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現代を生きる術を授けてくれる本「ブッタが説いたこと」

毎週土曜日は、できる限り読んだ本のアウトプットの時間にしようと思います。年末年始は結構色んな本を読んだのですが、繰り返し読みたいなと思ったのが「ブッタが説いたこと」という本です。仏教に関して知りたい人の入門書として、とてもわかり易くまとまっています。

2021年は2020年以上に変革の時期、外からの情報で身を崩しやすくなる年になると思っています。そういった中、どう今を生きるか?について、まっすぐ考えさせてくれる本。

いつものように印象的だったところを3つほど取り上げておきます。


真実に名称(ラベル)は付けられない

仏教は宗教なのか、それとも哲学なのか、としばしば問われてきた。仏教をどう定義しようと大した問題ではない。仏教をどのように呼ぼうとも、仏教であることに変わりない。名称はどうでもいいものである。わたしたちがブッダの教えに付けている「仏教」という名称も、重要なものではなく、本質的なものではない。

「名前に何があるのか?わたしたちがバラと呼ぶもの、それはどんな名前が付けられてようと、甘い香りがする」

差別的で偏屈な名称は、各人が真実を理解する妨げになるし、人々に有害な偏見を抱かせる。これは知的、精神的な事柄に限らず、人間関係においても言えることである。例えば、人に会うとき、私たちはその人を人として見るのではなく、イギリス人、フランス人、ギリシャ人、ドイツ人、アメリカ人、あるいはユダヤ人という括りをし、それぞれのステレオタイプに基づく先入観を念頭にその人を見る。しかし、その人は、名称に付随した属性を一切持たない人であるかもしれない。

しっかりと目の前のモノ、本質に向き合う一つの考え方。

「日本人」なんて括りも曖昧で、その人はその人でしかない。宮崎駿は「犬」を「犬」として認識するのではなく、一つ一つに名称で認識するらしい。同じ種別だとしても、固有の特徴があるからだと。

インバウンドの事業をやっていも「欧米人」はこうであると言いがちになる。ある程度のデモグラで傾向を理解する上では有用かもしれないけれど、本質的ではない。


教えに固執しない

教えは流れは渡るための必要な筏(イカダ)のようなものであり、保持して背中に置い運ぶものではない、というこの有名な喩えを至る所で説明している。

「弟子たちよ、私の教えは筏(イカダ)と同じである。それは、流れを渡るためのもので、持ち歩くためのものではない。あなた方は、私の教えは筏に似たようなものであると理解したならば、よき教えすら捨てなければならない。ましてや悪しき教えを捨てるのは、言うまでもないことである。

教えはケースによるし、万能なものなどはない。時には時代から古くなっている場合もある。すべての教えを是とするのではなく、時として自分の頭で判断し、決断する必要がある。


ブッダの瞑想法

ヴィパッサナー瞑想

人は昼夜休みなく息を吸い込み、吐き出す。しかし、そのことを全く意識せず、一瞬たりともそれに注意を注ぐことがない。この方法はまさにそれをするのである。力まずに、緊張せずに、普通に息を吸い、吐く。心を息の吸い込みと吐き出しに集中させる。息の吸い込みと吐き出しを注視し、観察する。行きの吸い込みと吐き出しを意識し、見守る。人は息をする時、ときとして深く、ときとして浅く息をするが、それは構わない。唯一大切なのは、深く息をする時、深く息をしていることを意識することである。

身体的活動に関する心的修養の、重要で、実践的で、有益なもう一つのかたちは、公私を問わず、仕事中であるかどうかを問わず、日常生活ですること、話すことを十分に意識し注意することである。歩く、立つ、坐る、横たわる、眠る、身体を曲げる、伸ばす、周りを見る、服を着る、話す、沈黙すること、食べる、飲む、トイレに行くなど、すべての行いに対して、それをする瞬間にそれを意識することである。すなわち、今この時点で、今行うことに集中する、ということである。これは、過去・未来を考えるべきではない、ということではない。その逆で、現在と今行うことを関連させて、相応しい時、相応しい場で、過去・未来のことを考えるべきである、ということである。

過去や未来ではなく、今ここに集中する。そのためには自分たちが普段意識していない呼吸に意識を向け、観察することが一つの助けになる。




最後まで記事を読んでいだきありがとうございます。毎日更新をしているので、よかったらまた読んでもらえると嬉しいです。