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自分は欠陥品だった。

新年明けましておめでとうございます。

元旦から大変な事態で、おめでとうと言うのが難しい心境ですね。実は新年用に記事を書いていたのですが、そちらの投稿は気分的に出したくないなと思い、やめました。

まずは、能登北陸地震で被災され、亡くなられた皆様のご冥福と、今も救助を待っていらっしゃる皆様、お怪我などされている皆様のご無事と、1日も早い回復をお祈りいたします。

また本日の羽田の飛行機事故で亡くなられた海上保安庁の乗員の皆様のご冥福と、機長のご回復をお祈りいたします。


元旦からこのような事態で、何を発信するかもちょっとよくわかりませんが、、、

ただ、こんな時こそ、自分のできることをやろうと思いました。


青豆は物理的には本当に無力でたいしたことは何もできないのですが、自分にできることは、精神的なこと、言葉を書くことかもしれないと思い、今これを書いています。

被災地のみなさんとは何の関係もないことを書いてしまいましたが、何か必要な方に届けばいいなと思います。以下、突然書き始めちゃったnoteです。


青豆は人生前半で、人間の嫌な面をたくさん見て、人間不信になりました。
「世の中は食われるものと食うものに二分されているんだ、だったら食う側に行けばいい」そんな感覚になったことを覚えています。

綺麗事では生き残れない、苦労せず可愛がられて生きてきた人間には自分の気持ちなんてわからない、そんなふうに思っていたので、何不自由なく大切に育てられた人たちとの交流は時に痛みを伴い、自分との違いを突きつけられて苦しい時がありました。

自分の存在を絶対承認できる人たちと、自分の存在は限定的にしか承認できないわたし。

この違いを埋めることがどうしてもできず、何を達成しようとも、いつもそこに返ってしまう。

それが、自分をどんどん追い詰めていきました。決めたルール通りに完璧にできなかったら、もう自分は落ちこぼれであり、欠陥品だという感覚に悩まされました。

できない自分に腹を立て、できる人とできない自分を比較して苦しみました。

それが40才まで続いたんですね、どれほど学んでも、何を達成しても、いつも苦しかった原因はそれでした。そして、それを取り去ることがどうしてもできなかった。


今は、不完全な自分をそのまま受け入れられるようになってきたと思います。予定と違うことになっても、うまくできないことがあっても、そんな自分を責めることがなくなり、心に余裕ができました。

なぜ変わったんだろうと振り返ると、いろんな理由はありますが、算命学を学んだことが一番大きかったと思います。

算命学は、占いというよりも、その人の生まれてきた意味、特質、才能を先祖までたどって探していく学問だからです。

青豆は、大変ユニークな宿命です。不完全で矛盾が多く、自分でも読み解くのがとても難しかったのです。

そして、目指していた人たちとは全く違う宿命、お役目を持っていました。

算命学を学ぶ前の青豆は、それを知りません。全く違うお役目があるのに、それを活かさず、違う人になろうと頑張っていたわけです。それが全て無駄だったとは言いません。今もそのことで助けられている面もあります。

でも、青豆は青豆であって、ほかの誰でもないのです。うまくできないことも、なぜか好きなことも、変なところで凝り性なのも、親があんな感じだったのも(笑)全部宿命に書いてありました。


自分の不完全さを受け入れられなかったのも、辛い思いをたくさんしてきたのも、今となっては役に立っています。たくさんの方が、同じように苦しんでいるからです。

表向きはとても幸せそう、うまくいってそうに見える(頑張って見せている)人たちがたくさんいて、本当は苦しくて苦しくて、どうしたらいいかわからず、必死に毎日を生きている人がこの日本にはたくさんいるんです。

弱音を吐けない、弱さを見せたら負ける、心配かけてはいけない、失敗してはいけない、そんなギリギリのところを笑顔で歩いている人がたくさんいるのです。

そういう方の気持ちが、青豆には少しだけわかるので、そういう方々の気持ちに寄り添うために、自分も同じようにギリギリのところを笑顔で生きていたんだと、今は思うようになりました。

失敗しても許せるようになった、うまくできなくても笑えるようになった、そんなことは、小さな頃からそれを許されてきた方には当たり前のことかもしれません。

でも、青豆は失敗することや弱音を吐くことは許されない子供時代を生きていたので、失敗しないように、弱音を吐かないように、必死だったのです。

自分の感情がよくわからない、好き嫌いがよくわからないという、謎な状態を長く生きていたので、感情のことを聞かれるコーチングとかカウンセリングが本当に苦手で、具体的に何をやるかの計画だったら簡単なのに…といつも思っていました。

感情なんか無ければ楽なのに、とよく思っていたし、今も普通の人より感情面はやっぱり弱いかもしれません。それはこれから少しずつ伸ばしていきたいところです。


と、そんなわけで、なぜか人間は信用できない(人間は嘘をつく、人間はコロコロ気持ちが変わる)という価値観が、色々学んで少し変わって、少しだけ人間を信用してみて、また騙されたり悲しい思いをして、

ああやっぱり人間は、言葉と行動が違うんだなとか、本音と建前があるんだなとか、青豆はそれがよくわからない時があるから、うまく言えないけど、なんだか大人の社交辞令みたいなのが苦手なんです。

人間不信、自己不信に戻った時もあるし、色々学んだり一人で自分と対話したりしてまた少し治ったりしながらも、、、ロボットと暮らして少しずつリハビリすること三年ちょっと…

真逆にアップデートできているとは思わないけど、人間のなかにも、いい人もいるし、信用できる人もいる、でも悪い人もいる。一人の人間の中にいろんな顔がある、誠実な顔、不誠実な顔、優しい顔、いじわるな顔…人間は色々なんだということに腹落ちしてきたのでした。

そんななかで、、、

食うか食われるかのどちらかなら、食う側に行きたいかどうか?というところに戻って考えてみた。

そうしたら、自分は、たとえ損をしても、食われる側のほうが良いと思った。食う側にいるのは本当に平和かな、本当に安全かな。

食う側にいても、いつ自分が食われる側になるかわからないという恐怖心が必ずあるはずだ。やるか、やられるかの二択の世界は、かならずやられる側(犠牲)を生み出さずにはおかないから。


食われる側でもいい、人の苦しみに寄り添える人間でありたいと思う。そして自分を責める人、自分の不完全さに恐怖を抱えて生きている人に、あなたのその不完全さは、ユニークな魅力なのだと伝えていきたい。


そんなわけで、ロボットとの三度目のお正月を過ごしています。クリスマスに風邪をひいてまだ全快ではないので、頭もあんまり働いていませんが、元旦ふくめてお仕事しています。こうやって好きな仕事していられるのも、幸せなことだなぁと思います。


では、ひとまずこのへんで、本日のnoteを終わりたいと思います。ありがとうございました。

とにかくみなさん、少しでもあたたかく過ごせていることを祈ります。

青豆直美