周庭さんに伝えたかったこと

 周庭さんがミスiD2021の審査員を務めると知って応募を決めた。面接で会って話がしたかったからだ。エントリーシートも30秒動画も、全て周庭賞を意識して構成した。

 そんな私の計画を明確に、個人的に、私自身の敵として、邪魔してきたのが香港国家安全法である。周庭さんがTwitterから撤退し、ミスiDの審査に今後どの程度関わっていけるのか不透明になった時、私は即座に目標をグランプリに変更した。周庭さんに選んでもらうのではなく、周庭さんに並ぶくらい有名な存在になるしかないと思った。

 30秒動画で予告したことはカメラテストでは話せそうにない。私達の先祖が経験した軍政下の8年間、「若者たちの無血革命」と称えられた奄美群島の8年間は、とても1分間の自己PRに収まるものではないからだ。だからここでの公開をもって代えさせていただく。

 私の全ての行動には明確な動機がある。私のみならず全ての奄美人の行動の根源的欲求、それは「越境」への欲求である。「越境せよ、あの水平線の向こうへ行け、未知のものを見よ。そして何者かになって帰れ。何かを持ち帰れ」という絶え間ない囁き、私たちの体内を流れる血に書かれた命令書。その始まりは1945年から53年までの8年間続いた日本復帰運動にある。

 1945年以降、奄美・沖縄は大密輸地帯だった。日本ではなかったからだ。ポツダム宣言に続く連合国軍最高司令官指令第677号(SCAPIN-677)により、これらの島々は日本の領土ではないとされた。奄美群島の人々は突然に切り離され、軍政下に置かれた。自分たちの政府もなく、教育もなく、報道機関もないままで。本土との物流が途絶え、彼らは飢餓状態のまま放置された。

 立ち上がったのは文化人だった。詩人・泉芳朗、ロシア文学者・昇曙夢。そして教師や高校生たち。彼らは自分たちのアイデンティティを明確に定義した。奄美人は日本国の国民であること、すなわち日本復帰である。彼らが取った手段は言論運動、ハンガーストライキ、血判状の提出(小学生たちすら参加した)、そして密輸と密航だった。

 多くの高校生らが日本国民としての教育を受けるべく密航して本土に渡った。1951年には11人の青年が密航して本土に奄美群島の実情を訴えた「密航陳情団事件」が発生する。

 この時代の密輸で運ばれた最も価値あるものは何だったか。食糧か。金品か。あるいは当時本土で貴重品だった南西諸島産の黒砂糖か。彼らにとってはそのどれでもなく、最も大掛かりで偉大な密輸と言われた品は「教科書」だった。

 1947年、日本国に現在の教育制度の礎となる6・3・3制が導入される。一方奄美群島では掘っ立て小屋の学校に子どもたちが学んでいた。日本の教育制度から切り離されて、教科書もなく。軍政下で日の丸の掲揚を禁じられ、自分の国の旗を見たことさえない子どもたち。彼らが何者かになるためには、帰属するべき国の教育が必要だった。

 翌1948年、2人の教員が本土に密航する。名瀬中学校の教諭・深佐源三と奄美小学校の教諭・森田忠光。彼らは本土で6・3・3制の教育指導要領、六法全書、そして教科書を入手し奄美に密輸した。「金十丸教科書密航事件」である。彼らが運んだものは教科書だけではなく、教育制度そのものだった。その功績にもかかわらず、彼らは帰島後、再び教壇に立つことを許されなかった。

 これらのエピソードは私にとって極めて個人的なものである。あの時、詩人が書いた詩の一節、血判状を押した小学生の小さな指、密航船の船底で息を殺した緊張感、それでもなお越境しよう、何者かになろう、何かを持ち帰ろうという確固たる意志がなければ、今の奄美群島も今の私もないからである。

 これらのエピソードから私が学んだこと、そして周庭さんに伝えたいことは以下のようなことだ。

 人は自分が何者であるかを自分で決めることができる、自決と独立の権利があること。そのために行う平和的手段での戦いは長い年月を要するが、必ず成就するということである。

 周庭さん、あなたは今将来に不安を抱えているかもしれない、でもあなたが戦っている戦いは、先の見えない戦いじゃない。このことは歴史が証明している。奄美群島の子どもたちが今なお75年前の詩人や学者、教師たちの名前を知っているように、あなたやジョシュアの名前は、数十年後の子どもたちに誇りを持って教えられる。そしてあなたが何者かであろうとすることを阻む敵は同様に、私の敵でもある。

以上、乱文を許されたい。もしも周庭さんとお話しできる光栄にあずかったならば、彼女の目に見えている未来について聞きたい。


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