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はかない命をどう扱えているか

ゴールデンウィーク、いかがお過ごしでしょうか? この時期はどこに行っても混んでいるので、例年通りあまり予定を入れず、自宅近辺でのんびりしようと思っていました。空いた予定というのは不思議なもので、ひょんと大切なことが入り込んできたりします。

先日も、ぼーっと自宅で過ごしていると大切なクライアントの社長さんから「今、ちょっと話せる?」とお電話がありました。「はい、ちょうど今なら」と僕は電話を受け取り、大切な仕事先を紹介いただきました。すぐそのまま、開催中のオンライン・ミーティングにお邪魔してあれこれお話しし、新しく淡路島にできる施設でのアウトドア・ミーティングのファシリテーションをご依頼頂く運びになりそうです。「おぉ、身体が空いているって大事なんだな」と感じました。何にでも対応できる。

かけつけた通夜で。葬儀場の屋上駐車場は月明かりできれいだった

そうこうしていると、今度は夜8時ごろに妻の携帯が鳴りました。「〇〇が、そう、、、うん、はい。わかった」言葉少なに切ったあとにわぁっと崩れ落ちる感じがしました。1年近く闘病した友人がついに力尽き、病院で亡くなったようです。

通夜や葬儀はなぜかくも手間がかかるのか

葬儀場にかけつけると、ご遺族と親しい友人がいた。葬儀場のスタッフとあれこれ打合せをしている。通夜や葬儀や精進落としの打合せをしているようだ。夫婦でお世話になった我々は、ご遺体のもとにすりよった。夫を失った伴侶が泣いている。その声をきくだけで、こちらも泣けてくる。

人柄のよき友であった。僕の知る限りで、彼のことを悪く言う言葉を一度も聞いたことがない。温かい心の持ち主で、誰かのために何かを調べてきたり、本をすすめてあげたり、励ましてあげたり、その人の価値を正当に評価しつつ、当人をはげましたりできるナイスガイであった。

通夜や葬儀には、たくさんの手間がかかる。今でこそ葬儀屋さんがあって、その多くを肩代わりしてくれているが、それでもかなりの手間がかかる。病院をひきはらったり、役所にいって手続きしたり、葬儀屋さんと打ち合わせて祭壇や棺桶や会葬御礼の松竹梅を選んだり、誰に声をかけて誰に声をかけないかを逡巡したり、弔問客に頭を下げたりするのは、けっこう大変なことだ。大切な人を失ったというのに、なぜにこんなに葬儀や通夜に手間がかかるのか、かつては、とても疑問だった。が、僕も父や母や大切な方を幾人か葬送するプロセスで、その手間が人を癒す効果もあるんだと感じるようになってきている。手間をかけ、当人をしのび、その過程であれこれ交わし合う時間こそが、残された方我々にも、必要な時間なのかもしれない。


今どきの霊柩車はこんな感じ。お父さん、最後にあこがれのレクサス乗れたよ、ってことか

泣いて笑って語って見送る

葬儀も初七日法要も終えたのち、親族と親しい友人で食事の場がもうけられた。はじめは親族席と友人席に分かれて座っていたが、ビールを片手にだんだん混じり合い、語り合う時間になった。とても明るくて楽しい一族らしく、それぞれの兄弟や叔父さんや従兄弟やらのあいだで、冗談を飛ばしたり、昔話をしたり、お互いをいじり合ったりしている。とても葬儀後とは思えない盛り上がりを見せる時間になった。もちろん故人を偲んで泣く時間もあったが、それ以上に笑って見送る時間でもあり、遺影の前が淋しくない印象の時間だった。こういうのも、ありだなぁ。


宴会場のロビーからの眺め。鳴門海峡のはるか先に故人は旅だっていったのか


いつ死ぬかなんて、わからない


まだまだ若い友の死は、同世代に私たちに大きなショックを与えた。僕はまだ47才で、あと30年ぐらいは生きるかなと思っているけど、そんなことは約束されていない。不慮の事故で明日にでも亡くなるかもしれないし。

というわけで、通夜と葬儀を終えて帰宅した妻と「死んだらどんな風に葬送してもらいたい?」と確認する話し合いをした。延命治療についてどう思うか、通夜は葬式はどうしてほしいか、その時はこのCDを流してくれ、しめっぽくしないでこんな感じで宴会でもしてほしい、お墓より海洋散骨がいい、などなど。皆さんも大切なご家族と、折を見てお話ししてみてはどうでしょうか。

一晩あけて、感じたのは「本当に命というのははかないものだ」ということ。そして、今日という日を生きているのであれば、そのはかない命をどう扱えているか?を考えて、本当にやりたいことや、やるべきことに邁進できるといいなぁ。本当に読みたい本を読んだり、かねてからやりたかったことを手がけたり、あの人にお礼言えてなかったなと思ったら、多少ばつが悪かったとしても伝えてみたり。

時間を頂くということは命を頂くということ

社会人一年生のころ、先輩に教わったことの一つに「遅刻は絶対してはいけない」というのを教わった。社会人として、当たり前のことなのだが、なぜいけないのか?の解説が印象に残っている。先輩曰く「人生というのは限られている。限られた時間のなかで、私たちのためにお時間を使って待っていてくださっている。時間を使うということは、命を使うということ。私たちが遅刻をしてしまうと、その人の大切な命を無駄に削ってしまっていることになる。だから遅刻をしてはいけないんだよ」というお話し。若かりし僕は、本当に深く頷いて、遅刻のない社会人になった。

これもやはり、はかない命をどのように扱うのか、その人の死生観というか人生観の表れる指導であったと思う。「遅刻をすると、君の評価が下がるんだ。それは君にとってもデメリットだろう」と教えられるのとでは、同じ「遅刻をしてはいけない」と教えるにせよ、少し違ったインストールになると思う。

大切なのは、想像力か。自分の命や、他者の命に対して、どいうイメージを持って、接し、扱うか、ということかな、と友の死をきっかけに考えることになりました。

ひょんなことから、来月、こんな企画を持つことになっています。ハヤチネンダという団体は、岩手の早池峰山の近くで「自分たちを葬る森をつくる」みたいな活動をしています。生前からその森づくりに関わることで「あぁ、ここで私は埋葬されるんだな」と死の準備をするような活動をしていて、個人的に共感しています。かねてから「生や死」に関心のあった僕から「何かご一緒にできませんか?」とお声をかけて、実現した企画です。死のイメージ・トレーニング。実際に死ななくても、そのイメトレはできるかな、と。ご一緒したい方は、ぜひ。

大事なことは、身近なところに

葬儀のあとの食事の場でお酒を飲んだ関係で、車を置いてきてしまったので、翌朝、歩いて取りに行って来ました。隣の集落で1時間ほどかかるのですが、運動不足解消にはちょうどいいかな、と。車でいくと5−6分の所なんだけど、歩いたことがなかった。歩いてみると、実に様々な発見があり「こんなところに誰もお世話していないお地蔵さんがあったとは!」とか「こんな場所にけっこうなサイズの滝があるの? 今度じっくり見に来たいな」とか。海沿いに暮らす家々で海藻を干していたり、集落のお墓が丁寧に草刈りされていたりするのを見て「あぁ、大事なことや守るべきものは、実は身近なところにあるのかもな」と思ったしだい。というわけで、連休中は遠出をせず、身近なところの草刈りやお掃除をして過ごそうかな、と思います。みなさま、どうぞよき休日を。

地元の方がお花も添えて手入れされている不動明王に手を合わせた

心よりご冥福をお祈り申し上げます。これまで本当にありがとう!


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