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神秘体験とは

どこから話していゆくのが良いのかわからないのですが、神秘体験と言うものの意味は何かと言う形で話してゆこうと思います。

神秘体験と言うのは、結論から言えば、定常状態に生きている人間の感覚とは別に、思っても見ないような逸脱した感覚を得た経験であると言えます。
それは間違いなく存在します。

なぜなら人間は簡単に言えば、世界を受け止める感覚的受容体であると言えますが、それを支えているのは、生物的生理レベルであります。
生理レベルがいつもと大きく違うようになった時(例えば病、大きな怪我、意識的な定常レベルを逸脱するような肉体使用など)、いつもとは違う感覚状態の経験が生じるわけです。
例えば、重い荷物を背負っていた重さの感覚から一気に解放されるとか、霧の粒子ひとつぶひとつぶが見えているような感覚になるとか、美しい光の束を目の奥に感じるとか、体の中にあるエネルギーのような流れを感じるとか、つまり感じてしまうと言うことなのであり、それを錯覚だなどと言っても意味はありません。それを錯覚だと言うならば、定常レベルで感じていることも錯覚だと荒っぽい論理では言うことができてしまうのではないでしょうか。

このことにどのような意味があるのかについて考えてみたいと思います。別の言い方をすれば神秘体験に強くこだわってしまう人は何を求めているのかと言う事です。
人間という生き物は、意識したり時間の流れの中において自分を統一していきたいというどうしようもない本能があると言って良いでしょう。物理的あるいは生理的的次元において逃れようもなくそのように無前提に規定されている生き物なのです。

このような規定が生きることを苦しいと感じさせる元になるのです。

人間が生きる周りの空間、物理的な空間や環境もそうですが、それ以上に自分が生き続けるためにくぐり抜けて行かねばならぬ社会と言うものがあります。社会はある幅を持った共通の価値観に支えられたようなある仕組みを持っています。この仕組みに違和感なく、さらにその中で良いポジションを得ていくことができる人は疎外を感じないで幸せに生きていくことができるのでしょう。しかし、その仕組みや価値観に違和を感じ始めたとき、彼は苦しみ始めるのです。
自分の外にある価値観やその仕組みこそが現実的であり、さらには、正しいものであると人はまず感じてしまいます。しかしそれはどのような根拠に基づいて正しいと言えるのか、あまりにも巨大なものであるので悩む個人はそれ以上の思考を進めることができなくなってしまいます。
そんな時に、日常の感覚と全く違うものを感覚させる神秘体験を得た時、この世には目の前に広がっているものとは違う存在のあり方の可能性があるのだと言うことの端緒を論理ではなく一挙に獲得してしまうのです。

つまり、神秘体験とは、自分の周りの世界に対し異和を感じている人にとって出会うべくして出会う体験であり、世界のあり方の相対性を確信させるきっかけでもあるのです。
そのような意味で神秘体験とは、1つの革命の端緒となるものであるのかもしれないわけです。

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