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記憶の中の謎の雑貨屋「ぶっしぶー」の正体を追う話

自分が幼稚園の年少くらい、年齢にして4歳くらいまで住んでいた町がある。長野市内の住宅エリアだ。

急速に言葉を習得していた時期でもあり、その時代に記憶している不可解なキーワードがいくつかある。例えば「そりめのだんち」。調べるとこれは実際に「返目団地」という名前で現存する地名だった。

それから「ながみねさん」。これは近所に毎日毎日「ながみねさんながみねさん」とぶつぶつ言い続けている老夫婦がいて、ホラー風味で非常に不可解だったのだが、これはどうやら「南無阿弥陀仏」のことだったようだ。まあどちらにせよ、念仏の声が近所まで漏れ聞こえてくるのは今の感覚では不気味なことには違いない。

コロナになって換気を励行する様になった最初の緊急事態宣言下の折、町に出ると中の人の声や店の人の声があちこちから漏れ聞こえてきて懐かしい気持ちになったことがある。

エアコンが一般的でなかった時代はどこの家もガラス窓は開け放していて、会話の声、電話の声などは漏れ聞こえてくるものだったのだ。映像や写真には残ってないが昭和の風景特有の騒がしさなのである。

話が逸れた。そんな幼少期の記憶のキーワード集の中に「ながみねさん」と並んで謎のワードがある。

それが「ぶっしぶー」だ。

何を指すかものかは覚えている。小さな雑貨屋さんなのだ。お菓子やアイスクリームやちょっとした日用品などを扱っていて、要するに今でいうコンビニみたいなものなのだが、4歳当時の記憶の中ですら「小さな店」として覚えているのだから、コンビニどころか駄菓子屋くらいの規模感だったのかもしれない。

看板などがあった記憶はない。ただ親が「ぶっしぶー」と呼んでいた。チェーンではないだろうし個人商店にしては奇妙なネーミングだ。

「ぶっしぶー」、漢字を当てるなら「物資部」?

自分は戦時中の配給時代の生き残りではもちろんないし、なぜあんな田舎の町に唐突にそんな軍施設みたいな名前のものがポツネンとあったのか?

しかし今はカスでなければググれるのである。

物資部で検索すると…あった!

「国鉄共済組合物資部」

どうも国鉄職員向けに福利厚生で展開されていたお店で「国鉄の拠点駅や乗務員・車両基地の構内、職員アパートなどで職員向けの小売店を運営した」とある。

しかし当時住んでたエリア付近には現JRの駅や拠点はなかったので「???」となったのだがグーグルマップを丁寧に追うと確かに住んでたあたりの近所に現JRの職員寮や宿舎があった。

この物資部、原点を辿るとまだ自動車道が整備されきっておらず物資の輸送の多くが鉄道だった時代に、駅などに併設して一般でも利用できる形で生活必需品を販売するサービスでもあったようだ。

もっと古い世代(SL世代)の人のブログだと空の一斗缶を物資部に持って行って醤油を入れて持ち帰ったというエピソードも出てくる。こうなるとたしかに「物資」である。

両親は鉄道とは何の関係もない職だったから、この「ぶっしぶー」も職員の福利厚生であると同時に一般でも利用できたのだろう。そもそも商売目的ではないからやたら安く物が買えたと言う。記憶の中ではよくLady Bordenのアイスをパイントで買っていた。そう考えると品揃えは安かろう悪かろうというようなものでもなかったと思われる。

とはいえ内観はあまりきれいとは言えず、売ってるおばちゃんの愛想もよくはなかった。これはもしかしたら記憶違いかもしれないが屋内の店なのに床が土だったような気もする。そういう意味ではあの当時ですでに相当年季が入った歴史的な存在だったのかもしれない。

ストリートビューを回して周辺を探索したがその痕跡らしき場所すらも記憶と一致するものはなかった。そもそも記憶の中では謎の空き地がもっとあったし、車もほとんどこなかったから、combiの車の乗用玩具でガーガー疾走してたイメージがある。「ぶっしぶー」のあったあたりは道路区画ごと整理されてしまったのかもしれない。

あの頃はよほどのモノ好き以外でない限り、写真というのは特別な日の記憶や日常を残すものであって、こうした暮らしに根ざしていた存在を記録した写真はネットでもほとんど出てこない。わずかなブログにその思い出があるのみだ。

過ぎ去った時間は戻らないし、知らぬ間に跡形もなく痕跡を消してしまったものというのは我々が思う以上に多いのかもしれない。

少なくとも「コンビニ」がなかった時代に人々のちょっとした買い物を支えていた個人商店のようなものはもっとたくさんあって、その多くは姿を消しているのだろう。

仕事から帰ってきた父と夜、近所のタバコ屋まで一緒に買いに行った記憶もある。お互いの影を踏んで遊びながら行った思い出。そのタバコ屋も跡形もない。かつての日本人は一箇所で何もかも揃えずにそうやってあちこちに買い物に行ったのだ。

ネットが出来てからなんでも記録はアーカイブされていて、辿ればすぐ引き出せると錯覚しがちだが、本当はたぶんそんなことはない。幾千写真や動画を残し、テキストで書いたとしても時が立てばリンクは散逸しさらさらと薄れて、やがて語る人もいなくなれば消滅する。インターネットのアーカイブはその情報を開こうとする人間がいない限り、世に出ることはないのだから。

風景ですらそうなのであれば人間そのものだって同じだ。SNSのおかげで人間は自身のライフログを残すことが当たり前になり、何かを後世に残せた気でいるけれども、持ち主が死に、更新する人がいなくなったアカウントは運営が自動的に削除するのみ。清少納言やアンネ・フランクならぬ我々の、ネット上の情報体の最期である。

ライブやアイドルという一期一会の遊びをしていると例え短期間でも時が奪い去る情報の多さはひどく痛感する日々でもある。この話はまた別に書きたい。

でもそれでも、やがて消えてしまうものだとしても、写真を撮り、テキストに書き、記憶と感情を残して世に伝えようとする、その営みの過程こそが「生きる」ということそのものなのかもしれない。

人間は皆、どうせ死ぬのに生きるのである。

だから些細なことも思い出も感情もいっぱい書いていっぱい写真に撮り、残しておこう。その大半は消えるとしても一部は誰かの記憶に受け継がれ残っていくかもしれないから。

かつて生活と共にあった「物資部」の話、ここに残すことでわずかながらの延命になれば幸いである。

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