。甘いものをピックアップする。怪我に気をつけて帰ってくる。いずれも成功した。いい気分だ。しかし歩みは以前遅い。一歩づつ確実に歩くため、連続して足をだすあの感じからはほど遠い。いまもまだ歩ける気がしない。杖無しで、痛みもなく、交互に連続で足を出し、タイムラグ無く、滑らかに進んでいくこと。これが全く想像できない。マイナスに引きずり込まれないよう気をつけなきゃ。とにかくうまくできたことにフォーカスをあてること。頑張ろう。

来週は遠出しなければならない。怪我してから初めて電車に乗る予定。めちゃくちゃ怖い。



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