2012/06/08_過去日記
(注意)過去の日記をそのまま書き写した記録ですので、引用文の仮名遣いをはじめとした細部が間違っている可能性があります。引用箇所に関心を持たれた方はぜひ原典に当たってみてください。
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グレゴリー・ベイトソンは、学習Ⅱ(*1)から学習Ⅲ(*2)のレベルに到達した感覚をこの詩に託した。
今西錦司の提唱した自然学にも通ずるだろうか。
*1 学習Ⅱ:自分の性格、価値観、流儀、原則など幼少に端を発する変わりにくい強固なもの。
*2 学習Ⅲ:自分の中の暗黙の前提があらわになったり(発見されたり)、ぐらついたり(柔軟性を得たり)、変更されたり(改良されたり)という"変化"のこと。
学部3年から4年にあがる春に起こった、あの躁の時、わたしは学習Ⅲに届いたと思う。あの時の言い知れない幸福感、「全は一、一は全」という感覚、遠い国で起こっていることや動物の息遣いを我が事に感じられる不思議な納得。
これをみな(ヒト全体)で共有できたら、地球規模の問題群(ヒトとして決めたいこと)に向き合い、取り組めることと思う。
けれど、学習Ⅲは精神的混乱を引き起こすことがある。
わたしも、本が話しかけてくるように思えたり、ひとつひとつの事物のコンテクストを意識しすぎて注意散漫となったり、生活しにくくなってしまった(躁が落ち着くとともにそれはなくなったが)。この危険性がある限り、すべてのヒトに薦めることはできないのではないか。
コミュニケーションを進化させることが必要だということだろうか。現時点の学習能力を上げる、そういう適応(「学習Ⅲがもし遺伝的に保証されるようになったとすれば、それはDNAという遺伝情報の変更に関わる」前掲書)。
<つきつめて考えたいこと>
「コミュニケーションの進化」という部分が、今西錦司の提唱した進化論である「棲み分け」論とリンクしそうな気がする。
今西錦司が『生物の世界』で書いている生物的自然の三重構造(種個体-種社会-生物全体社会)が、ベイトソンの学習の階型論(学習Ⅰ-学習Ⅱ-学習Ⅲ)に対応しているという仮説は立たないか。
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わたしは自分のからだも秩序だって機能するひとつの有機体である、ということをすぐに失念する。口にしたものが材料となってからだがつくられること、エネルギーの収支、わたしの気づかないところで常に動き巡るものに敬意を表したい。
精神(Mind)はとても苦しく落ち着くところを知らないが、からだ(Body)は健気に自らの仕事をまっとうしている。MindとBodyを分けてはいけない。それらは密接に関係しあっている。
わたしのからだ、今あまり調子がよくない。この自然をどう「自ズカラ然ラシメル」か。
今西錦司のいう「直観」、日高敏隆のいう「イリュージョン」に対して、わたしのなかでもっと価値を置きたい。
引用文献:
・グレゴリー・ベイトソン「学習とコミュニケーションの階型論」『精神の生態学』 1972(初版).
・今西錦司『生物の世界』1941.
・野村直樹『みんなのベイトソン』2012.
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