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待つ

子供の頃は上の空だった。
考え事をしていたわけではない。子供の自分が退屈だった。大人に比べて知恵も腕力も足りない、子供なのに子供扱いされるのが恥ずかしく、早く時が過ぎれば良いと思っていた。それは、長い時間だった。今思えばあの時私は待っていたのだと思う。でもその事に気付いていなかった。それについて誰かと話し合うこともできず、一人無自覚に、大人になるのを待っていた。待ちながら、食事をし、授業を受け、友達と遊び、眠っていた。そのうちに境目がわからないまま大人の姿になっていた。

大人になってから待っていたのは喧嘩別れした恋人からの電話だった。あの時の私は「待っている」ことを自覚していた。寂しさの奥にもしかしたらという期待があった。電話を待ちながら、仕事をし、休みの日は家事をした。どれだけ時間が経っても電話がつながることはなく、そのうちに待っていることも忘れ、仕事をして、家事をして、別の人と出会い、恋愛をした。電話を待つのをやめようと決意したことは一度もないが、電話を待っている自分はもういない。

大人になることも、恋人からの電話も、望んでいながら、自分からは何も出来ず、行為でありながらも、見た目には分からない。待つという私の内面だけがあった。他のことをしながら行うことが出来た。私が何かを待っていることを、何を待っているのかも、周りの誰も気づかなかった。待つものが到来してもしなくてもいつのまにか消えていた。

今の自分は何を待っているのだろう。何も出来ずに待ち望んでいるものは、無い。しかし、もし待つことが待ち望むことではなく、ただ時が流れるその状態だけなのであれば、老い朽ちて亡骸になることを待ちながら暮らしているとも言えるのかもしれない。しかし、私には生が死を待つだけの時間であるとは思えず、その考えに戸惑ってしまう。

待っている私に与えられるのは、姿ではなく自分の内面である。そこには不安や焦燥だけではなく、待つことである種、形式を保っている自分の静けさがある。
もし私が、何かを待ち望んでいるのなら、いつだってその望みは叶っても叶えられてもいない、小さな小さな光になるならないかの手前のものであり、おぼつかない自分の僅かな支えである。目の前に現れるその瞬間まで、本当は何なのかは分からない。待っている私は、今と併走する小さな希望を感じている。けれども、希望だと思った瞬間に、スルリと形を変え、いなくなってしまう。結局、いつも、待っている私だけがそこに居るのだ。


※この文章はサミュエルベケット『ゴドーを待ちながら』の読書会感想文を書くつもりで始めたのですが間に合わず参加できなかった為、改めて、待つことをテーマに書いたものです。読書会音声は以下です。私も今から聞きます。(2021年2月18日記)

2021年2月12日信州読書会さん読書会の様子



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