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「名人伝」(中島敦著)を読んで

高校生の頃からこの話が好きです。何故自分が惹きつけられるのか、はっきりと解明したいと思っているのですが未だ簡潔に述べられません。ただ、何かの本質がここに示されているようで、これを手掛かりに歩を進めていけるような気がしています。

弓の名人になるためには、弓を知り、修練することが基本ですが、弓に熟練した人が必ずしも名人なのではありません。名人となった紀昌が弓自体を忘れてしまうのは、忘れても良いとか、それが証であるということではなく、技の向こうに掴むべき「何か」があり、それが何より重要なことであるという、そのこと自体を示しているのだと思います。

学ぶことは伝承なくして語れません。しかし、最後の「何か」を掴むには、伝承のみでは追いつかないものがあり、その人が会得した「何か」は結局その人一代のものでしかないように思います。弓の技の伝承を、その道具の成立まで遡って考えると壮絶な修練含め非常に長い年月を経た壮大なものです。しかし最後に掴むのは恐らくきっと一瞬、そして、掴んだ「何か」はその人が亡くなれば共に消えてしまう。けれどもその「何か」は掴まない者が見えないだけで生まれる前も亡くなった後もずっと存在し続けているものだと思います。掴んだ者の存在だけが、「何か」が在ることを証明できる、名人とはその生涯の刹那で「何か」を己の姿で表すことのできる唯一の存在なのではないでしょうか。紀昌が、絵や書のような残るものでなく刹那で示す弓の名人であるというのは良い意味で渋い設定だなぁと思います。またこの話が名人で終わらず、絵筆を隠す画工や弦を断つ楽人のように、本質ではなく形式に囚われた者を滑稽に描くところで終わるのが、名人というある意味で抽象的な存在が誤解や悪用される可能性を、さらりと示しているようで、人心を知り尽くしているなぁと、感心してしまいます。

※今回も提出に間に合わず読書会に参加できませんでしたのでこちらに載せました。読書会音声は以下です。今回も沢山の方の感想文が聞けるのでは思います。私も今から楽しみに聞きます。(2021年2月20日記)

2021年2月19日信州読書会さん読書会の様子


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