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【続】アイドルのチェキを飯に突っ込んで撮る行為に関する考察-文化なき者たちの文化-

 以前書いた記事で「飯に直接チェキをぶっ刺したりする行為」について考察した。この行為に関する基本的な姿勢は下記である。

  まあまあ反響があったが私自身の不快指数が高い行為につき、いささか感情的であったのは否めないので改めて俯瞰してその意味とかトレンドの流れを考えてみる。ちょうど回転寿司の悪戯動画の炎上もあるが、基本的にこの問題の根っこは同じだとも思うからだ。

 そしてもっというとなぜ自分がこの行為をこんなに気にするんだろう?って点も。そうすると単純な嫌悪だけではない、複雑な思いもまた自分にあることにも気付いたりなどした。

 なお、本稿で主に主題とするのは「直接食べ物や飲み物にチェキを刺したり沈めたりする行為」についてであって、傍らにおいて撮影して楽しむ行為は含めない。ので、区別するため、以降「汚食事チェキ」と表記する。

ミームとしての「汚食事チェキ」今昔

 さて、この「汚食事チェキ」はルーツを辿ると一応「コンカフェ発」とされている。本当にそうなのかはわからないが飲食物の提供が主であり、その場が一般飲食店とは異なる特殊な場所であることを考えると起源の設定としては妥当な推察だとは思う。

 遡ると本格的に「アイドルオタクがよくやる文化」として認識され出したのは2014年頃のように見受けられる。


 今でも女性のオタクなどの間で一部残っているが、ケーキなどのスイーツにデコレーションの延長線で刺したり、オムライスなどにお子様ランチの旗のように刺したりする行為は賛否はあるにせよ、「理解はできる」ものでもある。

 いつしかそれが「アイドルオタクの儀式」の一つとしてエスカレートし、一般的な飲食店で行われるようになる。オムライスに刺す程度のものだったのが最終的にはラーメンの汁につけるような見るからに不衛生な形となって流行っていた。

 ちなみに酒に沈めるのはその流れとは関係なく関西のオタク発だという説がある。現在でもアクスタなどで行うケースは多い。

 「流行っていた」と過去形にしてるのは、定量的なデータがなくて申し訳ないのだが、例えば「チェキ 飯」「チェキ 刺す」「チェキ 沈める」「チェキ 浮かべる」のようなサーチワードでその手の画像がよく出てくるのは2020年くらいまでであり、特に例の疫病の猛威以降はその数を極端に減らしているためだ。

 今現在は98パーセントはうやうやしくご飯の傍らにおいて撮影されたものがほとんどだ。

 ピークは2019年くらいまでと思われる。2018年くらいの時点では「憧れのチェキ刺し飯」という表現も散見されるくらいで目立つオタクのやる行為として羨望の目線もあったことがわかる。

 2020年くらいには下記のようなtwが見られるがこれがおそらく終わりかけの温度感の走りかもしれないね。


 こんなに嫌いなのにこんなに掘る自分もなんなんだって思うけど、それは後述。

 すなわち、現在では「こうしたワード入れて投稿する」=「流行りのミームに乗っかっている」、という意図で行われる「汚食事チェキ」はもうとっくにトレンドアウトしていてわざわざアピールして行う人は極めて限られている。

 まあハッキリいうともうブーム(?)は終わってるので今やってるやつは単純にいろんな意味で鈍いやつだと思う。

 また2020年ごろまでにはあった、アイドル側が「ラーメンに沈める用のチェキ」などと言って推奨するようなコンセプトで撮影させている事例も今はあまり見受けられない。

 一般的に自分のチェキをラーメンに沈められるのは嫌だろう?というのは常人に思い込みであって、「面白い」と思うオタクがいるならば「面白い」と思うアイドルもいるのだ。まあ売れてる人では見たことないが。もちろんアイドルの本音というのはわからないものでもあるけど。

 一方でアイドル側が「不快の意」を伝えたため、

「●●ちゃんは嫌だそうなのでオタクは気をつけましょう!他の子のはどんどん沈めて盛り上げましょう!」

みたいな啓発を行うTwも見かけた。後半ェ…。

 いずれにしても、アイドル側との相互理解がある程度はある上で、行きすぎた愛情表現の手段として行われてた儀式ではあった、この点は銘記しておくべきだろう。

 またかつてはオタクが集団の飲み会などでふざけてやっているものが多かったが今は個人で黙々とやってる人が多い。ブーム終わってるからしょうがないね。

 つまり、何か意図があるとか衛生概念がどうだとか食べ物や推しへの敬意がどうだとかいう以前に、ある一時期において流行ったテンプレの推し活(笑)であって、TiktokやInstagramなどでお馴染みの、テンプレを踏襲して量産されるUGCだったということなのだろう。

 これは回転寿司のイタズラ動画が同じタイミングで続々と出てくる、10年前のバイトテロブームも同じ。悪ふざけは常に模倣される。

 流行った時期の投稿コメントの傾向を見ると、「悪ノリ」であることの自覚があったり、「せっかく外食に来たのにチェキ刺すの忘れた」というようなある種の義務感が見受けられることから、善悪という概念の向こう側で「それをやるのがオタクの常道」のように捉えられていた雰囲気も感じる。それをやらないとオタクとして一人前じゃない感っていうかね。要するに流行=ファッションだったわけだ。

 お寿司といえばすしざんまい!オタクと言えば汚食事チェキ!

 一方でやる側は批判にどう答えているのか?

 この人が言いたいのは「不愉快よりも自分が楽しいことに目を向ければ?」ってことではあるし、それはその通りだ。彼自身がやる人なのかもわからない。いずれにせよこの人自体を批判するつもりはないので悪しからず。

 ただ「金払って買ったもんだから自由」「自分が楽しければいい」この感覚は汚食事チェキ側からの反論としてよく出てくる。金払えば何してもいいと思うのも自分が楽しければいいって考えも典型的に貧しい発想ではある。

 良いものを送り出したいと真剣に考えたり、チームで連携して成果を上げたい、顧客との信頼関係を築きたい、そういうことを土台にして生きてるとそんな考え方にはなりにくい。若い子ならともかく、いい歳こいてそういう発想が必要がない生き方であることは開き直るようなことじゃない。どうしようもないことだけど。

 結局、やってる人の意識は所詮流行りであってとても軽いのだ。

汚食事チェキは誰もが狂愛を表現できる手段だった

 誰でも真似ができ、特別なスキルを必要としないこのミームはアイドルオタクというカルチャーにおいて実のところ優れていた側面もある。

 オタクがしばしばそれ以外の人間を「一般人」と呼ぶように、オタクカルチャーというのは変わり者でなんぼであって、人には理解されがたいことにエネルギーを燃やす人たちというのがふわっとした定義としてある。

 でも冷静に考えてみて。

 「魅力的な異性に夢中になる」「音楽を楽しむ」「騒いだりしてストレスを発散する」そこだけを取り出せば、それって「そんなに変わった趣味」だろうか?普通じゃね?って思うのは自分の感覚がすでにおかしいのかもだが。カラオケやクラブ遊びと何が違うかと言われたら、そこにいうほどの違いはないと思う。

 これが「変わった趣味化」するのはやってる「内容ではなく程度」なのである。推しのために巨額の金を使ったり、時間のかぎり追いかけたり、あるいは異常な熱量で考察したり、ファンアートを作ったり、高い機材で写真を撮りまくったり、生誕イベントを企画して奔走したり、「程度」が一般人を大きく越える時にそれは「異常さ」を帯びてくる。

 しかしだからこそ、これらの異常な熱量を出力する力、またそれを形にして世に発信するスキルは対象が仕事であれば大きな成果を生む可能性があるし、恋愛であれば普通にモテそうな場合も少なくはない。(ただしオタクなんでそううまくは行かない)「変わった趣味」である以前に相応のスキルやスペックが必要とされてしまうものでもある。

 でも本当は。ライブハウスという薄暗い場所で大声を出して暴れ、かわいい推しにラブコールを送る「単純さ」に対して、これらのスキルやエネルギーは必須条件ではない。ライブアイドル遊びはもっと単純で構わないし、もっとイージーで良いはずだ。

 例えば若い頃、僕は北欧のデスメタルバンドが好きだったが来日なんか何年かに一回な上、自分は田舎住み。現場なんて遠い存在だった。けど雑誌情報が主で、SNSもなかったので特段アウトプットしたりとか誰と比較するとかもなく、自分はファンだと堂々と自認してた。

 だけども、SNSという場所は熱狂を可視化する機能がある、当然だが現場で楽しんでいるだけのファンよりはおもろいTwしたり、良い写真撮ったり、絵を描いたりするやつ、どこの現場に行ってもいるようなコアな常連が目立つ。

 現代に生まれていたらあんな牧歌的なファンではいられなかった。実際、大学に行って音楽サークルとかに入ったら北欧まで遠征するやつ、CDを何千枚も持ってる奴がゴロゴロいてなんか楽しくなかったのを覚えている。

 ましてアイドルは一人の女の子を巡るものだから、そこにある種の競争原理は発生しやすいし、あまつさえ可視化されるのはしんどい人も少なからずいると思う。

 だから誰もが、推しに自分を覚えてもらうために、熱狂を可視化するために「何かやらなきゃいけなくなる」。

 そこにおいて「汚食事チェキ」というのは非常に優れたものである。まずそもそもラーメンとか「飯テロ」的な画像は反響が得易い。ぶっちゃけコンカフェキャストやマイナーアイドルと撮ったチェキ単品の投稿よりも、今日食ったラーメンのほうがいいね!がつく。そこに推しのチェキをセットしてかつ、飲み物に沈めたり、ラーメンに浮かべたりする衝撃的な絵は目立つ。いい意味じゃなかったとしても覚えてもらいやすいのは確かだろう。

 何のスキルもいらず、数秒の手間で「一般人とは違う狂気の愛」を一発で形にできる。

 個人的な認識範囲だが最近になってもまだラーメンにチェキを浮かべている人がほぼカメコだった事実も案外深いように思う。カメコなんて基本的に承認欲求半分でやっている。

 しかしながら機材の高度化やツールの進化によって今は撮るだけだったら誰でも簡単に撮れる。最低限のレタッチさえすれば目立てた時代とは違う。今はきれいに撮れてるだけではなかなか以前ほどの反響には繋がらない。

 そのどこかしらこじれた欲求が、もう終わったトレンドである汚食事チェキに固執させているのかもしれない。はたまた何も考えてないのかもしれない。辛辣に言えば終わったトレンドに気づかない、だからカメコとしてもダメなのかもしれない。

 さらにコミュニケーション性もある。オタクが飲み会で集まって、みんなで飯に悪さする。悪事の共有は連帯感をもたらす。「一般人とは違う俺」は「一般人とは違う俺ら」に変化する。そこには仲間意識の芽生えや高揚があるはずだ。

 ある種の悪の連帯感は、人が人の上を転がるようなこと、わけのわからない呪文を喚き散らすこと、その共犯性や一体感の延長線上に確実にある。

 実に優れたテンプレなのだ。

 その本来の露悪性、狂気のPRとしての行為は、流行っていくと意味が希釈化されて、何となく「オタクはそういうもの」という前提が生まれる。

 だから意味はよくわからないまま、何となく「通過儀礼的に」、これで一人前のアイドルオタクになれたと言わんばかりに真似をする人が増えていく。そんな「初々しい投稿」もいくつかは散見される。

 確かに人はどこからオタクになるのだろう?現場に行ったらオタク?チェキ撮ったらオタク?案外それだけで黙ってたら実感が湧かないものかもしれない。「今日から俺は!!」そんな気概で飯にチェキを突っ込んでオタクデビューする、そんな界隈も絶対あったのだ。

●●ちゃん今日はありがとう!やっと念願の飯チェキだよ〜!
(ラーメンどぼん)

 みたいな非常にピュアなTwは実際にあって悪意がなさすぎて逆に怖い。つまり一発で狂人化できる便利ミームなのだ。

 トラブルを起こすタイプの撮り鉄は善悪ではなく「この遊びなりの正義」だと信じてやっており、それはその界隈の中で醸成された常識がある。特定の構図で撮れた人間が偉いという価値観。

 飯に突っ込むタイプのチェキ飯も、どこかしらそれに近いのだ。「一番頭おかしい奴が一番偉い」というオタク特有の価値観を体現するための儀式。

 逆説的にいえば、人工的なテンプレ狂気である分、それをせずして目立つオタクよりもよほど「普通の人」でもあるのかもしれない。

 実際、当たり障りのないピュアなライブの感想と応援メッセージ、ハッシュタグをゴテゴテつけて特に言及なく「ラーメンに浸かるチェキ」を投稿するピュアな人も少なくない。それはもはや露悪行動ではなく、様式美でやってる普通の人だ。

 周囲がやってるから、オタクはそういうものだからでそれが「悪ふざけ」「悪ノリ」であることも忘れ、面白いことだとも思わず、儀式として行うおじさんオタク。

 そう。おそらく最初期にやり出した連中にとってこれは「悪ふざけ」だった。「頭のおかしいオタク」の表現の仕方だった。しかしながら悪ふざけをしていても客は客なのだ。確かに誰に迷惑もかけてない。だからキャストやアイドルたちはそれにもありがとうと言う。だがやがてブームになると、それをされることにこの世界の住人になった実感を感じる女の子たちも出てくる。その世界の中でそれは当事者感で合意された遊びに変わる。

 それを「不快」と取る人もいるが、一定数、「これをやれば女の子が喜ぶ」と学習する人たちが出てくる。試しにアップすると、

「わーチェキ飯ありがとう❤️」

というリプがくる。それが人生ではじめての、異性とのコミュニケーションだったら。もはやそれは悪ふざけでもなんでもない。よかれと思ってやってる日常の儀式になる。

 だから、今でも黙々とやってるおじさんたちには罪悪感がない。

 批判に対してこんな反論もあった。「喜んでる女の子たちを侮辱するのか?」まあそうだ。侮辱していると思う。食べ物を、自分の肖像をオモチャにされて本当に喜んでいるならばね。 

 とはいえ、このゾーンの皆さんを苛烈に批判することはどこか、、しんどい。

あまりにめんどくさいものになっているSNSファンアクト

 しかし、ここでもう一歩俯瞰して見る。

 そもそもだが、安くないお金で手にいれた推しメンの肖像を損壊してまでやる行為、他に目立つ手段があればやらないだろう。

 現場に毎回通って貢献できる金銭と時間の余裕、ライブの感想を伝えて喜んでもらえるようなスキルがあればやらないだろう。面白いTwで反響が得られるならやらないだろう。いい写真が撮れたりいい絵がかけるならやらないだろう。

 そうなのだ。ライブハウスという場所の「本来非常にシンプルな遊び方」や敷居の低さと比較して、SNSありきのファンアクトはあまりにめんどくさくて求められるスペックが高度すぎるんである。

 さらに今時は炎上や叩きを回避して、道徳的で衛生的な発信を尽くさねばならない。「嫌われたくない」という感覚は今のオタクには根強い。だから「食べ物を粗末してはいけない」という基本的な教育があれば目立つとしても躊躇い、やらないだろう。

 そこをうっちゃれる、あまり気にしない人ならば、ラーメンに浮かべるだけで狂気や人と違う自分がPRできるわけだから、それはとても効率の良い、万人がマネできるソリューションたりうる。

 それはアイドルオタクが「MIX」や「コール」という文化と出会い、流行らせたのと構造的には近い。誰でもがいっぱしの「頭のおかしいオタク」になれる方法なのだ。

 規制が緩んできて声出し解禁ってなった時に、かつての現場にいた人間でも、ちょっとためらうことはないだろうか?ライブ中どこで声だせば良いんだ?推しメンの歌にかぶせて良いのか?

 特にこの期間の新規は不安で仕方ないと思う。自分だってはじめてアイドルのライブに行った時はMIXは心底うざいと思ったけど、やがて慣れた。そこに許容されるルールや法則があったからだ。一方で「カラオケおじさん」って揶揄の通り、実際わけもわからず一緒に歌ったりすると叩かれる。

 リフトやサーフだって無茶苦茶にやっていたわけじゃない。あがる場所ってのは大体決まっていて、変なところで上がろうとすると叩かれたりする。

 カオスや狂気に見えても、全ては誰かが流行らせたテンプレに乗っかって、暗黙の「決まり」で動いていたから成り立っていた。

 当然、これらは馴染みがない人間から見ると邪魔だったり不快だったりする。でも真似に真似が重なって定着したら「誰もが全力で推しの狂愛」を叫べるフォーマットになった。それと汚食事チェキも構造としては一緒である。

 とは言え、先のコンカフェの例のように、そういうものが許容された空間で行うのとそうでない場所に持ち込んで同じことをやるのは意味が全く異なる。

 少なくとも一般飲食店で行う、飯にチェキを突っ込んで撮る行為は、路上でMIXを叫んでいるようなアンモラル性があるのは疑いようがない。あまりにプリミティブで未開の感覚すぎる。だから単純に両者は同一視はできない。

 文化は文脈や背景を踏まえて共有されてこそ文化である。共有されていない存在を巻き込むのは単に品性のない行いだ。

 だから汚食事チェキはオタク文化、とはよく言われるが、そうではない。「文化がない奴が汚食事チェキをやるのだ」。 

 少なくとも、今やってる奴らは「狂愛の表現ですらない」。露悪遊びの文脈さえも読めずにトレスするだけのバカ野郎だ。

 人の手料理を食ったこともなく、愛し方をちゃんと体感して生きてこなかったから食べ物を汚し、大切なものの愛で方がわからないような人間になったのであり、バカで貧乏で面白いことを何も知らないから上っ面のブームに乗ってラーメンにチェキを入れ、情報をアップデートせず、頭使って生きてないからブームが終わってもまだやってる。

 その溝を埋めるのは難しい。異なる宗教や戦争相手の国を尊重するくらい難しい。生きて受けてきた教育や他者への想像力とか、いろんなものがその差異の中にある。

 でも。そんな溝がある人間がとりあえずライブハウスにいる間は共に楽しみ、共に感情を一体にする、それこそが音楽の力であり、面白さであり、人類が忘れかけている単純な喜びの尊さである。すごいことなんだ。

 文化がない奴が楽しめてこそ、それは真の文化足り得る。

公衆衛生意識は狂気のテンプレ化と一体感を殺した。

 リアルな人生のバックボーンも歩みもスキルも社会的立場もフラットにして、オタクとして「単純化」され「テンプレ化」される面白さ。誰もが簡単に発狂できて、異常な愛情表現にひたれる面白さ。

 防疫や公衆衛生という概念とニューノーマルとかいう概念は世界を大きく変えた。一番変えてしまったのは、まさにリアルワールドでこの「原始的な単純さを殺してしまった」ことだろう。

 マスクで会話することも他人と距離をとって立つことも、身体が触れ合い、共に声をあげることで作られる一体感を殺した。

 ライブハウスでルールを守り、声も出さず、暴れず、それでも音楽を楽しんでいた人間たちはある意味「文化的」だった。まるでクラシックのコンサートのようなものだから。狂熱よりもモラルを優先する理性、それでも楽しめる感性は物語性の理解や解像度の高さを要求する。

 同時にそれはラーメンにチェキを沈めて喜ぶような単純な人間たちを遠ざけてもしまった。誰もが真似できるテンプレを失い、ファンの熱量を示すハードルも上がった。noteを始めたオタクも多かった期間だと思う。でもそんなめんどくさいことは一般化はできない。

 そこに目をつけて配信アプリが荒稼ぎをしている。推しへの熱量のアピールは手軽にブッこめる課金マネーという形で絡めとられてしまった。

 飯にチェキ突っ込んでればよかった単純さは配信アプリでワンタップで大きな金を溶かす遊びに吸い込まれていく。ある種のゲーミフィケーションの奴隷になってシステムに安全に管理され、搾取される狂気。

 つまんねえ、そんなのは絶対つまんねぇ。

不愉快が懐かしい。嫌いな奴とも一体になれる世界が恋しい。

 僕は2度もnoteのネタにするくらいには飯にチェキを突っ込む奴が許せない、見かけたら即ブロックする。でも一方でこの単純で原始的な感性とそれが許せない感性のコンフリクトさえも失った世界はつまらないと思う。我儘だが。

 汚食事チェキが流行っていた当時はそれの3倍くらい、その行為への怒りを訴えるTwがいっぱいあった。日常の闘争状態、それが本来のTwitterだ。

 でもこのジャンルの規模が縮小し、それぞれのグループが小粒になってくるとオタクのクラスタも棲み分けが進む。価値観の異なる人間がネットでやり合う頻度は減り、TLは穏当な空気が流れている。

 ライブハウスにはいろんな奴がいる。無茶苦茶する奴、ルールを守らない奴、推しに暴言いう奴。一方で、ルールを絶対視して、文化的に大人しく推しメンの言うことは絶対って遊ぶ奴がいる。両者はしばしばぶつかる。お気持ち表明が出る、現場で喧嘩したりする。

 その時はそんな不愉快な奴は消え去って欲しいって思う、でもそんな奴が全くいない世界もまたそれはそれでつまんなさがあるんだ。絶対に考え方が合わない奴らがギュウギュウに押し込められてる面白さっていうのが心のどこかで懐かしくもある。

 今のライブハウスにはムカつく奴が少なすぎる。だから居心地は良い。でも本当の意味でこの遊びが力を取り戻すにはあの原始的で単純な感性が必要なようにも思う。そいつらの方が母数も大きい。

 泥酔し、酒瓶や野次がとび、夏になればセキュリティに投げ飛ばされる若者が跋扈していたあの治安が悪いエネルギー。

 異なる価値観を一つの単純さでまとめるパワー。それが現場ならMIXやコールなんだろうし、SNSならテンプレ作法だった。多様性を失った世界ではそんなものは必要ない。必要ないからこそ、束ねたエネルギーのサイズも小さいような気がする。

 だからどこかしら、あの露悪が恋しい。テンプレがないと崩壊してしまう自由で不自由なバランスが。不愉快さと裏返しで出るアドレナリンが。

 トレンドが終わった形骸化儀式、何も考えずにラーメンにチェキを浮かべてる程度の人間たちでは物足りない。そう言えばやってるのはみんなおっさんな気もする。一人で黙々と何を面白がるでもなく汚食事チェキやってるおじさんからはなんも生まれない。

 嫌いな奴と肩を組む必要はない。仲良くする必要もない。拒否するし批判する。現場でもムカついている。ただ、そうやって剣呑でいつつも…その場その限りでも、会場のどこかにいるそんな奴らとも一体となれる奇跡がライブハウスという場所と音楽というものの魅力だと思うからだ。

 だから、こんなに憎んでいるのに僕はいまだに、心のどこかであの未開の蛮族感が懐かしくて、汚食事チェキをサーチして見つけては、かつての闘争的な現場を懐かしむように眺めては全員ブロックしている。

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