見出し画像

川端康成『抒情歌』読書感想文

信州読書会さんツイキャス読書会の様子

『抒情歌』を読んで

外の自然を眺めたり、観察をしたりしていると、ほどよく自分というものが無くなっていき、それでいながら輪郭がはっきりしていくような気がします。『抒情歌』には、無意識で感じている、例えば、風を皮膚に受ける寸前の感覚とか、耳で音を捉える前の静寂とか、そういった種類の名前のないものが、主人公の霊感の強い女性「私」の言葉により描かれています。
 
(引用はじめ)
「けれども今日この頃の私は、霊の国からあなたの愛のあかしを聞きましたり、冥土や来世であなたの恋人となりますより、あなたも私もが紅梅か夾竹桃の花となりまして、花粉をはこぶ胡蝶に結婚させてもらうことが、遥かに美しいと思われます。
(引用終わり)

香りを漂わせながら現世の姿で果たせなかったことを死後に行うのでもなく、現世の因果のまま業を抱えて生まれ変わるのでもない。私も、作中の「私」と同じように自然の一つとして交わる輪廻が良いなと思います。

「あなた」と「私」が生まれ変わり、共に花になったとしても、蝶が花粉を運ぶことには、因果はなく、自然の中の摂理であり、そうであるからこそ、その結婚は美しく感じます。自然の中に居て感じる、満ち足りた気持ちや守られている感覚は、輪廻した命と自然の中で再会し、それを無意識に肌で感じている事なのかなと思いました。

『禽獣』を読んだ時は、生き物の生と死を容赦なく捉え書いていることに、苦しくなってしまいましたが、私が恐ろしく感じていたのは死の描写という表面的な部分であり、川端の死に対する考えではなかったのかもしれないと、この小説を読み、思いました。そして、死に対して迷いのない明確な描写ができる人だからこそ、この小説ような死生観につながるのだと思いました。

歳を重ねながら何度も読みたい小説です。

この記事が参加している募集

読書感想文

文章を書くことに役立てます。