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<短編小説>オンボロ車とお兄さん

小さな町に、小さなカーディラーがありました。
中古の自動車を売っているお店です。そのクルマ屋さんの倉庫には売れ残りのシトロエンD21がポツンと片隅に停まっていました。

置きっぱなしでホコリがつもって汚れているし、すこしサビているちょっとオンボロの車です。
シトロエンは、ひとりぼっちで、うす暗い倉庫でじっとしていました。

いつか外に出て、自由に走ることを、楽しみにしていました。

ある日、お店のおじさんと一緒にシトロエンを見にきたお客さんがいました。若い金髪のお兄さんでした。

お店のおじさんが、お兄さんにシトロエンを紹介しました。
「このシトロエンは安くしとくで、お買い得やで」
おじさんはそう言って、シトロエンのエンジンキーを回しました。

「長いあいだ動かしてないけど、まあ大丈夫やろ」おじさんがシトロエンのエンジンをかけようとキーを捻ります。

シトロエンは頑張りました。

誰かに買ってもらって、早くこの暗い場所から出たかったから。
お外を走りたいから。
力をふりしぼって、一生懸命エンジンをかけました。

「ブルルルルルル」

しっかりとした力強いエンジン音がひびきました。汚くても、錆びてしまっても、シトロエンのエンジンはきちんと動いたのです。
「いい車だね」
お兄さんが褒めてくれました。お兄さんはシトロエンの車体を撫でてくれました。
それからおじさんとお兄さんは事務所の方に行ってしまいました。

もしかすると、お兄さんはシトロエンを気にいってくれたのかもしれません。
シトロエンはドキドキしながら待っていましたが、その日はそれきり何も起こりませんでした。

それから何日かして、お店のおじさんがシトロエンをきれいに拭いてくれました。
シトロエンはすこしだけきれいになりました。また何日かして、シトロエンにナンバープレートが取り付けられました。
そして、倉庫から運び出されました。

その次の朝、シトロエンの待ち望んだ願いが叶いました。
お兄さんがシトロエンを買ってくれたのです。
「今日からよろしく」
お兄さんはシトロエンにあいさつをしてくれました。
「うん!! よろしく、お兄さん」シトロエンは、大喜びでお兄さんに返事をしました。
「ぼく、がんばって走るからね! なかよくしてね!」

お兄さんの車になったことがうれしくて、外を走れるのがうれしくて、いろんなことがうれしくて、シトロエンは、ぴょんぴょん飛び跳ねてしまいそうです。
お兄さんはくすっと笑って、シトロエンに乗り込みました。エンジンをかけ、そっとアクセルを踏みました。シトロエンは張り切りって勢いよくエンジンを作動させ、お兄さんを乗せて一気に走り出しました。
「わっ! そんなにスピードだしたら危ない」
お兄さんが慌ててブレーキを踏みます。お兄さんはまだ車の免許をとったばかりで、運転がすこし怖いらしいのです。
「ごめんなさい、ついうれしくて」シトロエンは謝りました。
「ゆっくり走るからね」
ハンドルを握るお兄さんの表情は、少し緊張しています。シトロエンはお兄さんが怖くないよう、そっと走りながら、小さな声でいいました。
「はやくぼくに慣れてね。上手に乗れるように練習してね」

お兄さんとシトロエンは、たくさんの車が走っている道路をゆっくり走っていきました。

車の音や、他の車たちの音、人々の話し声といった町のにぎやかな音が聞こえます。それは、長いあいだ静かな暗い場所にいたシトロエンにとって、ここちよい音でした。
自分もまた、そのざわめきにあわせて楽しそうにエンジン音を響かせました。

ロンドンには珍しいほどの晴天で、雲ひとつない青空の下を走っていきました。

シトロエンは、お兄さんと一緒にフラットに帰ってきました。
フラットには、専用のガレージがありません。
「こんなところで、ごめんね」
お兄さんはそう言いながら、シトロエンを裏の空き地のすみっこに停めました。
「いいよ! ぼくここが気に入ったよ!」
土地のオーナーに許可をもらったけれど駐車場ではないそこは、あまり居心地のよい所ではありませんでしたがシトロエンは元気に言いました。
「ねえねえ、お兄さん。またあしたもいっしょにはしろうね。おやすみなさい」
空き地の寝心地はよくなかったけれど、暗い倉庫でほこりにまみれているよりはずっとよかったのです。
シトロエンは月明かりの下で眠りました。

次の朝、お兄さんがシトロエンを起こしてくれました。
お兄さんとシトロエンは誰も来ない町外れへでかけました。お兄さんは初心者だから練習をすることにしたのです。
曲がったり、Uターンをしたり、スピードをあげたり、有料道路のランプを通ってみたり、色々なことをしました。上手に走れると、お兄さんがうれしそうなので、シトロエンもとてもうれしくなるのでした。
だからシトロエンは一生懸命、走りました。

夕方になって、フラットに帰って来たとき、お兄さんは「おつかれさま」と言いながら、シトロエンの車体を撫でてくれました。それからやわらかい布でやさしく拭いてくれました。

お兄さんは新米の諜報員で、なんだかんだとお仕事が忙しそうでした。でも情報部にでかけるときはシトロエンに乗って行くことにしたので、たくさん一緒に走ることができました。

シトロエンはお兄さんと走ることがうれしくてわくわくしていました。
少しずつ運転が上手になったお兄さんも、シトロエンと走ることをとても楽しいと思ってくれているみたいでした。

ある日、お兄さんはシトロエンをドライブに誘ってくれました。少し遠くの山まで行くのです。お兄さんと、お兄さんのともだちもみんな、一緒に行くのです。お兄さんのともだちは、みんな大きな車に乗っています。大きな車の中で、シトロエンは一番ちいさくてオンボロな車に見えました。

「どうせならもっといい車を買えばよかったのに」
誰かがお兄さんに言いました。シトロエンは、自分が小さくてみすぼらしいから、バカにされてるんだと思って悲しくなりました。お兄さんの方を見ると、お兄さんはにっこり笑ってシトロエンの車体をなでました。
「いいんだ。俺はこの車が好きだから」と言ってくれました。

車たちはいっせいにアクセルを踏み込み、みんなで走り出しました。
他の車たちはみんな、シトロエンより大きくて立派です。でもシトロエンも頑張りました。
たくさんエンジンを回転させ、大きくうなって力強く走りました。気持ちいい、とシトロエンは思いました。
風がシトロエンと一緒に吹き抜けていきました。山道を、空を飛んでしまいそうな勢いで走りました。
景色の中で、まるで自分が風になったようでした。
シトロエンが「たのしいね、お兄さん!」と言うと、ハンドルを握るお兄さんがにっこりと微笑んでくれました。爽やかな風と、緑の木々の間を、車たちは並んで走ったり、前にでたり抜かされたり、じゃれあうように走りました。目的地についたとき、シトロエンは少し疲れたけれど、とても楽しくて、うれしい気持ちになりました。

お兄さんがボンネットを開けて、エンジンに負荷がかかっていないか調べてくれました。シトロエンは、元気な声で、「ぼくは平気だよ。もっと走れるよ」と答えました。

1台のボルボが、シトロエンに話しかけてきました。
「お前、なかなかやるじゃないか」シトロエンは「ありがとう!」と、笑顔で答えました。初めてのドライブはお兄さんにとっても、シトロエンにとっても、とても楽しい想い出になりました。

次の週、シトロエンは、お兄さんにきれいに洗ってもらいました。
洗っても落ちない汚れがあるし、ずっと前にできてしまったキズもそのままです。シトロエンはきれいに洗ってもみすぼらしい車なのですが、お兄さんはうれしそうです。「ピカピカになった」と褒めてくれました。だからシトロエンもうれしくなりました。シトロエンはお兄さんが大好きでした。

せっかく洗ってもらったのに、その次の日は雨でした。どしゃぶりで、カミナリまで鳴っています。
シトロエンは、カミナリが怖くて少し泣いてしまいました。お兄さんが側に来て、なぐさめてくれました。それからお兄さんは、カサをさして、どこかに行ってしまいました。
「お兄さん、どこへいっちゃったの?」

シトロエンが待っていると、お兄さんはカーショップの袋を持って帰ってきました。お兄さんは袋から、丈夫な車用のカバーを出しました。お兄さんは、シトロエンがもう濡れないですむように、カバーを買ってきてくれたのです。お兄さんは雨に濡れながら、シトロエンにカバーをかけてくれました。「ごめんね、お兄さん。どうもありがとう」風邪ひかないでね… シトロエンは心の中でつぶやきました。

ところがお兄さんは風邪を引いてしまいました。
初めて見る人が、お兄さんを支えるようにしてシトロエンのところにやってきました。その人はお兄さんを助手席に押し込んで、自分が運転席に座りシトロエンを走らせました。お兄さんはぐったりしてドアに凭れながら、謝っていました。
「謝るくらいなら風邪なんか引くな」その人は厳しい声でそう言い返したけれど、とても心配そうでした。
お兄さんを病院まで連れて行くと、その人はシトロエンに「ご苦労さん」と言ってくれました。

数日後、お兄さんの風邪が治ってからシトロエンは2人を乗せてドライブしました。夕焼けが一番きれいに見えると言われている丘の上まで走りました。シトロエンに凭れて立ち話をするお兄さんとその人とシトロエンの影がひとつのようでした。身を寄せ合って、夕闇が鮮やかに色を変えていく空を隠すまで見続けました。

お天気のいい日の朝、お兄さんがシトロエンを起こしに来てシトロエンの一日がはじまります。いつもはお兄さんのお勤めをしている情報部の本部に行きます。
お仕事以外の時には、お兄さんはいろんなところにシトロエンを連れていってくれました。お花屋さんやケーキ屋さんにも行ったし、近郊の町のマーケットで買い物をしたり、堤防からテムズを見たりしました。あの人も一緒に小旅行にも行きました。毎日が楽しくて、シトロエンはとても幸せでした。シトロエンはお兄さんの車になったことを、心から嬉しいと思っていました。

ある日、お兄さんはシトロエンに乗って少し急いでいました。お仕事の時間に遅れそうだったのです。交差点にさしかかりました。いきなり飛び出してきた人がいました。

ぶつかってしまう!お兄さんは、ハンドルを大きくきりました。

よけた方向に、大きなトラックが走っていました。トラックはものすごいスピードを出していました。

一瞬の出来事で、誰にもどうすることもできませんでした。「ガシャン」という大きな音が聞こえました。鉄がひしゃげる、大きな激しい音でした。

シトロエンは、お兄さんを守るようにしてトラックに押しつぶされました。車体はグシャグシャになりましたが、それでもありったけの力で運転席を守りました。声をふりしぼってお兄さんを呼びました。
「お兄さん! お兄さん!」シトロエンからガソリンが流れ出しました。体中がバラバラになったような痛さでした。それでもお兄さんが心配で、シトロエンは叫び続けました。
「お兄さん、だいじょうぶ?!」
「お兄さん!返事をして!!」
お兄さんは運転席で、動きません。割れたガラス、砕けたフロントの破片が散らばっています。お兄さんの金髪の間から血が流れていきます。そしてシトロエンからこぼれ出したオイルやガソリンは道路に流れていきます。シトロエンは泣き叫びました。
「お兄さん、死なないで! 誰か、お兄さんを助けて!」
お兄さんは目を閉じたままでした。
いつのまにか人だかりが出来ていました。遠くから、救急車のサイレンの音が聞こえてきました。

お兄さんが、どうか、どうか無事でありますように。

祈りながら、シトロエンの意識も遠くなっていきました。

次にシトロエンが気がついたのは、オイルの匂いがツンとする、暗い倉庫のようなところでした。シトロエンの部品は大部分が壊れていたし、タイヤもゆがんでいました。ライトは砕け、バンパーは原型を留めていません。車体そのものがひしゃげてしまってひどい姿でした。もう大破しているエンジンも、使えそうにありません。
修理は大変だろうな、とシトロエンは思いました。それから、お兄さんのことが心配になりました。
「お兄さんが、どうか無事でありますように」
シトロエンは、お祈りをしました。何度も何度も、お兄さんのために祈りました。

そのうち、頭がぼんやりして眠くなってきました。眠りながら、お兄さんと出掛けた時のことを考えました。

早く元気になって、またお兄さんと走りたいな。いろんなとことろへ、行きたいな。行ったことのない場所も、行ったことのある場所も、どんな場所へでも行きたいな。お兄さんと走りたいな・・・・。


壊れたシトロエンが目覚めたのは、どこかの車屋さんの修理工場でした。
工場で働くおじさんがシトロエンのところに来て「こいつはもう無理だな」と言いました。
それきり、誰もシトロエンの前には来ませんでした。


何日か過ぎました。

シトロエンはずっと考えていました。
また長いこと放っておかれるのかな。早く修理してほしいよ。お兄さんは大丈夫なのかな。
お兄さんはもう迎えにきてくれないのかな。考えていると、シトロエンはだんだん悲しくなってきました。


泣きながら眠ってしまったシトロエンの車体を、誰かがやさしく撫でていました。シトロエンは目を覚ましました。
お兄さんでした。お兄さんは怪我をしていて、頭と腕に包帯を巻いていました。
「お兄さん!!」
シトロエンはうれしくて、大きな声で呼びました。でも声はかすれてしまって実際には声にならず、力も出なくて、何も出来ませんでした。だから心の中で言いました。
「お兄さん! 無事だったんだね、よかった。とっても会いたかった!!」
うれしくて、泣いてしまいました。お兄さんは、なぐさめるようにシトロエンの車体をさすってくれています。オイルやガソリンでグチャグチャのシトロエンを、手が汚れるのも気にせず撫でてくれていました。
「迎えに来てくれたの? また一緒に走りたいよ」
シトロエンが弱々しい声で言うと、お兄さんは小さく頷きました。


それからまた数日が経ちました。シトロエンの体はとても弱くなっていて、そのうちバラバラに壊れてしまいそうでした。

シトロエンは、もう走れないのかもしれないと思いました。


その悲しい予感はあたってしまいました。

お兄さんが次に会いに来てくれたとき、お兄さんはシトロエンの車体にそっと手をかけました。

お兄さんの青い瞳から伝い落ちた涙の雫が、シトロエンの車体に落ちました。
お兄さんは、ささやくように言いました。
「今までありがとう」
お兄さんの流す涙がぽたぽたと落ちてシトロエンの体を伝っていきます。「一緒に走れて、楽しかった」
お兄さんのぬくもりを、シトロエンはなつかしく感じました。

シトロエンはお別れを言わなければいけないのだと、気づきました。
だからお兄さんに言いました。
「お兄さん ありがとう」かすれた、小さな声で言いました。
「ほんとうに ありがとう。ぼくもいっしょにはしれて、たのしかった」

お兄さんはきっとまた、新しい車を買うでしょう。
車が好きだから。車を好きになったから。
シトロエンと出会って、車をもっと好きになったお兄さんは、怪我が治れば、きっとまたお金を貯めて車を買うでしょう。

次にお兄さんと走る車も自分ならよかったのに。
ずっと、お兄さんと一緒に走りたかったのに。

シトロエンは悲しい気持ちを抑えることができませんでした。

それから、はじめてお兄さんに会った日のこと、雨の日のこと、ドライブやおでかけ、いつも撫でてくれたやさしい手、いろいろなことを思い出しました。幸せな思い出がたくさん、涙と一緒にあふれてきました。

シトロエンは お兄さんが大好きでした。お兄さんと一緒に走ることが大好きで、空も海も、町も道路も、何もかも大好きでした。
シトロエンは、そのことをお兄さんに伝えたいと思いました。お兄さんと出会って、とてもうれしかったことや、お兄さんを大好きなことを、心から大好きなことを、伝えたいと思いました。
「お兄さん・・・・・」
でも、もうシトロエンの声は、かすれてしまって声になりませんでした。
でも、聞こえなくても、お兄さんはちゃんとわかってくれました。
「有り難う」
そう言って、お兄さんはシトロエンの車体におでこをくっつけました。
シトロエンは小さく頷きました。


シトロエンは自分のことを幸せな車だと思いました。
とても幸せな車だと。
もう2度と走れなくても、とても幸せなのだと思いました。
シトロエンはお兄さんの温もりを感じながら眠りにつきました。
それきり、動くことはありませんでした。


シトロエンは お兄さんと走るのが大好きでした。

今も走っています。 

お兄さんの心の中で

思い出の中で

楽しそうにエンジン音をひびかせながら。


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