夏の準備なおいしい話。
季節ものといえば季節ものと言えなくもないコバナシ。
例年とは比べものにならない速さで、梅雨入りした五月。
もう、ダルい。
「桜子さん、へにゃってしてるねえ」
日曜日の午前中、朝ごはんが終わったあとのリビングで、ほづみくんが苦笑いした。
今日のごはんは、チーズがほんのり香ばしいじゃがいものガレットに、パリッと焼けたソーセージ、ツナたっぷりのニース風サラダでした。美味しかった。
私はおなかいっぱいのうちにと、ベッドシーツと布団カバー、枕カバーを洗濯機に放り込んだところだ。ただし、それだけでへたっている。
「うー…シーツとかひっぺがして、洗濯機に入れただけなのに…」
「僕がするから置いといてって言ったのに。それに、洗濯だけじゃなくて、ワイパーで床拭きまくってたじゃん。ダカダカテキパキ動いて、電池切れ起こすんだから」
「だって、朝ごはんも片付けもほづみくんだもん。掃除洗濯くらいしないと、嫁の存在意義が」
「僕、家政婦が欲しくて結婚したんじゃないって何回言えばわかるんだ」
「家政婦とかじゃなくて、旦那さんに上げ膳据え膳してもらうのに気がひけるのー」
「それで、そんな顔白くしてたら、また僕に介護されて上げ膳据え膳だよ」
打ち上げられたアザラシのようにソファで伸びる私に、ほづみくんが「とりあえずクールダウンして」とグラスをテーブルに置いた。
「アイスミルクティ。除湿する?」
「まだそこまでじゃないなー。扇風機、出そっか」
「そうだね……あ」
ハタと何かを思い出した様子で、天井を見つめる。
何ごとかと思ったら、情けなさそうな顔で首を振った。
「桜子さん、ダメだ。扇風機、使えない」
「え、なんで……あ」
私も思い出した。
我が家の扇風機、壊れて捨ててしまったのだ。
「そういや、大掃除のときに、いきなり首取れたんだっけね」
「サーキュレーターも、安物過ぎたのか、コードが断線したんだよ。粗大ゴミで捨てたのに、すっかり忘れてた。今は寝室のやつ使えばいいけど、リビング用は新調しなきゃ」
我が家、体力のなさとヘタレ度は私のほうが上だけど、暑さに弱いって意味ではほづみくんもいい勝負だ。
彼の体感温度に合わせて冷房かけると、私が唇紫になるんで、夏場は室内の空気循環用とほづみくんが抱え込む用とでふたつ使っている。
とりあえずと寝室用の扇風機を出し、窓を開けて換気して、ふたりでタブレットを覗き込んだ。
「贅沢なんだけど、羽のない扇風機にしない?」
「それ、ライオンが潜りそうな輪っかのやつ?」
「今はまん丸より、楕円みたいなやつが主流らしいけど」
ほづみくんが家電量販店の通販サイトを表示する。
そこに並ぶ数字に、我が目を疑った。
四万…六万……八万円!?
「たっか! これ、下手したらクーラーより高いんじゃ」
「かも? でもね、僕、一昨年くらいからずっと気になってたんだよ」
「羽のない扇風機が?」
「桜子さんが」
軽くため息をついて、一般的な扇風機のページに切り替える。
最初の数字は同じでも、桁がひとつ少ないだけで安心して見ていられる。
「扇風機って結構埃が溜まるだろ。僕も気をつけて掃除してたけど、いっつも桜子さんのほうが早くて、チャカチャカ分解して埃拭いて洗ってた」
「…そうだっけ?」
「そうなんです。まあ、僕の埃耐性が強いって言えばよく聞こえるけど、要は大雑把だから、どうしても気がつく桜子さんがやっちゃうんだよね。で、去年、羽で手を切るところだっただろ」
「……そうだっけ?」
「そうです。皮一枚で済んだけど、あれ、肉までいってたら救急車沙汰だったよ。だから、買い換えるときは掃除が簡単なやつがいいなって思ってたんだ」
そう言われて記憶を探ると、うっすらほづみくんに怒られたような気がしてきた。
自分がするから置いといて、どうしてもするならゴム手袋しろって。
「んー…言いたいことはわかったけど。これ、扇風機の値段じゃないよ」
「でもさ、こっちのやつとか室内の空気循環までしてくれるし、風向きの調整もかなり細かくできるんだよね。ちなみに、去年出たやつは、僕と同じくらい暑さ苦手ないづみ兄さんが使って、これ一台で凌げたって言ってた」
「扇風機ひとつで、そんな変わる?」
確かに、冷房だけより扇風機があるほうが、過ごしやすくなるとは言うけども。
それでも、こんな高級品を買うほどかと懐疑的な私に、ほづみくんは大きく頷いた。
「だって、去年商店街で買ったやっすいサーキュレーターひとつ入れたら、室内温度上げられたじゃん。一昨年は、暑がる僕と凍えそうになる桜子さんのチキチキレースみたいになってたけど」
「…そういやそうか」
「桜子さんと結婚するまで、温度設定二十四度でも暑い人間だったけど、去年は二十六度でいけたよ。猛暑日は二十五まで下げたら、桜子さん、パーカー着込まないとダメだったけど」
またお高い扇風機のページに切り替えて、キーワードで絞り込む。
出てきた三つの商品は、サムネイルだけだと同じものに見えるけど、値段が二万円ずつ違う。
「このシリーズが、空気清浄機と空気循環の機能がついてるやつ。今年の最新バージョンだと八万するけど、去年のなら六万。四万のやつはサイズが小さいんで、うちだとちょっと厳しいかな」
「ほづみくん、前から考えてた?」
やたら詳しいな、と思ったら、「違う方向性でね」と続ける。
「扇風機じゃなくて、夏場も使える空気清浄機のほうを探してたんだ。桜子さんが扇風機の埃に敏感だったのって、溜まった埃でちょっとアレルギーっぽくなるからだろ」
そこまで気がついてたのか。
なんかいろいろお見通しだなあ。
…それにしても、扇風機に八万……。
でも、夏場のクーラー事情はほづみくんの言う通りだし、彼がここまで言うときって、殆どが自分のことじゃなくて、私のことを心配してるときだし。
「六万、のほうなら」
「そこまでなら妥協してくれると思った」
にっこり笑って、さっさと注文を済ませてしまう。
並んで座ったほづみくんの肩にもたれて、身体に入っていた力を意識して逃した。
「そんな緊張しなくても」
「するよう。六万円の扇風機なんて、私の人生に関わりないと思ってたもん」
「まあ安い買い物じゃないけど、ものは考えようだよ。クーラーの温度設定あげれば、それだけ節約になるし、今年こそアレルギー発症しちゃったら医療費も時間もかかるし、何よりしんどいだろ。長期的な目で見たら、無駄遣いじゃないと思う」
「まあね」
よその店で飲むのとは比べものにならないくらい、紅茶の味と香りが濃厚なミルクティをタンブラー半分一気に空けた。
「はー、美味しい」
タブレットをしまったほづみくんに、腰を抱き寄せられる。
「今年は、去年より快適な夏にしようね」
「ん、独身のときはクーラーなしでも生きてたのに、すっかりクーラーと美味しいひんやりスイーツなしでは生きられない身体に」
「待って」
しみじみ呟いただけなのに、いきなりほづみくんが真顔になった。
ガッシと私の肩を掴み、顔を近づける。
こんな、通りすがりの女、十人のうち、十二人くらいが振り返りそうな顔にもわりと慣れた。いや、見慣れてはいないんだけど、日常の中にあることには慣れた。
「クーラーなしで? 桜子さんが?」
「ん? まあ…そんなもん、買う余裕もなかったし」
「今でも、気温上がるだけで食欲失せて、動きが緩慢になるのに、どうやって生きてたの?」
「バイト先や職場はクーラー効いてたし、夜は窓開けて、凍らせたペットボトルで凌いでたし、食欲ないから食費浮いてラッキーみたいな」
あ、絶句した。
「や、百均でアイス買って食べてたりして、それなりになんとかなってたから」
「今日の昼ごはん、豚丼がいい? ステーキにする? ローストターキー焼くよ?」
「昔の貧乏話聞くと、肉食べさせようとするの、なんで?」
「そんな生活してて、ちゃんと僕のとこにたどり着いてよかったって気持ちと、桜子さんを二度と飢えさせないって衝動」
「衝動なのか」
「とにかく、夏だからって食事量減ることがないように頑張ろうね。クーラーのフィルター掃除はゴールデンウィークに済んでるし、いい扇風機も使って体調整えて、美味しいものたくさん食べるんだよ」
「たくさん食べられるかはわかんないけど、頑張る」
「無理はしなくていいから、楽しく快適に生きること目指そう。桜子さんは生きてるだけで花丸三重丸なんだから」
なんか、どんどん旦那の私へのボーダーが下がってる気がするんだけども。
気がついたら、膝に乗せられて、ちゅーいっぱいされてるし。
首をかたむけると、まとめ損ねた髪が肩に落ちた。
「あ、夏の準備で思い出したんだけど」
「ん?」
「髪が長くて鬱陶しいから、切っちゃいたいの」
私の髪は、基本的にほづみくんが切ってくれる。
結婚したばかりのころ、切りに行こうとしたら、「他人が桜子さんに触るのやだ」とごねられ、結果、ほづみくんが切るようになった。
いづみさんにカットを習いに行き、元々手先が器用なダンナのことなので、全く問題なく、むしろ美容室が苦手な私は死ぬほど助かっている。
問題は、だ。
「えー、せっかく綺麗に伸ばしてるのに」
私の髪が好きなので、なかなか切ってくれないところ。
後ろで適当にまとめている髪を勝手に解き、大きな手で梳く。
「でも、伸ばしすぎだよ。頭が重い」
今の長さは、あと数センチで腰に届きそうなくらい。
自己記録更新だ。
ここまで伸ばしても、ほづみくんが日々トリートメントし、毛先を整えてくれるおかげで、全くみすぼらしくはないけども。
「切るって、どのくらいまで?」
「いっそショートで…うそ、そこまで切らなくていいから」
本気で悲しそうに眉を下げるから、慌てて取り消した。
誤魔化すわけではないけど、ぎゅっと抱きついて頬を擦り寄せる。
「肩よりちょっと長いくらいで切って。今の長さだと、くるっと丸めたくても重くてできないし、無理にまとめてもしっぽが出ちゃって鬱陶しいし」
「そんな短くしちゃうの…」
「短くないってー。世間的には十分ロングヘアだってー」
ほっぺたすりすりしながら言えば、名残惜しそうに髪を撫でる。
私のこと、大好きすぎて、髪切るだけで毎回この騒ぎ。
「髪切ってさっぱりしたら、一緒に買い物行こ?」
「買い物? 桜子さん、欲しいものあるの?」
「んーん、商店街のお肉屋さんでコロッケとメンチカツ買ってきて、食パンに挟んで食べたい」
「あ、昼ごはんの買い物。…しょーがないな、さっさと切っちゃうか」
デコに唇を押し当てて、ぎゅっと抱きしめる。
わりとすぐにその気になってくれてラッキーと思ったときだった。
どこかで、聞き覚えのある電子音が鳴った。
「ほづみくん? スマホ、鳴らなかった?」
「え、そう?」
「うん。私のは部屋で充電中だから、ほづみくんのだよ」
「まあ、どうせたいした連絡なんて滅多にないし」
「わかんないでしょー。前みたいに、納品予定の農家さんが事故って無理になったなんてこともあり得るんだから」
「…わかった」
いかにも渋々私を膝から下ろして、「どこに置いたっけ」とぶつぶつ言いながら、周りを眺める。
結局、台所のカウンターに置きっぱなしだったのを見つけて、確認した。
ら。
「…見るんじゃなかった」
「え?」
「くっそ、既読ついちゃったよ…」
ほづみくんががっくり肩を落としたとほぼ同時に、今度は電話の着信音が鳴り響く。
なんとなく状況を察しながら、つい笑ってしまいそうになるのを堪えるために、腹筋に力を入れた。
二時間後。
洗濯物を干し終わった私とほづみくんは、家から少し離れた繁華街にいた。
久しぶりのちょっぴり遠出なので、気合を入れたほづみくんにフルコーデされた。
おかげで、滅多に着ないロングパフスリーブのハイウェストワンピにカーディガンという年甲斐もなく可愛い組み合わせ。
でも、ほづみくんがご満悦で褒め倒してくれたので、気にしないことにした。
何より、こんなオシャレスポットを歩くのに、いつもの適当な格好のほうが居た堪れない。たぶん。
そんな街の中でも、価格帯の高いセレクトショップやネイルサロンが並ぶ通りの一角に、ハイセンスの極み、みたいなヘアサロンがある。
その、入口。
「お、いらっしゃい」
満面の笑顔で出迎えてくれたのは、いづみさん。
そう、ここ、いづみさんのお店なのだ。
前に一度、営業時間外に来たことはあるけど、日曜の今日はバリバリ営業中。
繁華街一の大通りから道ひとつ入ったところの独立店舗で、一階がヘアケアやスキンケア用品を売る店で、二階がサロンになっている。
前に来たときも、広い店だと思ったけど、今日みたいにお客さんがいっぱいでも十分広い。
「こんにちは。図々しくお邪魔しました」
「こっちが呼びつけたんだから、堪能して行ってよ。なあ、ほづみ」
私の一歩後ろに立つほづみくんは、見なくても仏頂面だとわかる声で、「うるせえ」と返した。
まず、ほづみくんのスマホに「桜子ちゃんを喜ばせるお得情報いらないか」とメッセージを寄越し、既読がついたタイミングで電話をかけてくるという、ほづみくんの素っ気なさを見越した戦法で連絡をつけたのだ。
そんで、すったもんだの末、こっちまで出てくることになった。
ほづみくんが折れたのは、偏にタイミングの問題だ。
『うちのサロンでアロマ使ったヘッドエステやってるんだけどさー、定期的なフィードバックするのに頼んでたモデルさんが予定ダメになって。桜子ちゃんと、ついでにお前も受けてみん? もちろんタダだし、アンケートに答えてくれたら、謝礼の品あるし』
私は私で、いづみさんの店なら緊張しないし、肩こりにもいいと言われてその気になった。
ついでに、渋るほづみくんに、帰りにデートしようと言ってオトした。
「いや、冗談抜きで助かったよ。今回欲しかったのって、サロン慣れてしてないひとでさ。桜子ちゃんなら間違いないし、ほづみもこの手のことには無関心だから」
「慣れてないほうがいいんですか」
「うん。できるだけバイアスがない意見も知りたいんだよ」
「なるほど」
入り口を入ってすぐのところに受付カウンターと小さいソファセットがあって、まずはとそこに通された。
コンパクトなのにやたら座り心地のいいソファに座ると、今日の担当者だと言って、女性をふたり紹介された。
どちらも私と同年代くらいで、私の担当者が渡辺さん、ほづみくんの担当が沢田さん。
「基本的に、担当者が通して接客するんだけど、桜子ちゃんはカットもするんだよな」
「はい。夏になる前に、少しでも軽くしておきたくって。肩の下…この辺りまで切ってもらえると」
手で肩ギリギリのところを示すと、横からほづみくんが黙って手を出した。
ググッと脇の下辺りまで、私の手を下げる。
「…この辺りで切ってください」
「了解。毎度、愚弟がすまんな」
まずは、ドライカットで希望の長さまで切って、その後トリートメントやヘッドスパをすることになったので、ほづみくんとは別行動。
いづみさんの店は、敷地面積のわりに席数が少ない、ように思う。
席のひとつひとつが半個室のようにウッド調のパーテーションで仕切られているから、他のお客の目を気にしなくていいし、隣の話し声が筒抜けになるということもない。
芸能人のお客さんも多いっていうから、プラバシーが保てるのも重要なのかも。
「さって、じゃあ、バッサリいくかー」
私をブースの椅子に座らせて、長いケープをかけるいづみさんは、なんだか楽しそうだ。
ほづみくんとよく似たひとだけど、美容師らしく、髪はアッシュブラウンに染め、カットもよくわかんないけどオシャレ。
黒髪と前髪長めのスタイルが定番のほづみくんとは、印象が全く違う。
私の髪をまとめるように触り、「この長さだけど、傷みは最小限だな」と呟いた。
「ほづみくんがマメに手入れしてくれるので」
「だろうなあ。自分で伸ばしてるひとでも、ここまでケアできるのってレアケースだよ」
「切るの、もったいないです?」
なら、長いままでもいいかと一瞬迷ったんだけども、いづみさんはあっさりと首を振った。
「何か目的があって伸ばしてるならともかく、ほづみの趣味につき合っての結果なんだから、切れるときに切ればいいんだよ。どうせ、今日からまたせっせとケアするに決まってんだから」
「なるほど…」
「たとえばだけど、この長さでバッサリショートにするんなら、切った髪をヘアドネーションに活用するって手もあるけど、肩の下からだと足りないし。あと、うちは協賛ヘアサロンじゃないんだわ」
「意味ないじゃんって思いましたけど、そういう活用法があるんだってのはわかりました」
とりあえず、施術の邪魔にならない程度の長さで切って、全部終わってからきっちり整えてもらうことになった。
さすがプロ、あっという間に、鬱陶しいくらいだった髪が常識的な長さになる。
「今は本当に切っただけ状態だから。全部終わったあとで、ちゃんと整えるんで安心して」
「や、これで十分な感じなんですけど」
「いやいや、うちに来たからには、ただのストレートロングで返すわけにはいかんし、ドライカットは毛先から傷みやすいんだよ」
「そうなんだ…」
「じゃあ、渡辺呼ぶから。ゆっくり楽しんで」
「はーい。ありがとうございます」
いづみさんがケープを片付ける間に、アシスタントさんがサッと落ちた髪を掃除してくれる。
それにしても、いづみさんに切ってもらうのって予約とか大変って聞いたんだけど、ええんかいな。
首をかしげたところで、明るい声がして、鏡に女性が映り込んだ。
「お待たせしました。今日はよろしくお願いします」
笑顔の渡辺さんが、「ちょっと椅子、動かしますね」と断って、座席を反転させる。
お互いの顔を見て話せる状態になって、改めてご挨拶。
「よろしくお願いします。…こういうの、全く経験がないので、ドキドキなんですけど」
「最初はやっぱりそうですよね。痛いことや怖いことはしないので、安心してください」
明るくハキハキしてるけど、どこかほわーとした女性で、少し残っていた肩の力が抜けた。
「最初に、今日のメニューとアロマについてご説明しますね」
渡辺さんが渡してくれた、ラミネート加工されたA4サイズの紙を覗き込む。
全体のフローチャートと、アロマの説明書きだ。
「まず、シャンプー台で、炭酸クレンジングで毛穴ケアをします。よく言われる、毛穴の詰まりを取り除いて、頭皮のトラブルを防ぐ効果があるんです」
「へえ。シュワシュワするんですか?」
「ジュワッて音がしますね。私は結構クセになる感じなんですけど」
ほほう。
「当店の炭酸クレンジングは、炭酸泉と呼ばれる人工的に炭酸を溶け込ませたお湯を使う施術全般を指します。今日は、炭酸泉で軽く汚れを落としてから、頭皮専用に調合されたアロマオイルを使って、しっかり頭皮マッサージして、同じく炭酸泉でシャンプーをします。炭酸は通常のお湯より、皮脂や汚れを落とす効果があるので、そのあとでトリートメントをすると、有効成分がより浸透すると言われています」
「…あの、ということは、家でも炭酸水でシャンプーすれば…」
「同じ効果が期待できます」
キッパリ頷いた渡辺さんに、言ってもええんかいとツッコミそうになった。
「でも、シャンプーできるくらいの量の炭酸水を調達するのが大変ですし、水だとやっぱり油脂とかは落ちづらいんですよね」
「あ、そっか。お店はお湯なんですよね」
「はい。なので、シャンプーの最後に頭からペットボトルをひっくり返すくらいならやってもいいと思いますけど、気持ちいいだけで終わるかもです」
「なるほど」
その後も、トリートメントやヘッドパックの効能とやり方を説明してもらい、アロマオイルの話に移った。
差し出されたトレイの上に、茶色の小瓶が五つ載っている。
「今日は、この中の一種類をベースにして、アロマ施術をしていきます。匂いを嗅いで、一番心地よいと思ったものを教えてください。途中で匂いがわからなくなったら、ご自分の手の甲の匂いを嗅いでもらうと、リセットできます」
言われるまま、匂いを確かめる。
あ、これ、いい匂い。こっちも好きな匂い……あれ。
「好きな匂いじゃなくて、心地よい匂いですか」
同じような言葉だけど、実は意味が違うよな、と渡辺さんを見ると、軽く頷いた。
「本当はどちらでもいいんですけど、ときどき、好きな匂いはこっちだけど、今はこれのほうがもっと嗅いでいたい、みたいなことがあるんです。そういうときは、もっと嗅いでいたいほうをお勧めしてます」
「あ、私、今、それです。匂い自体は、こっちの柑橘っぽいのが好きなんですけど、ずっと嗅いでるなら今日は花っぽいのがいいなあって」
「なら、それは御厨さんの体調が求める匂いってことです。人間の体調と嗅覚って結構繊細で影響し合うんですよ。いい匂い、ずっと嗅いでたい匂いって思うのは、その匂いでストレスが軽減されたり、体調が整えられたりするからだと思います」
「なるほど……じゃあ、こっちの花みたいなやつでお願いします」
「かしこまりました。あと、これはアロマが体調に影響するものなので、女性のお客様には必ずお聞きしているんですけど、現在妊娠されてないですか?」
「してないです」
「ありがとうございます。では、こちらのアンケートにご記入ください」
バインダーに挟まった紙は問診票のようで、「一番気になる髪の悩みは?」とか「身体の不調で、当てはまるものがあれば丸をつけてください」とか、六つくらい質問が並んでいる。
わりと悩むことなくチェックをつけて、渡辺さんに渡した。
「ありがとうございます。では、シャンプー台にどうぞ」
案内されたシャンプー台も、周りが囲まれていて、ほぼ個室状態だ。
ずらっとシャンプーやトリートメントらしきボトルが並ぶ壁を背に、立派な革張りのひとり用寝椅子みたいなリクライニングチェアが置いてある。
…私、まともなシャンプー台のある美容室に行ったのって、もう十年以上前なんだけど、こんな社長室に置いてそうな椅子になってんの?
前に来たときはシャンプーまではしてもらわなかったから初見で、ちょっと腰が引ける。
でも、渡辺さんに促されて腰を下ろした瞬間、一生立ちたくない気分になった。
めっちゃくちゃ、座り心地がいい…!
感動している間に、膝にブランケットをかけられ、首回りにタオルを巻かれる。
そのまま、椅子を倒されて、ほぼフルフラットになった。
「アロマ施術のときは、ゆっくりリラックスしたいと仰るお客様が多いので、あまりお声がけはしないんですが、御厨さんはいかがですか?」
「あー…私、美容師さんとお話しするの、苦手で」
申し訳ない気分で言うと、渡辺さんはにっこり笑う。
「そういうお客様も多いので、大丈夫です。じゃあ、途中途中で様子見のお声がけはしますけど、それ以外のときはたっぷりスパとアロマをお楽しみください」
「ありがとうございます」
ひとつ、気がかりだったことがなくなって、ホッとした。
薄いフェイスカバーをかけてもらうと、ますます落ち着ける。
目を閉じると、頭のほうで水音がして、「では、炭酸泉で汚れを落としていきまーす」と声が聞こえた。
水音が近づいたと思ったら、頭がジュワッとした。
「ひょ…」
「大丈夫ですか?」
「は、い。本当にジュワッとしました」
「合わない方もいらっしゃるので、普通のお湯でもできますけど」
「あ、大丈夫です。なんか気持ちいいです」
しょわしょわ、弾ける感覚がしっかり伝わってくる。
ちょうどいい温度のお湯をたっぷりかけてもらって、それだけで力が抜けた。
「では、頭皮マッサージをしていきます」
さっきの花の匂いがして、ゆっくりと頭を揉み解すようにマッサージが始まった。
……え…なに……すんごい気持ちいい……。
正直、頭のマッサージがどんなもんか、たいして期待していなかったのだ。ほづみくんがお風呂でしてくれることがあるけど、あれは肩揉みもセットだから、あんまり効果とか考えたことがなかった。
でも、絶妙な力加減で頭皮全体から首筋近くを刺激されると、それだけなのに肩の辺りまでほわーっと温かくなってくる。
アロマオイルのいい匂いも相まって、なんだか眠い。
「…寝そう、です」
「大丈夫ですよー。寝てしまっても、ちゃんと頭はピローで支えてるので」
「ふぁい…」
それでも、そのまま爆睡とはいかず、うとうとしながら、マッサージする指や、オイルを流す炭酸泉の感触を感じていた。
意識がはっきりしたのは、それまでの花の香りに混じって、グレープフルーツのような柑橘の匂いがしたときだった。
シャカシャカいう音から、シャンプーしているのかと見当がつく。
「あ、起きられました?」
「はい。なんか、すっごい美味しそうな匂いで」
「グレープフルーツとレモンのシャンプーなんです。ハーブも入ってて、サラサラになるだけじゃなくて、ハリとかコシも出るんですよ」
「はー…なんかスースーして気持ちいいの、ハーブですか」
「たぶん、ミントだと思います」
スッキリしたところに、ヘアパックをしてもらい、タオルを巻いて一度起き上がる。
「成分を浸透させるために、これからホットスチーマーをセットします。その間、ハーブティを召し上がっていただきながらのハンドマッサージです」
昔のパーマを当てる機械のようなものですっぽり頭を覆われて、あの花の匂いのするアロマオイルで肘まで揉み解される。
スチーマーの温かさとエルダーフラワーのさっぱり甘いハーブティの香りも一緒になって、すんごい癒し空間。
「マッサージ、すっごい気持ちいいです…」
つい、本音がえれっと口から出た。
渡辺さんは嬉しそうに、「ありがとうございます」と笑う。
「私も、御厨さんの頭皮ガッチガチで、すっごいやり甲斐ありました」
「頭皮…って、ガチガチになるんですか?」
「なりますよー。肩こりが酷い方ほど、マッサージしたときに頭皮が動かないんですよ。柔らかい方だと、このまま皮剥けるんじゃないかってくらい動くんですけど」
それはそれで怖いのでは。
でも、やっぱ肩こり酷いのかー。整体とか行ったほうがいいのかな。
そう訊ねると、「そうですねえ」と少し天井を見上げた。
「私、按摩マッサージ指圧師の国家資格持ってるんですけど」
「え、すごい」
「ありがとうございます。でも、整体とかに来てくれる方って、来院されるときにはもう本当に酷い状態ってのが多いんです。御厨さん、肩こり由来の頭痛や眩暈、吐き気は?」
「…たぶん、まだないと思います」
「なら、今のうちに専門医院で診てもらえば、本格的に体調崩す前になんとかなると思います。ただ、仕事とかで一過性だってわかってるなら、自宅ケアでできることも多いんですけどね」
ふと頭を過ったのはほづみくんだ。
私にするからと言って、マッサージの教本で勉強していた。もちろん、独学だし、専門家でもないけど、マッサージしてもらったあとは、肩こりや背中のハリがスッキリ解消される。
ほづみくん、自分も体力仕事だからってセルフマッサージとか温熱灸、詳しいもんなあ。
もしかしなくても、肩こりで体調崩してないのって、ほづみくんのおかげか。
じんわり感動したところでタイマーが鳴り、パックを洗い流してもらった。
そのあとはトリートメントして、終了。
ぽわぽわした気分でカットブースに戻ると、渡辺さんと入れ替わりでいづみさんが顔を見せた。
「お、スッキリした顔してるな」
「気持ちよかったですー。極楽って感じ」
「わざわざ来てもらった甲斐があったよ。じゃ、ヘアカットしようか。おーい、ほづみ」
どうして呼ぶんだ、と思ったけど、ぶっすーとした顔のほづみくんが入ってくるほうが早い。
鏡越しに見た旦那さんは、いつもと変わらないように見えたけど、なんだか印象が違う。
不思議に思って振り返っても、やっぱりどこか違和感が拭えない。
「ほづみくん、なんかした?」
「髪、切られた」
言われてみると、確かに少し短くなって、前髪の流れ方も違う気がする。
いづみさんが、「悪かったって」と苦笑いした。
「スタッフが、どうしても切らせてくれってうるさくてさ。勝手にじゃんけん大会して担当とアシスタントまで決めてたんだよ」
「はあ」
「カラーリングとかパーマとか勧められるのわかってるから、嫌だっつったのに」
「そうなの?」
そのままが一番いいと思うんだけど。
でも、いづみさんは息をついて頷いた。
「自画自賛になるけど、我が家、素材は天下一品だからさ。美容師としては、あれこれやってみたいって欲求を刺激される」
「なるほど?」
「沢田も、最初は手が震えてたしなー。あいつ、もう六年目なんだけど」
「知るか」
仏頂面のほづみくんをよそに、なんだかもやっとした。
うん?
でも、突き詰める前に、いづみさんがケープを広げて、バサッとかけた。
「さて。じゃあ、仕上げのカットといくか」
ほづみくんが無言でスマホを出して、何やら撮り始める。
「何撮ってるの?」
「桜子さんのカットするとこ。あとで見返せば、僕が切るときの参考になるから」
「そこまでするのね…」
ちょっと視線が遠くなるが、鏡越しにいづみさんが「ところで」と声をかけてきた。
「桜子ちゃん、長さ変えるだけでいいのか?」
「と言いますと?」
「今はワンレンに近い感じだけど、前髪作ったり、分け目変えて段入れるだけで、だいぶ雰囲気変わるし、軽くなる。桜子ちゃんのフェイスラインだと、ボリュームのあるスタイルでも収まりいいと思うけど」
あんまり考えたこと、なかったなあ。
スタイリングとか、たぶんできないし、まとめられたらいいやーくらいしか、希望らしいものもない。
だけど、なぜかほづみくんがやる気を出した。
「桜子さんの髪質で前髪作ると、はねないか」
「そうだなあ……結構な直毛だから、そこまで気にすることはないと思うけど。気になるんなら、七三くらいで分けて、横に流せばどうだ」
「そうすると、こっちだけ重くなるだろ」
「こっちは多めに梳くから大丈夫。ここから段入れる感じで梳いていけば、この辺でうまくまとまる」
「なるほど…。桜子さん、どう? 思い切って前髪作る? それとも、今のままがいい?」
「んー…朝、めんどくなければなんでも。あ、あと、まとめたときにだらしなく見えないのがいい」
「なら、こっちの髪を心持ち長めに梳いて、まとめるときは耳のとこでピン留めすれば、きっちり目にできる」
三人協議の末、イメチェンに近いカットをすることになった。
ほづみくんがスマホで撮りながら、今後のケアやカットのやり方を訊き、いづみさんが答えていく。
これ、本職のひとにしてみたら、結構異様な状況なんじゃないのかな…。
あっという間にカットが終わり、ドライヤーで乾かして、仕上げなのか、細かく鋏を入れていく。
美容師さんの手って、魔法使いみたいだなー。
ほづみくんが料理してるの見ても、やっぱりすごいと思うし、プロが仕事してるときの手ってカッコいい。
チラチラ見惚れている間に、最後のヘアオイルをもみ込んで、終了した。
「おっし、完成。お疲れ様」
「ありがとうございましたー」
鏡に映る自分の姿が、だいぶ見慣れない感じだけど、もっさりしていたフォルムがなんだかオシャレになっている気がする。
「前髪作ったのなんて、久しぶりです」
「それ、分け目さえ間違えなければ、乾かすだけでそれなりに見えるから楽だぞー」
「さすがプロ」
ケープを外してもらって、ほづみくんの前に立つ。
「似合う?」
「すっごい可愛い。なんか幼く見えるかも」
「正面分けより、顔が見えるバランス変わるからな。ほづみのほうが歳上に見えるんじゃないか。元々、御厨の血が濃いせいで老け顔だし」
「兄貴もだろうが」
「おう。かづみと一緒にいると、俺が歳上に見られる」
曉子さんも、なんか似たようなこと、言ってたなあ。
「最後に、アンケート書いて欲しいんで、最初のソファのとこ行っててくれるか」
「了解」
ほづみくんとブースの外に出ると、周りのスタッフさんから「お疲れ様でした」と声がかかる。
広い店内を横切りながら、ふと気づく。
……なんか、視線が多い、な?
その殆どが、私ではなく、当然ほづみくんに向けられている。
まあ……何もしてなくても、カッコいいから、仕方ないんだけど。
今日は、ヘアカットしたのもあって、いつも以上に垢抜けた感じがして、どうしようもないんだけど。
それにしたって、プロの美容師が揃って見惚れるってのはどうなのかな!? 私の旦那さんなんですけどー!
着てるのって、緑のトップスにアイボリーのカーディガンで、そんな目立つもんじゃないし。いや、ブラックジーンズの脚は、いつでも長いし、今も死ぬほど長い。
…私、なんかイライラしてる?
なんでだ、アロマでいつも以上に癒されたはずなのに。
自分の状態に首をかしげつつ、ソファに落ち着くと、女性が寄ってきた。
ほづみくんの担当をした沢田さんだ。
「お疲れ様でした。こちらのアンケートにご記入お願いします」
バインダーを受け取って、ペンを持ち……んん?
沢田さん、ほづみくんの横に立ったまま、動かない。
アンケートのときって、回答者にプレッシャー与えないためにも、評価対象者は立ち合わないってのが原則なんですけどー。
やりづらいなと思いつつ、設問に目を通していく。
だけど、聞こえてきた声に視線が止まった。
「あの、普段はどちらでカットされてるんですか?」
「家の近所です」
「あ、じゃあ、店長がカットしてるわけじゃないんですね」
「ええ」
内容はただの世間話っぽいが、沢田さんの声、やたら鼻にかかっているというか、ぶっちゃけ媚を売っているように聞こえるんだが。
答えるほづみくんが、完全に素っ気ないのが救いだけども、まあ気分は良くない。
だって、私たちが夫婦だって知ってるわけだし。
いづみさん、恨むぞ…。
ぐりっと力を込めて、選択肢に丸をつける。
「もしよかったら、次は私にカットさせていただけませんか? あ、カットモデルとか」
「興味ないんで」
こういうとき、変に愛想振りまかない旦那でよかった。私が冷静でいられる。
…でも、このひとがほづみくんにマッサージとかしたんだよね。
……こんなひとに触られたのか。
………下心、満載だったんでは。
いやいや、一応プロだし。
ふっと息をついて、嫌な力が入っていたのを逃す。
その瞬間。
「横にいられると、アンケートやりづらいんですけど」
鬱陶しさを隠さないほづみくんの声がした。
「え…あ、」
「評価を書く相手に横からごちゃごちゃ言われると、正直なところが書けないんで。外してください」
チラッと横を見ると、ほづみくんは手元に視線を固定して、全く顔をあげていなかった。
…たぶん、最初からこの状態だったんだと思う。沢田さん、結構メンタル強いな。
余計なことを考えて、私もアンケート用紙に視線を戻す。
「すみません」とひと言残して沢田さんが立ち去ると、横からため息が聞こえた。
「お疲れ」
「ん…プロ意識低い人間って、めんどくさいよね」
たぶん、色気を出されたことより、仕事中にアホなことしてるって部分に引っかかっているんだろう。ほづみくんって、そういうひと。
アンケートを書き終わるころ、大きい袋を持ったいづみさんがやってきた。
ちょっと見ているだけでも、相当忙しそうなのに、よく気づくなあと感心する。
「アンケート、終わりました」
「お、ありがとう。あとでゆっくり見て、研修会やフィードバックに使わせてもらうけど、率直にどうだった?」
「私はすっごい気持ち良かったです。有料でも定期的に受けたいなーって思うくらい。ちなみに、今日のメニューって正規料金だとどのくらいなんですか」
「桜子ちゃんはカットも込みだから…四万ちょいかな」
一瞬、数字が脳みその表面をツルッと滑っていった。
横でほづみくんが、「結構取るな」と呟くが、結構どころじゃない。
いや…こんな立地の店で、資格持ちのプロがやってくれるんだから、お安くはないだろうとは思ってたけど。
理由は違えど、視線が遠くなる私たちに、いづみさんが苦笑いする。
「料金が跳ね上がる理由のひとつは、俺がカットしたことだな。うち、美容師の経験年数や受賞歴でランクづけして、料金が変わるように設定してるんだよ」
「ああ、なるほど。いづみさんに切ってもらうと、高くなるってことですね」
「そ。俺の下に三段階設定してるから、一番下のスタッフなら半額近くまで下がるね」
「おお…」
本気の技術を売りものにしている世界だ。
「カットなしで、ヘッドスパだけでもいけるし、今日はフルコースだったけど、たとえばアロママッサージだけでも受けられるから、そうするとお手頃になるしな。うちのお客さんも、気分や都合に合わせて、結構いろいろだよ」
「はー…ずっとやっすいチェーン店で切ってたし、今はお家美容室だから、未知の世界です」
世の中、こういうところにお金をかけるひともいるんだよなあ。
あの癒し効果を味わったあとだと、気持ちは十分わかるけど。
ときどき、ほづみくんを説得して、アロママッサージだけでも受けに来ようかな、と思ったら。
「今日でだいたいのやり方覚えたから、家でもできるよ」
「…え?」
ほづみくんを見ると、平然とした顔でアンケートのバインダーをいづみさんに渡した。
「今日使ってたヘッドスパ用のアロマオイルって、下で買える?」
「買えるが、こっちに入れてる」
こっちも平然と返して、持っていた袋をほづみくんに押し付けた。
「桜子ちゃんに使ったシャンプーと、同じシリーズのコンディショナー入れてるから。トリートメントは、十日に一回な。で、アロマオイルも入ってるから、使い方は説明書読め」
「助かる」
「あの、それ…」
「謝礼出すって言っただろ。うちで使ってる商品一式セット」
一式とセットは同じ意味なんで二重表現です。
…なんて言う余裕もなく、口が開いた。
いづみさん、今日だけで、いったいどんだけの出費を…いや、経費で落ちるんだろうけど、それにしても。
「多すぎでは」
「だいじょぶ、だいじょぶ、家族割り利くから」
この手のもんに、そんなもんがあるのか。
思ったものの、正直謝礼の相場も知らないし、なんとなくほづみくんのご機嫌取りも含まれてそうだしで、お礼を言うに留めた。
「今日は本当に助かった。気ぃつけてなー」
「ありがとうございました〜」
お見送りを受けて、ほづみくんと店を出る。
頭が軽くなったおかげで、気分も軽い。
街路樹まで小洒落た街並みを歩くのも、久しぶりで楽しい。
「こっちのほうに出てきたの、数ヶ月ぶりだし、カフェでも寄っていく?」
「そうだねー。あ、カップルシートがあるお店、あったでしょ。あそこ行かない?」
歩いて数分のカフェに向かい、希望通り、カップルシートに座ることができた。
卵を縦に割ったような丸っこいソファが壁に向かって置いてあるから、周りが見えなくて落ち着けるのだ。
家を出た時間が中途半端で昼を食べていなかったから、BLTと大きなハンバーガーを頼み、デザートは食後に相談することにした。
並んで座ったほづみくんの肩にもたれると、柑橘の匂いがする。
「アロマオイル、柑橘系のにしたの?」
「うん。ウッド系のやつと悩んだんだけど、ずっと嗅いでると嫌になるかもなーと思って、馴染みあるのにした」
「私も柑橘と悩んだの」
「ん、でもこの花の匂い、桜子さんっぽくていいよ」
髪に鼻をくっつけるようにしてクンクンする。
周りから遮られているのをいいことに、家でするように腰を引き寄せて抱きしめてくるのに任せて、私もぺったりくっついた。
「マッサージ、気持ち良かったねえ」
「…うん」
「気持ちよくなかった?」
返事に微妙な空気を感じて訊けば、ため息をつく。
「腕自体は悪くなかったと思うんだけど、なんかずっと喋っててうるさくて」
「なんかって…何?」
なんとなく嫌な予感がしたと思ったら、案の定。
「どうでもいいような、プライベートな話。最初でかなりめんどくさくなって、返事もろくにしなかったのに」
「ふうん」
やっぱりか…。
プロじゃないじゃん。めちゃくちゃ下心丸出しじゃん。
「桜子さん、顔がぶちゃ可愛いことになってる」
大きな手が頬を挟んで、もむように揺らした。
額同士を合わせて、目を覗き込む。
「まともに相手にしてないから、大丈夫だよ」
「ほづみくんがああいうのにデレデレするとは思ってないけど、ワンチャン狙ってるような相手に触られてたっていうのが嫌なの」
「頭だけだし」
「ハンドマッサージもあったでしょ」
「それは断った」
やたら嬉しそうに笑って、「消毒する?」と訊いてくる。
「消毒ってどうやって」
「頭、ぐしゃぐしゃーって」
「…それ、沢田さんが切ったの?」
「ううん。知らない男の美容師」
「……カッコいいからやめとく」
なんだかんだ言って、今の髪型、イケメン度が上がってる。
切ったの誰か知らんが、いいセンスしてるじゃないか。
「もー、桜子さん、可愛い」
デコをぐりぐり押しつけて、ご機嫌だ。
「他人にマッサージさせるの、本当に嫌だったんだけど、気分転換になったみたいだし、髪型変えてますます可愛くなっちゃうし、ヤキモチまで妬いてくれるなんて。嫌々出てきた甲斐があったよ」
「ほづみくん、顔がだらしない」
「奥さんが可愛いんだから仕方ないです」
ちゅーとデコにキスして、にんまり笑う。
切ったばかりの私の髪を掬い上げるように撫でて、「それに」と続けた。
「やっぱ、なんだかんだ言って、プロに任せるほうがいいよね。毛先、ピカピカ」
「ん…ほづみくんとおんなじだけど、手に職があるひとってすごいよねえ。あんなに鋏動かして、全然失敗しないんだもん」
「普段は今まで通り、僕が切りたいんだけど、たまにはいづみ兄さんにメンテ頼もっか」
珍しく譲歩するようなことを言う。
でも、素直に頷けるわけがない。
「…さすがにカットだけで諭吉さん出動するようなのは、ちょっと」
「毎月じゃないんだし、いいと思うけど。なんなら、かづみ兄さんとまとめて奢るって言ったら、ホイホイ切りに来るよ」
「それはそれで、気が咎める…」
「難儀だねえ」
笑って、額に、髪に唇を押しつける。
周りから見えづらいとは言っても、一応公共の場なんだけどなー。
でも、ほづみくん、いい匂いするしー。
「髪もさっぱりしたし、来週には新しい扇風機来るし、夏を迎え撃って撃破しようね」
「そういや、そんな話だったね」
「そうだよー。暑い季節向きのひんやりするシャンプーやるからって兄さんに言われたし」
「え、そうだったの?」
「うん。市販のやつでもスースーするのあるけど、髪によくないのもあるっていうから。美容室で使ってるんなら、悪いもんじゃないだろうと思って」
そっか…あのグレープフルーツのシャンプーって、それか。
まじまじとほづみくんを見つめる。
「どうかした?」
「んーん。ほづみくん、大好きだなーって」
「僕も、桜子さん大好き」
「いっつも私のこと、考えてくれてありがとう」
「大事な奥さんのことなんだから、当たり前だろ。夏場にしんどそうなの、見てて辛いもん」
「ん、ほづみくんといっぱい楽しいことできるように、体調管理頑張る」
ぎゅっと抱きついて、頬に頬を擦り寄せる。
ちょっと強めの力で抱き返してくれるのが、嬉しい。
「今年は、夏にちょっと長めの避暑ができるといいよね。桜子さんがクーラーなくても気持ちよく過ごせるところで」
「高原とか? 果物と野菜が美味しいとこがいい」
「果物かー」
くっついたまま、先の予定を話すのも楽しい。
でも、今はほづみくんが私しか見てないのが嬉しい。
出会ってから、一心不乱って言葉がぴったりなくらいに愛情を注がれ続けて、すっかりそれに慣れてしまって、だからそこに入り込んでこようとする人間がいると、前よりも過敏に反応するようになった。
ヤンデレってうつるのかもなー。
今まで、こんなにはっきりヤキモチ妬くことってなかったもん。
それでも、私以上にほづみくんがヤキモチ妬いてくれるって知っているから、安心していられるんだけど。
「桜子さんが水分とカリウムとれるように、スイカが美味しいとことかどうだろう」
「スイカ好きだから嬉しいけど、去年みたいに毎日スイカはさすがに飽きるよ」
「スイカってスイーツにしづらいんだよねえ」
「なんだかんだ言って、生が一番だと思う。あ、でもスイカジュースは美味しかった。ミキサーで氷と一緒に作ってくれたやつ」
「あー、あれは我ながらいい出来だった」
今年の夏も、楽しくなるといいな。
結婚してから、楽しくなかったことなんてなかったけど。
とりあえず、そのうち、ほづみくんにアロママッサージしよう。
他の女に触られたんだから、消毒しなきゃ。
いつになく、嫉妬心がブーストしていたせいで、料理を運んできてくれた店員さんの顔が生ぬるくなってたけど、気にしません。
ほづみくん、私のなので。
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