だれにも読まれない文章を
10代のころ、どこにも吐き出せない胸の内をひたすらノートに書き殴っていた。
あふれだす感情に書くスピードが追いつかなくて、文字も文脈もめちゃくちゃ。ときにはだらだら涙しながら、勢いあまってシャーペンの芯をぼきぼき折りながら、来る日も、来る日も。
現在みたいにインターネットは身近じゃないし、どこに発信するでもない。だれにも読まれない文章を、わたしはわたしのために書いていた。書かずにはいられなかった。
恥ずかしいとかうれしいとか悔しいとか、あまりに率直で生々しい感情の羅列は、とても自分以外のひとに読ませられるようなものではなかった。そんなノートが、段ボール箱いっぱいに膨らんでいった。
万一こんなものを残して死ぬことになったら、だれかに読まれるようなことがあったらと考えたら恐ろしかった。
20歳になったころ、思い立ったわたしはそれらのすべてを破って捨てた。
自分自身と向き合うことは、じめじめしていてださかった。いつもからりとポジティブな、いけてるわたしでいたかった。
大量のノートを手放したわたしは、自分の一部を失ってしまったような空虚感と、かかえていた重荷をようやくおろせたような身軽さを感じた。
ノートと一緒に、わたしは書くことを手放した。
極力難しいことは考えず、見たくないものからは目を逸らし、わらえないことをわらって流した。
流行りのメイクと服で着飾って、流行りの音楽を片手に、流行りのスポットに足を運んだ。みんながいいと言うものをいいと思い、みんながださいと言うものをださいと思った。
わかりやすいものばかりを追いかけているうちに、自分がどんどん薄れていった。ひたすらに楽しくて、ひたすらに空っぽだった。
ある時期を境に、同じ場所に立っていたはずのみんなが、いつのまにかそれぞれの好きや特性を見極めて、続々と自分を確立していった。
あれ、と思った。わたしだけがどこにもいない。あのとき捨ててしまったノートが無性に恋しかった。
それから、わたしはまた書いてみようと思った。今度はひっそり破り捨ててしまうようなものではなくて、だれかのために書いてみよう。だけどぜんぜんダメだった。
書きたい気持ちは確かにあるのに、いま自分がなにをおもって、だれに、なにを伝えたいのかがわからなかった。
いろんな本を読んでみた。読むたびに気が遠くなる。こんなすごいの書けっこない。それだけはわかるのに、でもどうしたって書きたかった。
なけなしの貯金をはたいて、作家養成講座に通った。最初の授業で出された課題は「自分について」だった。
どうしよう。自分なんて見あたらないのに。
原稿用紙に2枚。見失ってしまった自分の輪郭を手探りで掘り起こすみたいにして、何時間もかかってそれを仕上げた。
大人になるにつれて、できることがたくさん増えた。でも反対に、できなくなったこともある。そんな自分の変化を、これからもたのしみたい。
確か、そんな内容だった。
不安と緊張で震えながら提出した拙い文章に、先生からあたたかい感想をもらって泣きそうになった。
ジャンルにこだわらず、目についた公募に書いたものを送った。詩の公募で賞をもらった。人生が、新しくはじまったみたいな気分だった。
だれかのために書くなんて、そんなのはいまだにできそうにない。結局わたしはいつだって、わたしのために書いている。
だれにも読まれない文章を、書き殴ってたあのころみたいに。
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