「侍少女戦記」 第5幕(全7幕)

はじめから読む→「侍少女戦記」 第1幕|青野晶 (note.com)
前回の話→「侍少女戦記」 第4幕|青野晶 (note.com)

■第5幕 第1場
秀夜は白いティーカップに紅茶を注いで龍香にすすめた。
牛の骨粉を混ぜて焼成した磁肌は透明感が高い。白いエナメルを繊細に重ねた陶器製のカップには、東洋風のキジが描かれている。細い線で丸いカーブを描く持ち手は金だ。カップの底には大輪の紫菖蒲と、小ぶりな紅薔薇が描かれている。カップも茶葉も、当然マシューから贈られたものだった。
午後の日差しは秀夜の部屋の畳に撥って、龍香の輪郭を明瞭に浮かび上がらせている。秀夜は四角い座卓を挟んで龍香の向かいに座した。
秀夜は座卓の中央に置いた銀製の器の蓋を取ってテーブルに置き、角砂糖を一つカップに落とすと、紅茶を一口すすってソーサーに戻した。異国の手触り、香り、味、音。
何も知らない頃は、僕もマシューさんを悪い人だと決めつけていた、と秀夜は思う。いや、今でも完全に良い人だと信じているわけではないが。玄鉄に連れられてマシューの邸宅を訪ねた日、マシューは秀夜が医者のたまごと知って医学書をくれた。本が読めるようにと異国の言葉だって教えてくれた。その知識があったからこそ、破傷風を患った龍香を治療できたのだ。ところが玄鉄は言う。あまりマシューを信用しすぎるな、と。マシュー邸にひとりで赴いた玄鉄が安凪を抱えて帰ってきた日のことを思い返せば、秀夜はその意味をなんとなく理解できる。
龍香は秀夜の真似をして、おそるおそるという手つきでカップに角砂糖を落とす。初めてかぐ香りの舶来の茶を一口飲んだ。渋い。渋みはあるが、どうやらそれを果実の香りで誤魔化している。りんごやオレンジや……レモンだろうか? 茶葉に果皮を混ぜているのだろう。それにとどまらず砂糖まで入れるのだ。茶は苦いものと決まっているのに、どうして苦みを執拗なまでに消そうとするのだろう。龍香にはわけがわからなかった。
龍香が顔を上げた時、秀夜が頬を緩めた。
「舶来の茶も良いでしょう。こちらの国の茶とはまた違う良さがある。そう思いませんか?」
「私は正直、お抹茶の方に慣れていますので……」
 龍香の答えに「そうですか……」と秀夜は少し残念そうに肩を落とした。白衣を着た秀夜の背後には書棚がある。ほとんどの背表紙は異国の言葉で書かれていたので、龍香には読めなかった。
「あの、それで、秀夜さん」
 龍香は手元のティーカップをソーサーごと隣によけた。もう口をつけるつもりはないらしい。
「朱雀さまは、なんのご病気なのですか?」
 秀夜は龍香の背後にある薬品棚を見上げる。三段組の引き出しの上に組み立てられた二段の棚にはガラス戸がついている。棚板には大小の小瓶が隙間なく並んでいるが、どの薬を用いても朱雀の病は治らない。
「心臓病です。生まれつきの」
「心臓病……?」
「朱雀さまは龍香さんに知られたくないようでしたので言うつもりがなかったのですが、仕方がないでしょう。龍香さんも知っておいて悪いことはないと思います。朱雀さまとは夫婦……ですもんね?」
「あ、いや……それはちょっとわからない、というか」
 龍香は言いよどんだ。凛と鼻先を尖らせる朱雀の横顔が思い浮かんで、頬に血が巡り始める。龍香はとっさに両手で顔を隠した。
「わからない?」
 秀夜は不思議そうに眉を歪めて龍香を観察する。龍香は指の隙間からそれを認め、しばらく顔を隠し続けることに決めた。
「と、とりあえずそれはおいといて、知ってはおきたいです」
「はあ。まあ、そうおっしゃると思いました」
 秀夜は立ち上がると龍香の背後にある薬品棚に歩み寄り、最下段の引き出しを開けるとカルテを取り出した。朱雀のものであるらしい。
「十歳の頃に一年ほど森の中にある病院に入院されていたようですが、その後は安定したようで薬で症状を緩和できていました。ただ今回のヒュドラ討伐では心臓に負荷をかけすぎたのでしょう。無理なさらないでください、とは常に伝えているのですが」
 龍香は木の根に躓き転んだ時のことを思う。朱雀は猛然と骨噛を振るって蛇の頭を落とすと、龍香の手を引いて走ったのだ。
 私のせいだ……。
 何も知らずに朱雀に頼りきってしまったことを、龍香は悔やんだ。
「朱雀さまの病気は治せるのですか?」
「今のところ治療薬はありません」
「あの、そこをなんとか作ってもらえないでしょうか?」
「そんな簡単に言われても……」
「以前、秀夜さんが毒について教えてくれましたよね」
 龍香は真剣な面持ちで前のめりになる。
 龍香が破傷風を完治した日、確かに秀夜は薬になる毒について熱弁した。「人体に何らかの作用を及ぼす化合物の中で都合の悪いものを毒、都合の良い影響ものを薬と呼んでいるだけです。毒も薬も同じものですよ。龍香さんが毒だと思いこんでいるものだって薬になりえるのです。ヘビ毒は特に毒性が強く……」といった具合に。龍香の破傷風を治療したペニシリンだって、アオカビから生成したのだ。
「秀夜さん、ヒュドラです。ヒュドラの毒を採取してきます」
「ヒュドラの毒?」
 秀夜は目をむいた。ヒュドラ討伐のあらましは玄鉄から聞いていた。ヒュドラは斬れば斬るほど無限に増える西洋怪物で、牙に猛毒を有している。マシューが持ち込んだということは、この国にはもともと存在しない強力な毒であるはずだ。
「ヒュドラの毒から、朱雀さまの病気を治す薬は作れますか?」
「それは……」
 秀夜は朱雀のカルテから顔を上げると、龍香の視線を受け止めた。龍香の黒い双眸には、守るべきものを見つめる光がある。
 なんだ、ちゃんと夫婦じゃないですか。
 そう言うかわりに、秀夜は微笑んだ。
「研究し甲斐がありそうですね」
 秀夜はカルテを引き出しに戻すと、薬品棚のガラス戸を引き、空の瓶をひとつ探しあてると、龍香に渡した。
 
■第5幕 第2場
グリフィンの手綱を引きながら、玄鉄は墓地に向かっていた。手綱を握っていない方の手には菊の花を束にして握っている。隣には於菟がいた。
グリフィンは玄鉄に従い、翼を背負うようにたたんで優雅に地面を踏みしめていた。まばゆい日差しを受けて、グリフィンの羽根の一枚一枚が黄金に輝く。光を吸収しているようだと、於菟は思った。
「このグリフィンはどこにいたのですか」
於菟は玄鉄に尋ねる。玄鉄は柔和な表情を崩さずにグリフィンの首を撫でてやった。
「墓地だよ。グリフィンには墓を守る習性があるから」
「墓を……守る?」
於菟は初めてグリフィンを見た日のことを思い出した。
グリフィンは青山の中腹の岩場に巣を作っていた。その岩場のすぐ上には紅葉の広場があって、そこに於菟は父の亡骸を埋めた。去年のあの頃はひどい飢饉で、貧しい者はみんな飢えていたから、於菟は父が掘り返されて食われたりしないようにと父を背負って山に登ったのだ。於菟はその紅葉の広場で領主の雅茂とその娘龍香に出会うことになる。中沢家に奉公するようになってしばらくすると、青山に近付いた百姓がグリフィンに襲われたという噂を耳にするようになった。襲われた百姓たちの悲痛な訴えを聞いて、領主の雅茂は玄鉄館にグリフィンの討伐を依頼し、朱雀が中沢家に派遣されて来たのだ。龍香の頼みを聞いて夜の青山に忍び込んだ於菟は、グリフィンに遭遇して……。
まさか、あのグリフィンは俺の親父の墓を守っていたのか……?
「だから海の向こうの異国では、墓石にグリフィンの絵を彫るらしい」
玄鉄は墓地を歩き進み、ある墓石の前で足を止めた。グリフィンの首輪に結い付けた太紐を解き、太刀の巻柄に結び直す。グリフィンは翼をふくらませ、空に広げて大きく伸びをすると墓石に寄り添って伏せた。片翼でひさしをつくり、墓石を直射日光から守る。光を受けて、グリフィンの翼は白に金に絶え間なく輝き続けた。
「この墓は……」
於菟は墓石に掘られた文字に目を凝らす。読み取る前に、背後から玄鉄が答えた。
「弥生さん」
「弥生さん……?」
於菟は玄鉄を振り返る。
龍香には言うなよ、と玄鉄は断り、左手に握っていた菊を墓前に供えた。
「弥生さんは、朱雀の婚約者だった」
於菟の上で木漏れ日が揺蕩した。眩しい青のさざめきは、グリフィンの白金の和毛をより艶やかにしていく。
「マシューが港に乗りつけたのは去年のことだ。俺が朱雀に出会ったのも、弥生さんが亡くなったのもその頃だった」
玄鉄の言葉は風に乗り、枝葉のささやきに紛れ、光と影を伴って、於菟の身ひとつに注がれていった。
 
■第5幕 第3場
「玄鉄さま! 黒い怪物が海を渡ってくる!」
村人たちが玄鉄に助けを求めたその日、玄鉄は太刀と小刀を帯にさして港へ向かった。村で一番の剣豪といえば、玄鉄館の志心流師範代、玄鉄以外にいなかった。この二本差しの侍にかなうものがあるはずない。
玄鉄には自信があった。どんな怪物であろうと、俺の腕にかかれば斬り殺せないものはない、と。しかし港に着いた玄鉄は茫然自失とした。港は高波に襲われ、村人たちの木舟はすべて大破している。
その中に一つ傷ひとつない船があった。船? 玄鉄は初め、それが船であるとはわからなかった。船というより、それは城塞に近かった。それも鉄製の城塞である。鋼鉄の城を積んだ、楕円形の平たい「船」。その船の舳先から三本の鎖が伸びていた。鎖に繋がれていたのは、一つの胴体を共有する三頭の犬だった。それも、船よりずっと巨大な、青光りするほどに黒い犬である。
この世の生き物ではない……。
玄鉄は畏怖のあまり太刀を抜くことができなかった。この細く小さな刃でどうこうできる相手ではない。犬が暴れれば村は踏み潰されてしまうだろう。
三頭一体の犬は玄鉄に気付くと牙をむいた。口内には鮫のように何重にも鋭い歯が並んでいた。縦長の楕円形をした瞳は、翡翠色の野性にたぎっている。その頭が三つも並んでいるのだから、玄鉄にはどうしようもなかった。
噛まれてしまえば終わりだ。
犬が鼻筋に皺を寄せてうなり、地響きを起こしながら近づいてくる。
かすり傷ひとつつけられるかどうかもわからない。どうやって倒せば……。
なすすべもなく恐怖した玄鉄に、竪琴の流麗な旋律が降り注いだ。それは「天から降る」という表現の他にないような音色だった。荒れる海に凪をもたらし、牙をむく犬に安らぎをもらたすような……。月光から紡ぎ出した糸を張った琴。そういうものがあるなら、こんな音色を奏でるのかもしれない。玄鉄は目覚めながら夢の中へと引き摺り込まれていくような錯覚を覚えた。
この音はいったい……。
夢と現のまざりあう空間で、玄鉄は船の舳先に立つ一人の少女を見た。少女は竪琴を持っていない。しかしこの慈雨のような音色は少女から流れているものとわかった。少女は歌っていた。こんな不思議な声は聞いたことがない。それは、空想上の竪琴のような歌声だった。
少女の歌声に気付き、巨大な黒犬は足を止めた。やがて船の方へ引き返し、少女へ三つの鼻先を寄せると翡翠の眼を閉じて眠った。
「やあ! どうもどうも! 驚かせてすまないね!」
あまりにもお気楽な口調で話しかけられ、玄鉄は我に返った。船から降りてきた金髪碧眼の男が手を振りながらこちらに歩いてくる。男は暗青色の軍衣に身を包んでいた。両肩の先端には円形の肩章が銀色に輝いている。軍袴は脚の線がわかりそうなほどタイトで、縦に細い白の三本線が入っていた。玄鉄は見たこともない着物だと思ったが、それでもどうやら高貴な身分の人間らしいとは推測できた。男は玄鉄の前に立つと握手を求めた。玄鉄は断るという選択肢も思いつかないままに男の手を握る。
「ケルベロスはね、上質な音楽を聞かせてやらないと少々やんちゃなんだ」
はは、と笑って男は三つ頭の黒犬を指す。
少女はケルベロスの鼻先を順番に撫でながら歌い続けた。
「上陸の許可を感謝するよ。我が親愛なる……ええと、お名前は」
「玄鉄」
「ミスタ玄鉄。私はマシューだ。よろしく」
こうしてマシューは強引に入国してきたのだった。
玄鉄と村人たちがあっけにとられている間に、マシューは港の見える丘に邸宅を構えた。そこはもともと主のいなくなった武家屋敷で、マシューは住みよいように屋敷を丸ごと異国風に改築してしまった。
邸宅の有する広大な庭園に、マシューは自分の国で飼っていたというペットを放した。例えばグリフィン、ハーピー、ヒュドラ……その他様々な西洋怪物たちである。庭園の隅ではケルベロスが鎖に繋がれた。マシュー曰く「少々やんちゃしやすい」ケルベロスを鎮めるために少女の歌声が必要であったから、マシュー邸の庭園にはいつも典雅な歌声で満たされていた。
マシューは玄鉄を「この国でできた最初の友人」として頻繁に邸宅に招いた。そのたびに玄鉄はマシューから贈り物を持たされることになる。たとえば茶葉、ティーセット、異国の着物、グリフィン。マシューは玄鉄を「友人」と強調し、「玄鉄の友人は私の友人だからね!」と愛想良く近隣住民をパーティーに招いた。マシューは故郷から持ち込んだ茶葉や庭園で育てているバラを惜しまず来客に持たせたから、たちまちに村の人気者になった。
ある夜のパーティーのことだった。
異国の銘酒に酔った玄鉄が、夜風に当たろうとバルコニーに出た時、庭園には少女の歌声が薄靄のように漂っていた。ケルベロスの鼻先を撫でながら愛しい仔犬を見るような瞳で歌う少女の姿が、玄鉄の脳裏をかすめる。玄鉄が初めて少女を見たのは、マシューが港にあがった日だった。マシューの船をひいてきたケルベロスが翡翠の瞳に玄鉄於菟らえて牙をむいた時、少女は歌ってくれた。
そうだ、あの少女は、私を助けてくれたのではないか。一言礼を言っておきたい。
玄鉄は歌声を探して夜の庭園をさまよい歩いた。
山脈のように連なるツツジの生垣を超えたその先、マシュー邸庭園の北の果てに、ケルベロスは鎖で繋がれているはずだ。少女はきっとそのそばで歌い続けているだろう。玄鉄は一度、少女の歌をどうしても近くで聞いてみたかった。あの不思議な声はどうやって出しているのか、まったく不可解だったのだ。
歌声は不透明で均等に引き延ばされているから、玄鉄は今、少女に近付いているのか、離れていくのかわからなかった。少女は小さな声でささやくように歌っているのか。ケルベロスの繋がれた場所は思っていたより遠くにあるのか。玄鉄は空間認識能力のばらけていくような錯覚を抱え歩いた。
ツツジの並木はいつしかバラに変わっていた。想像していたよりずっと庭園は広かったらしい。夜露に濡れたバラの森、女王の気品で眠る白バラの蔓の帳の向こうに、少女はいた。袖のない白のワンピースを身につけた少女は、草の上に座って歌っている。歌の合間に、何かを切る硬質な音が混じり始めた。玄鉄はトゲのある蔓の帳を迂回し、少女に近付く道を探した。そして少女の背後に回った時、玄鉄はそこに、マシューの姿を見た。
少女は細く歌い続けている。マシューはその背後に立ち、両手を差し伸べているらしかった。こすれ合う冷たい鋼の音が夜気を震わせる。何かが切り落とされて、地上の草がそれを受け止めた。
玄鉄は形の良い眉をひそめる。青い芝の上に降り積もっていくのは羽根だった。少女のワンピースの背は広く空いていて、地肌から小さな翼が一対生えていた。その風切り羽根に、マシューは菜園用の大きなハサミをいれていく。少女はそれに構うことなく歌い続けているのだった。
気付いた時、玄鉄はバラの帳から飛び出して、マシューからハサミを取り上げていた。
「何をしているんだ!」
 足元には風切り羽根だけでなく羽毛まで散っている。マシューはどうしてここに玄鉄がいるのかと言いたげに目を白黒させていた。
「ええと、これはね、玄鉄」
 マシューが場違いな笑みを浮かべている間に、玄鉄は舶来品の黒ジャケットを脱ぐと少女の肩にかけてやった。
 盲目的に歌い続けていた少女は、突然肩に落ちてきた温もりに驚き、目覚めるようにして歌をやめた。薄く唇を開いたまま、玄鉄を見上げる。瞳を覆っていた水膜は、とたんにかさを増した。
 玄鉄はうろたえる。いったい何が起きているのかわからなかった。
「おい、何をしている、歌え」
 マシューは慌てて少女の胸倉をつかんで立ち上がらせた。玄鉄は一瞬あっけにとられたが、すぐに少女を解放してやらねばならないと思った。少女からマシューを引き離す。ところがその時玄鉄は、六つの翡翠が闇の中で瞬くのを見た。三つ頭の黒犬が目を覚ましている。四肢には金の足輪がはめられ、鎖で地面に繋がれていたが、ケルベロスの右頭と左頭はそれぞれ四肢を拘束する鎖を噛みちぎった。金の鎖が、強靭な歯に噛み砕かれる音が白バラの園に満ちていく。玄鉄もマシューも少女も、息を殺して立ちすくんだ。黄金でできた鎖を、ケルベロスは噛み砕いて飲み込む。それは人間の骨を喰らうような響きを持っていた。むっとするほどのバラの甘い香りが、これが夢でないことを告げている。ケルベロスは自由の身になると庭園を囲う鉄製の壁をのぼり、外の世界へと逃げ出した。重い足音が遠ざかっていくのを感じて、マシューはようやく息を解放する。わざとらしく恨めしい表情を作って、マシューは玄鉄を見た。
「はあ。さすがにまずいよ。玄鉄」
 マシューは指笛を吹き、目の前にいた少女を軽々と抱き上げた。薄い皮膚の下には全て白い羽根が詰まっているのではないかと疑うほど、少女はすんなりマシューの腕におさまった。一陣の風が吹き抜ける。足元の草が黒々と波打った。
次の瞬間、玄鉄の頭上にグリフィンが現れた。金細工の首輪をはめ、赤い鞍を乗せたグリフィンは、白い翼をはためかせるとマシューのそばへと降り立った。
これが玄鉄にとって、初めてグリフィンを見た瞬間だった。玄鉄はただ圧倒された。猛禽類の頭と前脚、獅子の胴体と後ろ足。馬より一回り大きいうえに背からは胴の長さよりも幅のある翼が一対生えている。グリフィンはマシューの元へ近付くと地面に伏した。マシューは少女を放り投げるようにしてグリフィンの鞍に乗せ、自らもグリフィンにまたがる。マシューがグリフィンの首輪から繋がる手綱を握ると、グリフィンは立ち上がり、助走をつけて夜空へと舞い上がった。
 庭にひとり取り残された玄鉄は困惑した。あの少女はいったい何者なのか。あの翼の生えた鷹のような、獅子のような怪物は何なのか。しかし今は考えている余裕がない。ケルベロスが脱走した。あの三つ頭の巨大な犬が村の家々を踏み潰すかもしれない。こうして黙って立っているわけにもいかなかった。玄鉄はケルベロスの爪痕が残る庭園の壁を見上げる。
 ここを乗り越えるのが早いか、それとも一度邸宅に戻って……いや、そんな時間はない。
 どうすれば……と考えて、玄鉄はマシューの仕草をまねて指笛を吹いた。
白バラの濃密な芳香に、乱れが生じる。星あかりをふくんだ夜露は風に吹かれて舞い散った。今、翼をはためかせるひとつの影が、玄鉄へと向かっていく。
 
■第5幕 第4場
 グリフィンの背に乗り、ケルベロスを追うマシューは舌打ちした。
 まったく運が悪いな。
 ケルベロスが脱走したことに対してではない。いつかは「脱走」させるつもりでいた。今夜がその時でも問題はないのだが、ケルベロスは都の方角ではなく森の中を突き進んでいる。王都を壊してくれるのなら「脱走」の甲斐があるものだが、森で木をいくら薙ぎ倒したところで仕方がない。そういうこともあろうかと進行方向の変更を指示させるために少女を連れてきたが、少女は玄鉄のジャケットをつかんで震えるばかりで歌わない。ここから落とされたいのかと脅してみたがだめだった。
 マシューは呆れたように息をつく。ケルベロスの猛進は止まらない。この国に渡ってきてからというもの、少女の歌声で無理に眠らされていたために、運動不足であるらしかった。ケルベロスは豹のように弾力のある動きで崖を下り、川を渡り、木々を倒して道を切り開いていった。
 さあどうするかな。都に方向転換する方法があるといいのだが……。
 マシューが思案していると、突然遠く背後から名を呼ばれた。玄鉄の声だ。マシューは手綱を握りしめ、まさかと驚いて振り向いた。玄鉄はグリフィンにまたがり、夜を滑空していた。
「玄鉄、君グリフィンに乗れたのか!?」
「見様見真似だ。それより」
グリフィンが速度を上げてマシューのグリフィンに並ぶ。大きな口を開けて喋ると空気が無理に入ってきて苦しくなった。玄鉄は咳き込む。
「ケルベロスを止めてくれ! この森の先には病院があるんだ!」
「無理だよ。こいつが歌わないから」
マシューは唇を尖らせて肩をすくめて見せる。マシューの前に座る少女は玄鉄にかけてもらった黒ジャケットを被って震えながら、小さく首を横に振った。
東に、病院が迫ってくる。病院の前は大きく開けて、ただ草原が広がるばかりの庭があった。そこに面した窓の一つ、一階の部屋の窓がひとつだけ空いていた。ケルベロスの行く手にはまさに、その窓がある。ケルベロスの走る地響きで目を覚ましたのだろうか。紗のカーテンを白い指がつかんでいた。
「まずい! 人がいる!」
 玄鉄は叫んだ。
 
■第5幕 第5場
 ケルベロスは病院に面する草原に至ると立ち止まった。一階の病室。窓の開いたその部屋の中を、六つの眼でじっと見つめる。
「誰?」
 弥生は更紗のカーテンを細い指で握ったまま、翡翠の瞳に尋ねた。
「あなたは……」
 三つ頭の巨大な黒犬は草の上を渡る風のように静かに歩み寄ってきた。中央の頭だけが鼻先を弥生に寄せる。弥生は犬の鼻筋を撫でた。黒い毛の一本一本が太く硬くて、こんな生き物がこの世にいたのかと、弥生は嬉しくなって「どこからきたの?」とささやきかけた。
 憐れな命よ。
 手のひらに伝わってきた言葉に、弥生は手を止めた。鋭い毛先が、弥生の指先の薄い皮膚をすっと裂く。痛い、と顔をしかめて、弥生は黒犬の毛先に触れないよう、和毛をかき分けてその根元の肌に触れた。
 人間の浅知恵で命を永らえてきたか。苦しみながら生き延びねばならない罪はそなたにないというのに。憐れなことだ。私が冥界に送ってやろう。
 黒犬の声が、さっきよりもはっきりと聞こえた。弥生の目の前には、生きた翡翠の双眸が獲物を狙うように潤い輝いている。弥生は微笑んだ。
「あなた、死神さま?」
この国ではそう呼ばれるものかもしれない。
 ケルベロスの返答に、弥生はわかっている、というように、しかし困惑した様子でうなずいた。
「お迎えありがとう。でもね、私には婚約者がいるの。もう少し待ってくれないかしら? 彼と一緒に生きる時間を、少しだけでも」
 さらなる苦しみがあるだけだ。
 ケルベロスは答えた。弥生は愛おしむように黒犬の肌を撫でる。
「どうしても、今?」
 ケルベロスは舌を出すと弥生の腕を舐めた。温かく湿った舌の柔毛が艶やかな肌をなぞっていく。犬を見るのって初めて、と、弥生は無邪気な微笑みをこぼした。
「今がその時だというのね。でも、ひとつだけお願いを聞いてくれる? 彼に会わせて。少しだけでいいから。お別れを言わなくちゃ。ねえ、できるでしょう? 神様なら」
 ケルベロスは弥生を憐れんでいた。彼を前にして恐怖しない人間を、彼はかつて見たことがなかった。弥生はあまりにも世界を知らなすぎた。この世に生きながら、この窓の外のあらゆるものに触れられず、弥生は冥界に戻らなければならない。
ケルベロスは口を開けた。牙が、白くぼうっと病室の闇に浮かぶ。牙と牙の隙間に砕かれた金鎖のかけらが挟まっていた。
弥生はこの時に初めて、死というものを明確に恐れた。口を開けたケルベロスは静かに弥生の肢体をくわえる。弥生は死の恐怖に打ち震えた。
朱雀さま! 朱雀さま! 朱雀さま! 朱雀さま!
 薄れていく意識の中で、弥生は婚約者の名前を叫び続けた。
鋭い牙が弥生の身体に食い込む。ケルベロスは首を伸ばすと、病室のベッドへ弥生を横たえてやった。
 
病院の上空では玄鉄が、マシューと共にグリフィンに乗る少女に向かって叫んでいた。
「頼む。歌ってくれ」
少女は玄鉄のジャケットを握りしめる。ジャケットの内側に残っていた玄鉄の体温は、切られた翼の断面に温かく染み込んでいった。
「ケルベロスに庭園に帰れと歌ってくれ」
 玄鉄が必死の形相で懇願するのを見た時、少女は、初めて誰かのために歌いたいと願った。
 
 ケルベロスは、少女の歌声を耳にして顔をあげた。
 庭園に戻りましょう。
 歌声はケルベロスに帰るべき場所を示唆する。
 庭園に。白バラの帳の向こう側。あなたの眠る場所がある。
 歌は続く。ケルベロスの意識は少女の紡ぐ歌の世界へ引き摺りこまれていった。まどろむようにゆっくりと病室の窓から離れる。三つ頭は空を見上げると、少女の歌の降る森の中、切り拓いた道を戻っていった。
「よし。上手くいったぞ、玄鉄。戻ろう」
 マシューは、どうしてこの娘は玄鉄の言うことだけ聞くのだろうと首を傾げた。指笛を吹く。二頭のグリフィンはそれを合図に進行方向を変えた。グリフィンたちはケルベロスを追い、マシュー邸の方角に風をつかみ始めた。
 玄鉄はあわてて首をひねったけれど、一階の病室の、窓の奥までは見えなかった。
 
■第5幕 第6場
 宇宙を透かした夜空を、二頭のグリフィンが並んで飛んでいく。日中のグリフィンの毛並みは、陽光を吸収して白金に艶めく。夜は金の色素を抜いてしまうから、今、グリフィンの和毛は透き通る月光の色を宿していた。羽根の一枚一枚も同じように静謐を纏っている。猛禽類を思わせる太いくちばしとかぎ爪のある前足だけは、太陽からもらった宝物であるかのように黄金を湛えていた。
「おい、どうした?」
 マシューの声が聞こえて、玄鉄は隣を見る。マシューはグリフィンに話しかけていた。
 グリフィンは赤い瞳を光らせて高度を下げていく。着陸するつもりらしい。玄鉄が乗るグリフィンもそれに続いた。しかしマシュー邸はまだはるか先にある。
 二頭のグリフィンは山の中腹に降り立った。どうやら人の手で切り拓いたらしい広場がある。
「玄鉄! この木はなんだ? 燃えているみたいだ」
 広場には一本、赤い葉をさざめかせる見事な大木が自生していた。
「紅葉だ」
 玄鉄は答えて赤い葉の煌めきを眺める。マシューも少女も、それにならった。二人は興味深そうに目を見開き、紅葉に見いった。
 三人がグリフィンの背から降りると、グリフィンたちは彼らにしかわからない言葉で何か相談を始めた。やがてマシューが乗ってきグリフィンが地面に伏せる。グリフィンの視線に気付いたマシューは、グリフィンに近寄り、首輪を外して鞍も降ろしてやった。豪奢な装備を地面に落としていく。
「誰かの墓があるらしいね」
「墓? こんなところに?」
玄鉄は言った直後、紅葉の根の元に土が盛られていることに気付いた。盛り土の上には石がひとつ積まれている。枝からこぼれる紅葉の赤が墓の上に散っていた。葉の先に降りた霜は凍っている。ジャケットを少女に譲った玄鉄は夜の山の冷え込みに震えた。
 マシューは落ちている枝を一カ所に集め始めた。「さあさ、手伝いたまえよ」とマシューが言うので、玄鉄も枝を拾い集める。
「石でも打って火を起こすつもりか?」
「まさか。面白いことをいうな、玄鉄は!」
 マシューは笑うとグリフィンを見た。地面に伏していたマシューのグリフィンは立ち上がり、マシューの元へと歩み寄る。
「玄鉄、離れていたほうがいいよ」
 マシューはそう忠告すると、自らもグリフィンから離れた。
グリフィンは集められた枝を凝視する。喉元が何度か上下した。
「グリフィンの喉には着火器官がある。肺で圧縮したガスを放出して」
 マシューが説明し出すと、グリフィンは黄金のくちばしを開いて炎を吹いた。たちまちに地面に集めた枝は燃え上がる。玄鉄は突然渦巻いた熱風にあとずさった。
「……と、まあ、この程度の炎であれば、すぐに準備できるわけだよ」
 マシューは熱風に煽られた髪を手櫛で整えると「さて」と鞍を乗せたグリフィンの方へ歩み寄った。
「ケルベロスはしばらく大人しくしていると思うが、次に目が覚めた時にやっかいだ。おい」
 マシューは少女に「来い」と手招きする。しかし少女は玄鉄のそばを離れなかった。はあ、嫌われちゃったか、とマシューは額を撫で上げる。
「しょうがない。私は先に戻って人魚たちにハープを準備させるよ。あとで迎えにくるからしばらく待ってくれ。玄鉄、グリフィンを借りるよ」
そう言うと、マシューはグリフィンの鞍にまたがり、鐙に足をかけると、手綱を握って空に舞い上がった。
鞍をおろされた方のグリフィンは山の傾斜を下り、岩場の方へと姿を消した。しかしこの近くにいるという気配は、山の空気を染めるように色濃く残っている。
玄鉄は焚火に近寄り少女と並んで座った。頭上を見れば、視界を覆う黒い枝葉の隙間から、青白い朝が降り注いでくる。しかし空の奥深くにはまだ、銀沙のような星粒が時を超えて瞬いていた。
玄鉄の羽織を肩にまとったままの少女は、炎を見つめていた。玄鉄は少女の横顔をうかがう。揺らめく炎に照らされた白い頬は豊かに高く、細いおとがいは三日月のような弧を描いていた。
玄鉄には少女に聞きたいことがたくさんあった。しかしそれを口にしてしまえば、少女との間に淡く結び始めた何かを脆く崩してしまう気がした。少女はきっと、玄鉄が何も言わないことを信じている。そんなことを思ってしまうから、玄鉄はただ天を見上げ、夜が砂城のように溶けていくのを見ていた。
少女はやはり、一言もしゃべらなかった。
 
■第5幕 第7場
於菟は閃いたように玄鉄を見る。
「まさか、その少女が……」
「そう、安凪だ。安凪はマシューが連れてきた、西洋怪物の一種だった」
「安凪さんはその日に玄鉄館に?」
 弥生の墓にグリフィンを戻した玄鉄と於菟は、玄鉄館に帰る道を歩み出していた。緩やかに蛇行する砂道はよく乾いていて白い。砂の中には細かく砕かれた石英が混じっているらしく、時折清く透明な光をちかっと放った。快晴である。
「安凪はしばらくマシューのところにいた。朱雀が中沢家に出立することになった日、私はマシューのところに呼ばれてな。いつも通りに茶に付き合わされて、帰ったら朱雀を追うつもりだった。ところがその日に安凪を引き取ることになった」
玄鉄がマシュー邸を訪れると、庭園には安凪の歌声の代わりに人魚によるハープの弾奏音が満ちていた。
「歌は……?」と玄鉄がマシューに問うと、マシューはまったく仕方がないという調子に肩をすくめて答えた。「あの日以来歌わないんだよ。あれにはもうケルベロスの餌にするくらいの価値しかない」と。
玄鉄は憤慨し、庭園をくまなく歩いて安凪を探した。玄鉄が久しぶりに見た安凪の背からは、翼の残骸がすっかり抜け落ちてしまっていた。安凪は人間と変わらない姿のまま、西洋怪物の棲む庭園をさまよっていた。玄鉄が安凪の手を引き連れ、玄鉄館に帰ろうとした時、二人のあとを一頭の西洋怪物がつけてきた。
斬らねばならぬか。
玄鉄が左腰に帯びた太刀の柄に触れて覚悟して振り返った時、そこにいたのは、赤い鞍を乗せたグリフィンだった。シャブラーク(鞍覆い)の四隅に縫い付けられた金の王冠の刺繍は夜に瞬いていた。金属の鐙は冷たく揺れている。グリフィンは黙って玄鉄を見つめていた。その眼差しに、玄鉄は初めて見るものではない親しみを覚えた。
「お前、俺を乗せてくれたグリフィンか?」
 脱走したケルベロスを追いかけた夜、マシューの乗っていたグリフィンは山に残してくることになったが、玄鉄の騎乗したグリフィンはマシューの庭園に帰ってきていたのだ。
 グリフィンは玄鉄の問いかけを肯定するかのように頭をかがめた。お辞儀らしい。
 玄鉄は安凪とともにグリフィンの背に乗り、手綱を握って、空路で玄鉄館へと帰った。
「私があの日乗ったグリフィンはマシューから『友好の印』と強調されて譲り受けることになった。以来、グリフィンには弥生さんの墓守をさせている」
 於菟の中で全てがつながった。ヒュドラ討伐の日、龍香が「蛇の頭を切り落とし、火で断面を炙って再生を防ぐ」という作戦を提案した時、朱雀が「火なんてこの状況でどうやって起こす?」と言った。直後、玄鉄はひとり墓地の方角へと走り出したのだ。その時に於菟は玄鉄の吹く指笛を聞いた。グリフィンはその指笛を聞いて、弥生の墓から玄鉄のもとへ飛んできたに違いない。
「玄鉄さまはどうして……朱雀さまにグリフィンを討伐させたのですか?」
 於菟はうつむき加減に、目線だけを上げて玄鉄を見る。玄鉄の着るジャケットの前を止める四つの金ボタンが眩しい。船の錨の意匠の入った丸ボタンは、ロープをかたどる彫刻に縁どられていた。
「『百姓を襲うから討伐してほしい』と中沢家から依頼があったからだ。……於菟、お前もヒュドラを討伐する炎を見ただろう。確かにグリフィンは味方につければ強い。賢いし、きっと手なずけて良い戦力として活用できるだろう。しかし敵であったとしたら? グリフィンが人を襲ったと聞いた時、あれは立派な兵器なのだと、私は確信したのだよ。もし海の向こうの異国の将軍がグリフィンで軍隊を組織して、この国に攻めこんできたとしたらどうする? そう考えた時、グリフィンの有用性もそうだが、倒し方も知っておかなければならないと思った。異国と戦争でもすることになれば、彼らは必ずグリフィンを使う」
 於菟は深く首肯した。玄鉄の考えに大きな間違いがあるとは思えない。西洋怪物を従える軍と西洋怪物を一切知らない軍の戦いの結末など目に見えている。しかし……。
言おうか迷っていた言葉が、喉で震えている。しかし今しかないと思った。玄鉄になら話せる、と於菟は思う。
「グリフィンが守っていたのは、俺の父の墓です。去年の飢饉で死にました。村の百姓たちはみんな飢えていましたから、掘り返して食われないように山の中腹まで運んで埋めたんです。紅葉の大木のある、広場に」
 父の死んだ日。紅葉の広場に父を埋めたその日に、於菟は龍香に出会った。紅葉の大木を見に訪れた領主の中沢雅茂と、その娘龍香。二人の行楽の場を不浄のものとしてしまった於菟は、斬られる覚悟で額を地面に押し付けてひれ伏した。ところがその様子を見て龍香が紡いだ言葉はこうだった。「父上、あの者を、龍香のお友達にできませぬか」。於菟は今でも、龍香の慈悲を骨の芯に刻んで生きている。
「グリフィンが襲っていたのは、親父を掘り返して食おうとした百姓たちなんだと思います。たぶん、あのグリフィンは俺の父の墓を守ってくれていたんです」
 グリフィンに追い払われた百姓たちが「山に危険な怪物がいるので斬ってくれ」と領主の雅茂に頼んだ。志心流を極める剣豪がいるという玄鉄館に、雅茂はグリフィンの討伐を依頼することになる。そこで玄鉄館から中沢家に派遣されてきたのが、朱雀だったというわけだ。
「それは……悪いことをしたな。すまない。親父さんを守るグリフィンを討伐するよう朱雀に言ったのは私だ」
 玄鉄は下駄で砂利を踏み崩して歩む。於菟は隣で首を振った。
「いえ、俺にも、悪いことなのか、良いことなのか、わからないんです」
 父の墓をグリフィンが守ってくれていたのはありがたいと思う。しかしあの時、朱雀がグリフィンを斬ってくれなければ、龍香の命が危なかった。
「西洋怪物とはわかりあうべきなのか、排除するべきなのか、私たちの生きているうちには答えが出ないものかもしれないな」
 玄鉄は前方を見つめる。蛇行する白い砂道が続くばかりで、まだ民家のひとつも見えてこない。道を囲む草は、宝石のように硬質な翠を湛えて葉先を尖らせていた。それでも風が吹けば柔らかくなびく。薄い刃のような青が、緩やかな丘に繁茂していた。梨の木からこぼれた白い花が草に絡まり微香を漂わせている。二人の目的とする場所はまだ遥か先にあった。
「ケルベロスが病院で接触したというのが、もしかして……」
 於菟は玄鉄と歩調を重ねて前進する。高くのぼってきた陽光が白く痛くて目を細めた。玄鉄は前を向いたまま、於菟と同じ表情をして答える。
「弥生さんだ。安凪をマシュー邸に送り届けた後、俺はあの病院に戻った。病室にいた女性が無事かどうかどうしても気がかりでな。そこで見たのが弥生さんの遺体と、それにすがる朱雀だった」
 玄鉄の脳裏には弥生の遺体を前に、膝を屈して腹を切ろうとしていた朱雀の後ろ姿が焼き付いている。しかしさすがにそれを於菟に話す気にはなれなかった。
「どうして朱雀さまは、墓に花のひとつも備えに来ないんでしょうか?」
「初めは弥生さんの死を受け入れたくなかったからだろうな。でも今は」
「今は……?」
「於菟、それはお前の方がわかるだろう」
玄鉄は意味ありげに微笑む。於菟は頬が紅潮するのを感じて玄鉄から目を逸らした。
わかっていたことなのに、どうしていつまでも痛むのだろう、と於菟は目を伏せる。どんなにこの気持ちを温めても、龍香に届くことはないのに。
「朱雀とは一度腹を割って話しあわなければならないな」
「きっとわかってもらえます」
「どうかな」
二人は並んで、玄鉄館への帰路を歩んでいった。
 
■第5幕 第8場
 秀夜に一ヶ月の安静を言い渡された朱雀は、そのあいだ玄鉄の面会希望を拒み続けた。やっと顔を合わせることになったのは、秀夜による退院許可の出た日である。朱雀は玄鉄、龍香、於菟の三人を客間に呼びつけたが、襖を開ければそこには秀夜と安凪までいた。玄鉄が連れてきたらしい。なぜ呼んでいない者をと朱雀は顔をしかめたが、玄鉄を問い詰めるのに秀夜と安凪がいても別に問題はない。譲歩することとして、朱雀は座卓を挟み玄鉄の向かい側に腰を下ろした。
 座敷を区切る障子を開け放った先には、入側を挟んで縁側が続き、その先に池泉庭園がある。岩を積んで作った小さな滝からは淡水が流れ落ち、川のように流れのある池には錦鯉が泳いでいた。石の灯篭にはまだ青い紅葉の影が落ちている。客間に吹き込んでくる風は爽やかで涼しい。
「玄鉄、どうしてグリフィンを乗りこなせたのか、ここで全員に説明してもらおうか」
朱雀は腕を組んだ。
玄鉄は覚悟を決めたように深呼吸する。
「あのグリフィンはマシューから譲り受けた」
 朱雀、玄鉄、龍香、於菟の四人が一同に会するのはヒュドラを倒した日以来だった。
龍香は二度見たグリフィンのことを思う。刀を通さないという、白金の硬質な羽根。重いかぎ爪。ヒュドラを焼き払う聖炎。
「玄鉄さま、そのマシューさまという方は……」
 龍香はおずおずと聞く。
玄鉄は朱雀の隣に座る龍香に目線を移した。
「ハーピーを討伐した日に話しただろう。海を渡ってきた渡海人だ。私が上陸を許した。そうするしかなかった。とんでもなく強大な西洋怪物を飼いならしていたからな。以後、マシューは港の臨める高台の武家屋敷を改装して住んでいる。私は表向きマシューの友人として振舞わなければならなくなった。ヒュドラ討伐の時に私が騎乗したグリフィンは、そのマシューから『友好の印』として譲り受けたものだ」
 友好の印、の部分を玄鉄は苦々しく発音したが、朱雀はそれに気付いていないふりをして詰問した。
「ならば、どうして俺にグリフィンを討伐させた?」
「初めは純粋に滅ぼさなければならないと思った。この国に入ってきた西洋怪物の全てを討伐せねばならないと思ったのだ。朱雀、お前と出会った日、あの日の俺は本当に、そう思っていた」
「今は違うのか」
玄鉄は隣に座る安凪を見る。安凪は顎を引き、不安気に玄鉄を見上げた。
「西洋怪物は排除すべきものではない。西洋の異国はこの国よりずっと多くのグリフィンを従えている。ヒュドラさえ操る技術を持っているかもしれない。いや、きっとある。もしそんな軍隊が、マシューのように強引に港に船をつけて攻めてきたらどうする? こちらも西洋怪物の扱い方を知っておかなければ、」
「弥生を殺した西洋怪物などに力を借りるつもりはない。西洋怪物はすべて俺が斬る」
「弥生……?」
龍香がその名を口にしたことに面食らったのは、玄鉄の方だった。朱雀は「お前は口を挟むな」と吐き捨てる。龍香は肩をすぼめた。ごめんなさい、とかすかに唇を動かした。
玄鉄は朱雀を非難するように眉間に皺を深く刻んだ。
「朱雀、お前は群れで襲いかかってくる西洋怪物軍を刀一本で倒せるというのか? 現実的じゃない」
「そのために同志を集めて剣を磨き」
「だから、それがもう古いと言っているのだ」
玄鉄の語気に熱がこもる。
「私だってこんなことは言いたくない。信じたくはなかった。西洋怪物は兵器になりえる。しかし純粋な兵器ではない。他に有用性がある。それを理解して、互いに信頼し合い……」
「玄鉄、お前、いったい何を言っているんだ?」
まったく信じられないという目つきで、朱雀は玄鉄を蔑む。玄鉄はそれを受け止めながら、わからないのか、と重苦しくささやき、龍香を見た。龍香はどうして玄鉄が龍香に視線を投げかけたのかわからない。
龍香の表情に困惑が浮かびあがったのを見てとり、玄鉄は視線を落として呟いた。
「安凪も西洋怪物だ」
沈黙が見えない液体になって部屋を満たす。龍香には、世界中の時計の秒針が瞬時に凍りついたように感じられた。
「西洋怪物が純粋な悪だというのなら、朱雀、お前は安凪を斬るか」
「どう見ても人間ではないか!」
朱雀は動揺している。声のかすかな震えからそうだとわかるだけで、表情は冷たく引き締まっていた。
「安凪は人間に近い形をしている西洋怪物だ。美しい歌声であらゆる生き物を従わせる力を持つ」
龍香は「あ」と口を開いて両手でおさえた。
破傷風で伏せっていた頃。安凪が龍香の耳元に口を寄せると、微かに竪琴の調べのような旋律が聞こえて……。
「あれは、歌声……?」
龍香は安凪を見る。安凪は控えめに頷いた。
玄鉄は朱雀に斬られないよう、安凪に寄り添う。
「マシューは三つ頭の怪物に船を引かせてこの国へやってきた。その怪物を、マシューの指示に従って安凪が歌声で操っていた。安凪だってその意味では兵器だろう。けれど、同じ歌声で龍香を治療した。西洋怪物は完全な悪じゃない」
秀夜も玄鉄の説得に協力する。
「安凪さんは、龍香さんが早く回復するように歌ってくれていたんです。免疫細胞に回復を促す歌を」
朱雀は短くうなった。
「それでも弥生は……!」
「朱雀」
玄鉄は朱雀に目で噛み付く。
龍香の前で弥生さんの名前を出すな。
玄鉄に諭されているのを感じて、朱雀は余計に腹立たしくなった。
龍香は朱雀の横顔を見る。
誰なのですか。朱雀さま。その、弥生さまとはいったい……?
聞きたいことは言葉にならない。いや、意識して聞かなかっただけなのかもしれなかった。聞けなかった疑問は毒を燃やす火のように龍香の胸をちりちり焦がす。
朱雀さまは大事な方を西洋怪物に奪われて敵討ちを……?
龍香の脳裏には中沢家の臣下たちの不平の言葉がよみがえった。グリフィンの毛皮を剥がず、翼を切り取らず、黄金の前脚すらも燃やし尽くしてしまったことを、臣下たちは不満がっていた。そんなことをすればひんしゅくを買うことくらい、朱雀にも想像できていたはずだ。
そうだ、それなのに朱雀さまは討伐したグリフィンを焼き尽くした。あれからハーピーを斬り、ヒュドラを倒して……。
龍香は聞きたくてたまらなかった。
朱雀さま、その弥生さまとはいったい、いったい誰なのですか?
しかしその答えはすでに手のうちにある気がして、龍香は確かめることができない。聞かずしてわかってしまうことが、龍香には怖かった。
「行くぞ」
朱雀に振り向かれて、龍香はハッとした。客間を出ていこうとする朱雀の背を追う。龍香は困惑しながら於菟を振り返った。
「於菟」
「俺は、玄鉄さまが正しいと思う」
その声の落ち着きに、龍香は胸の底が冷えた。
「何を言って……」
「俺は行かない」
於菟は龍香の瞳をまっすぐに見つめた。両手の拳を握りしめる。
そりゃ、と於菟は思う。朱雀さまの婚約者の命を奪ったケルベロスは許されない。けれど。於菟の脳裏にグリフィンが思い浮かんだ。弥生の墓を守るように翼で囲い、眠っていたグリフィンの姿が。於菟の掘った父の墓を飢えた百姓たちから守っていたグリフィンの、赤い双眸の煌めきが、於菟の胸に焼きついている。
朱雀は黙って扉を引き、客間を出て行った。軋む廊下をずんずん進み、玄鉄館の門をくぐって、都の方へと早足に歩いていく。その背を、龍香だけが追いかけていった。
朱雀さま。私は味方です。朱雀さまの味方です。でも……。
龍香堪えきれず、一度だけ、玄鉄館を振り返った。

続き→「侍少女戦記」 第6幕|青野晶 (note.com)

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