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朝日新聞政治部 を読む。

「朝日新聞政治部」を読んだ。問題の核心は、福島原発の吉田所長が供述した調書を朝日がスクープしたが、それは誤報であったと朝日新聞自体が謝罪したと言うことの是非である。

このケースはそんなに複雑なことでは実はない。

スクープした調書は、本物であったわけであるから、虚報であったわけではない。
ただ、「誤報」をどう定義するのかと言うだけの問題である。形式的には。

この問題は報道と言うことの構造をよく表している。
記者たちは、①隠された、あるいは隠れている事実をまず掘り出す。
そして、②掘り出されたものが何であったかと言うことを文章にして伝える。
報道すると言う事は簡単に言ってこの2段階の作業があるわけだ。

吉田調書の問題は、2番目の掘り出されたものは何であったかと言うことの表現の仕方に問題があったと言えよう。
具体的に言えば、大部にわたる吉田調書を入手した。そして、そのことによって、国民に知られていなかった何がわかったかと言う事をどう表現したのかということである。
朝日新聞は、吉田所長の命令にもかかわらず、部下たちが、原発から遠いところに勝手に避難してしまったと言うことがわかったと言うことを最大の発見として伝えている。

この記事をリアルタイムで見た時、私には違和感があった。新聞と言うのは随分と冷たい見方をするのだなと思った。もう少し客観的に言えば、吉田所長の命令は、組織的な意味で厳守せねばならない命令であったのかと言う検証がなされていないではないかとまず感じた。平たく言えば、ここに踏みとどまって次の準備をせねばならないと所長は言ったかもしれないが、そうしなくても良いともっと上層が伝えたのかもしれない。仮に会社としての命令だったと言えたとしても、命の危険が迫っている時に、そのような命令に従わないことが罪であるような表現をしてしまっても良いのだろうかと感じたのだ。
多くの市民がこう感じるのではという感性を失った時、その記者は危うい。そこにこそ問題の確信があることに気づいていない。ただ掘り起こしたことに興奮しすぎているか、傲慢になってしまっているかである。

むしろ記者がここで取り上げるのは、非常時における命と引き換えになるような命令に対して人々はどう受け止めればよいのかと言うような考察を深める、あるいは、それを強制できる体系とは何かと探るようなことではないか。ちなみにこれはゼレンスキーとウクライナ国民の今の関係と形式的には相似である。そこから思考が始まったりするのだ。

朝日に対する無前提の右からの強い攻撃が、国民の「それは言い過ぎではないか」という声の基調に乗っかって朝日は激しい攻撃を受けることとなる。この攻撃も、何がダメかというより全てダメという実に暴力的なものだったとの印象が私には残っている。政権自体からの醜い攻撃が生産性のない攻撃を底支えしていたように感じる。
著者が言うように、慰安婦証言の問題と池上著述への問題が同時期に重なっていたことも攻撃を激しくした。というより、むしろこの後者二つの方が何がまずいかがこの時点では明確であったのに、朝日新聞首脳は、吉田調書の件だけをを謝罪したと言うわけだ。

報道というものを二段階に分けて考えてみてはと述べたのであるが、この事は、報道の仕方について考えさせられるヒントともなると思う。

結論から言えば、報道すること自体が、それを受け止める者のリテラシーを高めると言うものでなければならないと思うのだ。具体的に言えば、伝えるべき真実と言うのは、二、三行で表現できることではないと言うことだ。なぜそのようなことが発生したのか、それが人間によってなされたことならば、断罪することのみでなく、なぜそのようになってしまったのか、むしろ同情できるような要件を挙げてやらねば、読者は、事件の正しい全貌のイメージを得ることができないからである。報道は、そのすべての総体の中から断罪するもの、あるいは、今後において具体的に改良できる点を分析し明示していかねばならない。そういった塊で伝えられることが、報道を受け止める人々への報道に対するリテラシーそして社会について深く考えていく契機となるのだ。
わからないことは、この点だということをはっきり示す、あるいは、きちんと明示すれば、全体が理解しやすくなるなら、不明点についての可能性の先読みを全体図の中で示しても良いのかもしれない。
社説や解説でそのようなことをやっていると言い訳をする記者もいるのかもしれない。しかしそれは違う。事実レベルにおいてこそ、断罪する前に、総体をもっと読者に提示せねばならないのである。その意味ではむしろ、朝のテレビの良質な情報番組の方が国民にとっては有意義なのである。。

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