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請われたら一差し舞える人物になれ_博論日記(2024/02/25)

学生生活の終わりまで、あと35日。

今週はイベントが続き、若干ふわふわしている。週末の3連休はずっとバイトだったのだが、軒並み早起きができず、コーヒーを淹れることもお味噌汁を作ることもできず、慌ただしく家を飛び出して行った。過食も出ている。
ただ、バイトを休んだり遅刻したりはしていないし、帰宅してからおもむろにお味噌汁を作ることもできている。悪くない。つまり、よい調子だ。

ただ、お散歩をする時間を確保できなかったので、今日は街角で見つけた小さな発見の報告をして、それから今週ふわふわと考えたことを書こうと思う。
(noteアップ日は2/26になってしまいましたが、だいたいを2/25に書きました。)

今日は京都を離れる後輩と大学周辺メシの食べ納めをする約束をしていて、それに合わせてちょっとしたプレゼントを用意していた。
ビーバーをこよなく愛する人なので、佐藤英治 著『こんにちは、ビーバー』(月刊 たくさんのふしぎ)を選んだ。
ラッピング袋が家になかったので、バイト後に四条通りのDAISOを訪れたところ、不思議な扉の存在と、不思議な扉の中身を同時に知ることになった。

これである。

DAISOのお隣りの田中彌という老舗人形店の、シャッターの支柱とおぼしきものが、ひっそりとこの細長い扉のついた箱に納められていたのだ。
こちらのDAISOには何度も足を運んできたが、こんな扉(箱)があるとはついぞ知らなかった。たまたまDAISOの開店時間前に到着し、ぼんやり店の前で待っていたからこそ気づけたことである。
田中彌の方がシャッター周りの開店準備を終えて扉を閉めると、箱はすっと気配を消した。

今週ふわふわと考えたこと。

■アイリッシュ・パブにて

週一開催されるチームミーティングの後、送別会ということでみんなで回転寿司に行った。先生2人と学生・院生5人、総勢7人でたらふく寿司を平らげた後、記念写真を撮り、みんなよい気分で「せっかくだから」と二次会へ流れた。
行き先は、先生のご友人がやっていらっしゃるアイリッシュ・パブだ。

泡のきめ細かさにみんなではしゃいだ

そこには小さいけれどライブ演奏のできるステージがあって、古いピアノが置いてあり、壁にはヴァイオリンもかかっていた。

みな普段のミーティングではピリッとしているが、先生のキャラクターから来るのだろう、根っこのところは陽気なチームで、楽曲制作を趣味にしていた院生が在籍していた頃には「チームのテーマソングを作ろう!」と盛り上がったこともある。それは、私以外のメンバーが生き物そのものを観察するフィールドワークをしていることから来ていて、つまり、目的地まで大荷物を背負って淡々と歩いたりサンプルを延々と処理する時などに、みんなで口ずさめる曲が欲しくなったのだそうだ。
結局、テーマソング制作は未完のまま終わってしまったのだが、その時にいろいろみんなの隠れた特技を知ることができた。特に、ある院生がヴァイオリンを弾けること、しかもYouTubeにヴァイオリンの演奏動画もアップしていることがみなの知るところとなった。

ギネスビールをちびちび飲みながらほろ酔い気分で「ここ、ヴァイオリンあるね。〇〇ちゃんの演奏聞いてみたいなあ」と呟いたら、先生が「いいじゃん!」とご友人であるお店の方に尋ねてくれ、なんと弾いてもよいことになった。

そのヴァイオリンは長らく使われていなかったそうで、彼女は時間をかけて調律した。少しずつ音が整っていくのを聞くのも耳に心地よく、また、普段よく見る研究している姿とまったく異なる彼女の姿を見るのも楽しかった。そして調律を終えた彼女は、そのままの流れでさらりと数曲披露してくれた。

おおーっと盛り上がり、そして口々に「かっこいいなあ」と場が華やぐ。聞けば彼女は、鴨川べりで練習していた時に声をかけられて、別のアイリッシュ・パブで演奏したこともあったらしい。
私含めその場にいた面々はみな何かしら楽器を習ったことのある人ばかりだったが「なかなか続かなかったなあ」とか「何年も前のことだからもうできない」などわいわい話す。

そしたら「家に電子ピアノがあって遊びに来た人が弾いていくんですよね」などと話していた、その場で一番の後輩が「あのピアノも弾いていいんですかね」とぽろっと言った。「わあ聞きたい!」と場が湧き、先生がすぐお店の人に確認を取ってくれ、彼は弾き始めた。

披露してくれたのは実直なソナタ形式の曲で、クラシカルな雰囲気になったがそれもまたよかった。先生たちが「なんだか高尚な二次会になりましたねえ」と笑っていた(うちの研究室界隈の二次会と言えば「王将の餃子20人前を研究室で食べまくる」というようなのが恒例だった)。

その場の流れのなかでさらりと演奏を披露し、送別会という特別な時間を一層思い出深いものにしてくれた二人を見ていて、私の頭には「請われたら一差し舞える人物になれ」という言葉が浮かんでいた。いや、浮かんでいたどころではない。「梅棹先生の「請われたら一差し舞える人物になれ」ってこういうことですよね」と思わず口走っていた。

この言葉は、2011年3月末に行われた大阪大学の卒業式の式辞から知った。当時阪大の学長だった鷲田清一先生が引用していた。東日本大震災の直後に卒業する学生たちに向けて語られたこの式辞は、その後だいぶ時間がたってからPDFで読んだ私にも大変強く響いた(ここで全文紹介できないのが残念だ。よかったらこのリンクから読んでみて下さい)。

件の「請われたら一差し舞える人物になれ」は以下のように引用されている。

(前略)
「良きフォロワー、リーダーを真にケアできる人物であるためには、フォロワー自身のまなざしが 確かな「価値の遠近法」を備えていなければなりません。「価値の遠近法」とは、どんな状況にあっても、次の四つ、つまり絶対なくしてはならないもの、見失ってはならぬものと、あってもいいけどなくてもいいものと、端的になくていいものと、絶対にあってはならないものとを見分けられる眼力のことです。映画監督の河瀬直美さんの言葉を借りていいかえると、「忘れていいことと、 忘れたらあかんことと、それから忘れなあかんこと」とをきちんと仕分けることのできる判断力のことです。こういう力を人はこれまで「教養」と呼んできました。
 昨年亡くなられた文化人類学者の梅棹忠夫さんは、亡くなられる直前のインタビューにおいて、いつも全体を気遣いながら、自分にできるところで責任を担う、そういう教養のあるフォロワーシップについて語っておられました。そしてその話をこんな言葉で結ばれました。——「請われれば一差し舞える人物になれ」
 もしリーダーに推されたとき、いつでも「一差し舞える」よう、日頃からきちんと用意をしておけ、というのです。わたしはみなさんに、将来、周囲の人たちから、「あいつにまかせておけば大丈夫」とか「こんなときあの人がいたらなあ」と言ってもらえる人になっていただきたいと心から願っています。そう、真に教養のあるプロになっていただきたいのです。そのために大学に求むるものがあれば、いつでも大学に戻ってきてください。」
(後略)

大阪大学卒業式式辞(2011年3月)
※太字は筆者による。

今回二人は、舞台を前にして皆に請われた時に、見事舞ってみせた。
これはリーダに推されたときに、いつでもその期待に応えられるように用意しておけ、という式辞で示された文脈とは異なっているが、でも同じだと思う。真の教養とはこういうことなのではないだろうか。
あのアイリッシュ・パブには、人々が音楽を楽しみながらお酒を飲むための装置として舞台、そして楽器が備わっていた。そのアイリッシュ・パブの魅力を引き出せる人たちがたまたま訪れ、その人たちは店を訪れるまで楽器を演奏するつもりなんてまったくなかったけれど、「聞きたい!」という皆の声に応えてくれた。
めちゃくちゃ上手だったわけではない。でも、他の人にはできないことを、まるで準備していたかのようにすっと披露してくれたのだ。
そして、その日の送別会はとても思い出深いものとなった。

私はいたく感動してしまった。もともと自分自身がリーダーシップを取ることのできるタイプではないという自覚があり、私の生きる道はフォロワーシップを磨くことだと思ってきた。でも、具体的にどうしたらよいかはもやもやとわからなくて、単にリーダーの後ろで必死についていく人ばかりをやってきた。

二人の演奏を聴いて、「これが「請われたら一差し舞える人物になれ」ということか」と感じ入りながら「ピアノ、私も習っていたのにな」とちくっと思う。
長く弾いていないし、人に披露できる技量もないしという思いが先に立って、私は弾けなかった。
でも、本当に私、ピアノ弾けないのかなあ。

翌日、久しぶりに自宅のピアノの蓋を開けて弾いてみた。指は重くおぼつかないが、1時間かけたらソナタの第一楽章をなんとか弾くことができた。

できるじゃん。

つまり、私にないのは一差し舞う力ではなくて、請われたら一差し舞うのだ、という気概なのかもしれない。それはピアノに限らない。広い意味で、気概がなく、だからこそ準備ができていないのだろう。

4月から非常勤講師をする。学生さんたちに1科目教える。ありがたいことに、請われたわけである。初めてのことで自信はないが、教えられることの引き出しはあるはずだ。ないのはきっと、気概だ。そしてその上の準備だ。

4月まで時間はあまりないが、準備を整え、華麗でなくとも一差し舞ってみせたいと思う。

■読書をして

ひとつめのふわふわをたくさん書いてしまったので、メモにとどめる。

以下の2冊を読んだ。
・六車由実 著『それでも私は介護の仕事を続けていく』KADOKAWA, 2023
・上間陽子 著『海をあげる』筑摩書房, 2020

ものすごくいろんなことを考える2冊だったが、自分の研究に引きつけて次のような着想が浮かんだ。

・野生生物との共存をケア論の地平から捉え直すことはできないだろうか(断っておくと、上記の2冊はケア論の本ではない。私が触発されただけだ)。
・ただし、野生生物と人間がケアしあう、ということではなくて、国際的・科学的な保護や保全の潮流(そしてそれにエビデンスを与える研究者)と地元の生活者の関係性に視点をずらした場合(地元の生活者こそがその野生生物の生存の鍵を握っているという考え)の話。
・そもそも「野生生物保全」や「資源管理」の概念には成り立ちから「するもの(与え手)とされるもの(受け手)」の構図が含まれている。それを脱することが必要なのでは。
・「地域社会の伝統や文化を尊重した保全」という言葉に感じてしまう薄っぺらさを言語化したい。
・生物を保全するために必要な情報としてもちろん科学的知見は重要で、なくてはならないのだが、継続していくためには、地元の生活者の暮らしの観点が非常に重要で、それは「「この生物を守らなければならないという"正しさ"」に対して「考慮しなければならない」程度のこと」ではないと感じる。その比重を考え直す時に、ケア論はヒントにならないだろか。

フィールドワーク中の調査する者、される者を越えたダイナミクスは、ケア論の地平に乗せるとどう見えてくるだろうか。そんなことをふわふわと考えた。

<To Do>
・投稿論文2:修正(3月31日〆切)
・投稿論文1:修正提出。再査読結果待ち
・システマティック・レビュー:二次チェック中
・博論本文:
 5月(予備審査委員会立ち上げ願い)
  7月予備審査?
  9月口頭試問?

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