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オリンピックの可否以前に日本が抱える根本問題

コロナとオリンピックの状況が日本人の特性を実によく表わしています。

オリンピックが始まり選手がメダルを取り始めると開催に反対していた者たちを揶揄するような意見も出てくるようになりました。どうして日本の議論は常にこのレベルの言い合いにとどまっているのでしょう。
開催に反対か、賛成か、その結果ではなく、それをどう議論し得たのか、そこでこそ国民のレベルが見透かされると思うのですが。

多少オーバーなことを持ち出せば、日本がアジア太平洋戦争に突入していったのもこういうことだったのだろうなと納得される様が見られるのです。


まずは大まかに箇条書きにしてみます。

①政治的指導者のオリンピック開催にむけての説明力、説得力のあまりにもない様。

②コロナ対策に対する法的決まりと言うものに対する緊張感や理解力がない、かなり場当たり的な対応の仕方。

③国民自身、自分事であると言う意識の欠如。つまり、自身の責任を留保したところからばかりの発想。

④感情で国民を煽って行く結果しか残さないような報道メディアの能力の無さ。論点を深め本当に国民で議論すべきことを用意できない報道の無力。


1つずつやや詳しく述べてみます。
について。
例えばなぜそれほどまでにオリンピックパラリンピックをやることを前提とするのか、政権は何かを隠しているのかと思わずにはいられないほど説明をしない。説明を求めてもただ大丈夫なようにやると言う返事しかしないコミニュケーションしかできない首相。わざとやっているのでなければこの時点で首相などやっている資格はない知能程度です。また、わざとやっているとしたら、とても民主主義国家の首相として許されない。
メンツなのか、使ってしまう金の大きさなのか、どちらにしてもそれらが具体的にどのような構造を持っているのか、やることとやらないことの比較考量をまず説明するのが民主国家の当然でしょう。そこに最後には価値の問題も出てくるでしょう。その時、価値の問題の整理において国民からの納得を得てゆくのが政治家のリーダーシップの初源なのですが。 
例えば、経済のためには、日本人が今より多く死んでゆくのは多少なら仕方ない。交通事故だってそうではないか。と言うのか、経済の痛みを国民全員で受け止めながら、一人でも死んでゆく人は増やしてはならないというのか

メディアもなぜそこまで政府はオリンピック開催にこだわるのかを突き止めて解明してくれるところはありませんでした。

専門家たちの発信にも多少問題があります。科学レベルの説明において、コロナはどうやって広がるのかと言うミクロ的な考察から、細かく導かれるべき対応策の視点追及ががゆるすぎます。
例えばクラスター分析とPCR検査の数の低さについて正直な議論がなされていたのか、これも曖昧でした。また人間の行動を細分化しどの部分でのどのようなアクションをしてしまうことが感染の率をどのぐらい高めてしまうのかと言うようなことから行動制限を丁寧に国民に提示するということも進んでいません。飲み会は危険です、レベルで終わりです。例えば、長く家族でひとところに暮らしている者たちが密閉した車で移動し、家族だけでホテルの1室で食事をし、他人と10メーター以上接近しないような観光地で過ごして帰ってくると言うような行動パターンはダメなのか、つまり、それが守れるなら大丈夫であると言うことをきちんと細かく説明し、それを保証できるような仕組みを作っていくと言うようなことに思考が動いていかないのです。

また、飲食店需要の消失などと言ってあとはどう金銭的に補助するかに議論はなってしまってますが、飲食店の需要が消失したそのかわりどのような需要が増大しているのか、あるいは、現時点と未来の需要の置換などの発想を深め、ITの得意なマッチング技術を使った未来需要の現在固定化などを考えて経済安定の方法を探ったり、共存と言う前提での税法の一時的改定ななども議論してみたら良いのではないでしょうか。
メディア自体でも こうした落ち着いた論理的な提言、深堀りができず、ただ能力の低い政権に罵声を浴びせるようなことで終わってしまう、政権からの情報の垂れ流ししかしてないようなメディアが多いのです。

国民もまた、規制をかけてくる国に対しもういい加減従いたくないと平気で出歩きはじめます。医療崩壊しても、自分だけは治療してくれると思っているのでしょうか。深く自己の問題として悩む、深く社会全体でそのことを考えてみると言う視点がないのです。
多少深く考えていくならば、今の日本の体制がこのような形とは違う形にならなければならないのではないかと発想することもあるかもしれない。そもそも資本主義原則から言えば、需要がなくなり経営に苦しむ企業や商店をいちいち救うのは当たり前では ない のです。コロナでないがもっと不合理な状況の中で需要を失ない、苦しみ、政府の援助もなく路頭に迷っている人は今までにいくらだっていたのです。ただその数が今回は圧倒的に多いので対応せざるをえなくなっていると言う、論理とは違う次元の現象なのでです。むしろ、このような非常時においては、その時の需要状況による益損失を税的方法で平準化するという体制の方が社会として持続可能性が高く人に優しい体制であるというような発想の入り口までいかないのでしょうか。

日本国民が日中戦争に熱狂的に入っていったことがさもありなんと思うような現状況ではあります。日本人はほとんど変わっていないかったのかもしれません。人命尊重とか自由とかのキャッチフレーズは覚えたがそれを実現するためにどうしたら良いのかについての振る舞い方はほとんど身に付けていなかったと言うことなのかも知れません。

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