書かなくたって生きてはいける
それなのに、どうしてわたしは書きたいんだろう。もうなんども重ねてきたこの問いは、たいてい書くことに行き詰まっているときに頭をもたげる。
それで今。
だれに頼まれたわけでもない小説を勝手に書き始めて、勝手に行き詰まっている。
正直、書くのって面倒だ。自分に見えている景色を、感情を、うまく伝わるように言葉にするのはなかなかに難しい。思うように書けないときはもどかしい。スッパリとやめてしまったほうが楽なのかもなと時々思う。
実際なんども手放しかけたけど、毎回きっちり「書きたい」に舞い戻る。内に秘めた、わたしだけのものであるはずの、かたちにならない心象が鮮やかに言語化されている物語を読んだとき、ああそうだったんだ、大丈夫だったんだって、背中を柔らかくさすってくれるような物語に涙するとき、ハッと目が醒めるような、うっとりまばたきするような瑞々しい文章に出逢ったときにはもういてもたってもいられなくって、どうしたってわたしも書きたい。
どうしようもないような瞬間はいつも、物語にすがった。そのうち、このどうしようもない瞬間こそを物語に昇華できたらと、書きたい気持ちが湧いてきた。それができれば、どんな苦しさだって生きづらさだって糧にできる。
小説じゃないとだめだった。身の回りのことを題材にして、直接的に書くのはいつもこわい。わたし視点の事実はだれか視点の事実とはきっと異なるから、例えばわたしの解釈で自らの傷を晒すとき、その傷に関わっただれかを意図せず傷つける可能性をおそれてしまう。芯だけを残して形を変えて、物語に、登場人物に託すことでしかわたしは書けない。その芯の部分を、拙くても、自分の言葉で表現できたときはほんとうに気持ちがよくて、だからきっとやめられない。
書くことから離れたときの自分がどうなるかはもうじゅうぶんに知っている。自分で自分に課せたものでも、日々のノルマみたいなものから解放された生活は確かに楽で、でもどこにも自分を繋ぎとめるものがないような、とても心許ない感じがするから落ち着かなくて、インターネットとかショッピングとか、時間とお金ばかりを消費する手軽な娯楽を求めてしまう。
書かなくたって生きてはいける。でも、どうせ戻ってきてしまう。それがわかっている今はとりあえず、すてきな文章にたくさん触れようと思う。いい文章を書くためには、いい文章をたくさん読む。読み続ける。書き続ける。言うまでもなく、もうほんとうに、それしかないと思うから。
松下育男さんの「これから詩を読み、書くひとのための詩の教室」は、書くことに迷いがあるときに読み返して勇気をもらう。詩に限らず、書きたいひとの背中を優しく押してくれる一冊です。
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