日傘についてのおはなし。

起きたら雨が降っていた。

傘をさして出かけるのは面倒なのでギリギリまで窓の外を眺めていたが、どうやら止む気配は全くもって感じられない。渋々、玄関に置いてある傘を持って出発することにした。
傘はこの夏のために新調したもので、真っ黒でシンプルだがそこが気に入っている。

雨のお陰でちょっとは涼しいかなと期待したけれど、もはや日本の夏において「今日は涼しい」などという日は有り得ないのかもしれない。
暑さと湿度に耐えられず、せめてネクタイだけは外して駅に向かう。

仕事を終えたら夜が来た。
相変わらず外では雨が降っている。やれやれと思いながら傘を広げて会社を後にした。

どういうことか、雨の日は足元ばかり見ながら歩いてしまう。傘が視界を狭くしているせいかもしれない。
街灯に反射して水たまりがある位置を見抜きながら歩いた。うまく水たまりを避けている瞬間は少しだけゲームをプレイしているような感覚になる。


ふと顔を上げると、おれの行く手を阻むかのように男が立っていた。
細身の紳士…と言えば聞こえはいいが、傘もささずおれの前に立ちはだかるその姿は不気味だった。

「すみません、ちょっとよろしいでしょうか。」
「はぁ、なんでしょう。」

駅に向かう途中の近道として利用している裏路地。

「あなたの傘を私にいただけませんか。」
「傘?」
「はい。その、さしてらっしゃる傘をです。」
「いやあ、それはできませんよ。」

前後左右、自分たちの他に人はいない。

「実はですね、私は夏の日差しが苦手でして。日傘を探していたのです。見たところ、あなたの傘は日傘としても使えるものかとお見受けします。」

これが日傘であることは初耳だった。デザインだけ見て買ってしまったせいで、晴雨兼用であることは知らなかった。

「あなたの傘をいただけましたら私は明日から日差しを気にせず外を歩ける。ぜひ、譲ってくださいませんか。」
「日差しが苦手というのは、なにかの病気ですか?」
「いえ、そうではありません。暑いから日傘をさして歩きたい、それだけです。」
「男なのに日傘をさしたいんですか?」

おれの言葉を受けて、紳士の喋るスピードがほんの少しだけ早くなった。

「おや、今あなた『男なのに』と仰いましたか?なぜ男は日傘をささないとお思いなんでしょう?」
「まあ、男が日傘をさすだなんて女々しいというか。日焼けや暑さくらい気にしなければいいんじゃないですかね。」

紳士は目を閉じながらニヤリと笑う。

「ふふふ。日傘というのは非常に重要な役割を果たしているのですよ。いいですか、夏の紫外線はとても強い。日傘をささず紫外線を受け続けると日焼けはもちろんのこと、シミやソバカスの原因にもなるわけです。見たところ、あなたまだお若いですねぇ。今は日焼けなんて気にしなくてもいいでしょう。でもこのまま紫外線を浴び続けたら何が起こると思いますか?年齢を重ねてからシミやソバカスの目立つ姿になってしまう。それは整形外科にでも行かない限り、一生消えません。どんなにオシャレをしようとも、それらはずっと同じ場所に居続けます。」

紳士は少しずつ喋るスピードを上げながら、流暢にまくし立てる。

「見た目だけの問題ではありません。日焼けはガンや腫瘍の原因にもなりかねないのです。もちろん顔や身体だけでなく眼球も焼けますから視力が落ちる可能性だって否定できません、つまり!日傘はさすべきなのです、男女問わず。」

声を荒げるわけでもなく、紳士はひたすら日傘の必要性について喋り続けた。まるで何かの演説を聞いているようで、気がついたらその喋りに引き込まれてしまっていた。

「さて、先ほどあなたは日傘をさすことが女々しいと仰いました。ではお聞きします。雨の日に傘をさすのはなぜでしょうか?」

久し振りに会話のバトンが自分に回ってきたことで一瞬だけ怯んでしまった。

「え、いや…だって、雨が降ったら濡れるから…。」
「そうです濡れるからですよね?」

紳士がこちらの答えを予測していたかのように間髪入れずに喋り始める。

「雨が降ったら濡れてしまうから傘をさす。はい、そうでしょう。きっと皆さん同じ考えだと思います。実にシンプルな回答です。でもよく考えてみてください。雨が降ったら確かに濡れます。お気に入りの洋服も、せっかくセットしたはずの髪の毛だって乱れてしまう。けどね、それだけなのですよ。」
「それだけ?」
「ええ、それだけです。雨のせいで洋服が、靴が、カバンが、髪の毛が濡れてしまう。だから傘をさす。でもね、水に濡れたものは乾きます。きれいに。元どおりに。」
「そうですね。」
「元どおりに乾くことを知っていながらどうしてあなたは傘をさすのでしょうか?たかが雨なのに。…あなたは男なのに。」

言われてみればどうして雨が降っているからと言って傘をさすのだろうか。
紳士の演説に圧倒される自分がいた。

「日傘をさす行為と、雨の日に傘をさす行為、どちらが女々しいのでしょうか。今のあなたなら分かると思います。」
「………!」


「おや、ちょうど雨が弱くなってきました。この調子なら駅まで傘がなくとも平気でしょう。では、もう一度お聞きします。私にはその日傘が必要です。どうか、いただけないでしょうか。」


この傘は、雨の中で使うものではない。
そんな気持ちになった。

「分かりました。どうぞ。」

傘をたたむ。水を軽く振り払い、目の前の紳士に手渡した。

「どうもありがとうございます。」

傘を手にした紳士が、また笑って呟いた。

「このあと台風が来るんです。傘があって助かりましたよ。」

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