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梶井基次郎著「或る心の風景」読書感想文

「見るということ」

子供の頃、私の身体と私は別々で、身体という乗り物に乗っていると思っていた。乗り物には、年齢や性別や姿など、他人に対して私という存在を説明する装備がされていた。時々、私は、私という乗り物と離れ離れになった。それは正確に一人きりだった。孤独でありながら、寂しいという感情とは切り離されていた。快でも不快でもない。ただ何者でもない私が一人だという実感があるだけの状態だった。

物を見るということには、自分の心境に寄せたり何かを投影するということを超えた、私がその物自体になるという瞬間があると思う。

例えば、私は、今、下草から遠くまで飛んでいった青々とした飛蝗(バッタ)にもなれるし、見慣れた古びた木塀にもなる。遠くで風で揺れる大きな木々の群れにもなれる。私にとっての見ることは、自分の心の内を投影したり、予め用意された思考で解釈したりすることでは無い。ただ、その瞬間にその物自体を見ることで定められた概念から解き放たれるものである。それは私の魂が自由になる瞬間なのかもしれない。

(引用はじめ)

「ああこの気持」と喬は思った。「視ること、それはもうなにかなのだ。自分の魂の一部分あるいは全部がそれに乗り移ることなのだ」
喬はそんなことを思った。毎夜のように彼の坐る窓辺、その誘惑──病鬱や生活の苦渋が鎮められ、ある距りをおいて眺められるものとなる心の不思議が、ここの高い欅の梢にも感じられるのだった

(引用終わり)

喬と高い梢の関係は、その梢に自分を投影するというような一方向の目線では無い。高い梢を凝視した喬は既に高い梢になり、高い梢となった喬はそれを見つめる喬を眺める。その二重の視点は彼に隔たりを与え、彼自身を正確に表していく。その姿は正確であるからこそ清らかである。剥き出しの魂となった彼は自分の影を取り出しては眺めることができる。それは病に立ち向かうとか生活の苦渋乗り越える決意などという事では無い。只、その状態である事を見つめ、言葉で表すことで自由になる魂のあり方なのだと思う。

作者の魂が京都のあらゆる場所に宿りながら言葉になっていく過程が描かれていて、何度も読みたい作品だと思った。

青乃 (2021/6/11)

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