読書ノート『世界哲学史1』(ちくま新書)

 要約しつつ、自分用に私(あおき)が太字で加筆します。
 ※この本は章ごとに著者が違います。

1. 世界哲学史の目的

 「哲学」というものはこれまで古代ギリシアに始まる「西洋哲学」を中心としてきており、現在も哲学という分野は英米の分析哲学が中心となっている。そんな中で地域性に縛られないより普遍的な「世界哲学」を目指す動きがこの本の根底にある。

 これまでの西洋哲学を中心とした哲学には、自分たちが正統とする、古代ギリシア以来受け継がれてきた体系以外を排除してしまう傾向があるが、それは構造的な問題である。古代ギリシア哲学における、「現在あるあり方に対して特定の、通常は一つないしは少数の源泉を想定して、そこから一つの系譜や発展として出来事の全体を捉えようとする」思考法を受け継いで発展した結果、哲学という学自体においても、古代ギリシア哲学という一つの源泉を想定する構造が生まれているのだ。
 しかし、このような現状には問題点がある。西洋哲学はその原初から「普遍性」を希求するものであった。普遍的に当てはまる真理を知ることを目指す、人間に普遍的な営みとしての学、それが哲学であった。しかし普遍的な真理を目指さない思想に現実として出会う時、ジレンマが生じてしまう。哲学が真理を目指すものだとすると、それらの思想は哲学から排除され、哲学という営みの普遍性が保てないのである。
 こうした西洋哲学の哲学観に内在的な問題点を解決すべく、また、私たちの生きる世界が実際に西洋文明の枠にとどまらない多様性へと向かいつつ一体をなそうとしている中において哲学をより多様性に満ちた学とすべく、より多元的な普遍性に基づく「世界哲学」が目指されているのである。

 以上が「世界哲学」の目的である。その文脈の中で「世界哲学史」は、さまざまな伝統や思想を「世界という全体の文脈において比較し、共通性や独自性を確認していく」ことを目指しているのだ。

 ここまでの「世界哲学史」に関する導入は全8冊となる予定のこのシリーズすべてに通底するものだと考え大きく紙幅を割きました。
 ここからはできるだけ他の時代・他の地域の思想との比較をしながら、ひとまず各章で解説されている思想を簡易的にまとめていきます。

2. 古代西アジア

 第二章では世界・魂を軸として古代西アジアの思想が取り上げられている。具体的には古代メソポタミアでの、楔形文字を用いたシュメール語・アッカド語文化圏と、古代エジプトの思想である。

 2.1 古代メソポタミア

 古代メソポタミアでは自然の構成要素の神格化による多神教的文化が生まれた。世界創造の神話は、未分化の混沌から神格の性的な交わりを通して神々が生まれて秩序付けられていく神統譜を中心にしている。

 前二千年紀に記され前千年紀中頃までメソポタミア神学の中心だった『エマヌ・エリシュ』によれば、混沌の中であるものが名前を付けられることによって事物は初めて存在するようになり(場合によってはそこで神が生まれ)、世界は分化し秩序付けられていく。また「名前」に並んで世界の秩序に重要な概念として「定め」がある。定めは神々によって決められるが、神々も定めに従うとされた。しかし、ここに宿命論はなく、定めは努力によって変えられるものであった。定めを予知し、不幸を避ける手段として占いや呪術が発達した。また世界の創造において、天体は時を刻む指標となることを目的に創造された。この神話の通りの、メソポタミアの暦の刻み方はユダヤ・キリスト教の伝統と一致する。天体は規則的な動きを繰り返す一方で、時間の流れは循環としてではなく、通時的なものとして理解された。これも以降の西洋文明に通じるもので、またこれによって年代的な歴史叙述が発展した。しかし、(終末へと向かうキリスト教的歴史観とは異なり)「始原から特定の方向へと進む道筋としては考えられなかったようだ」。

 古代メソポタミアにおける人間の創造は、粘土を材料に創造されるパターンが多かった。人が死ぬと霊は冥界に向かうとされたが、この死霊としての単語「エランム」は、我々が魂と呼ぶような、生命力の源泉としての概念とは語彙上区別された。冥界での暮らしは、生前の行いの裁きによってではなく、天寿を全うしたかどうか、また子孫によく供養してもらえているかどうかに依存するとされた。

 こうした世界と魂についての理解は、実利的な目的を持つ技術開発や国家の正統性を証明するなどの動機から学問として論理的に洗練された。そんな中で、主流の世界理解に対する疑念は確かに存在し、「神々の意図は人間には知りえないとする不可知論」が提唱されるなど『旧約聖書』における知恵文学にあたるような思想もあった。『エマヌ・エリシュ』の冒頭が『旧約聖書』の「創世記」に類似するように、古代メソポタミアの思想は断絶されたもののユダヤ教やギリシア語文献に受け継がれた。

 2.2 古代エジプト

 古代エジプトは西アジアにありながら、独自の文字体系を擁しメソポタミアとは違った思想体系を築いた。世界は、「マアト」という正義・真実を体現した女神で且つ世界の秩序そのものである抽象的概念によって理解された。これは天体の運行などを決めるものであると同時に、人間が従うべき倫理的な規範でもあり、死後の裁判における判断基準にもなった。

 魂についてはメソポタミアのそれよりはるかに複雑のものとして理解されていた。「人間は肉体のほか、名前、影、そして翻訳の難しい概念であるバー、カーの合計五つの要素から成り立つとされた」。

3. 旧約聖書とユダヤ教

 第三章では旧約聖書とユダヤ教にみられる古代イスラエル人、ユダ人の思想がまとめられている。

 ここでも始原に対する問いがなされたが(始原に対する問いがなされたからこそ世界哲学の一部として取り上げられるのだろうが)、それを原理の問題として捉えたギリシア哲学とは異なり、創造主である神とのつながりにおける物語として探究された。

 ユダヤ人たちは『旧約聖書』の編纂に際し、先祖たちが奴隷として住んだ土地と位置付けたエジプトの思想と対比させながらその文学形式と内容を取り入れていった。また、バビロニア捕囚でメソポタミアの思想の影響を直接に受けていた。
 逆に、後代においてイスラームはそのルーツを旧約聖書に持つものと意識し、その世界観を受け継いでいる。
 大きな相違点として、神がいかなる存在かという点があげられる。エジプトのファラオが人間の神格化であること、バビロニアで万象が神になりえたこと、出エジプト後カナンの地でバアル信仰が定着したことと対照的に、イスラエルの思想において神は世界から超越しており、逆に世界は被造物に過ぎない。

 メソポタミアの『エマヌ・エリシュ』においてティアマトという神の体を素材にして天地が創造された一方、『旧約聖書』の「創世記」では世界は神が言葉を発することによって創造され、何の素材も用いられていない。しかし、ユダヤ教全体を通して「無からの創造」が主張されたとまでは言い切れない。
 イスラエルの神は創造を重ねるごとに、秩序と調和のもたらされていく世界を見て「良しとされた」。ヘレニズム時代のユダヤ教は「コスモス」という、「整然とした秩序としての世界を表す」、イオニア哲学に発する概念を用いて世界を表した。しかし、ヘレニズム的なコスモスにおける秩序が「自然に内在する法則によって整えられたもの」であるのに対し、ユダヤ教で秩序は神の意志によって整えられた。

 ユダヤ教における人間の創造は、土で形作られたものに「神の息吹(ネシャマー)が鼻から吹き込まれ、体の中でルーアハ(霊)が活動をはじめた時、土(アダマ)を素材とする物質的な体はルーアハをその中に包み込んだまま、その存在は生けるネフェシュとなった」と説明される。ネフェシュというのは、人間の特定の体の部位を示す語でもあるが、「生命機能であるルーアハと意味を共有しつつ、最終的には生きている人間そのもの、人間の命、その全体性を表している」語である。
 ネフェシュは「魂」と訳される語だが、ギリシア思想における魂(プシュケー)が「身体とは別に存在する精神的実体」で、不死のものと考えられるのに対し、ネフェシュは「身体と必ず結びついて存在」する。

4. 中国の諸子百家による思想

理解が難しく要約もままならないため保留します。
理解できたら追記します。

5. 古代インドの哲学

 インド哲学は、ドイッセン『一般哲学史』によってヴェーダの時代、ブラ―フマナとウパニシャッドの時代、ヴェーダ以降の時代に区分される。
 前500年頃からの「ヴェーダ以降の時代」ではヴェーダの勢力圏外の、「輪廻」と「業」の観念と「解脱」の理念を共通して持つ仏教、ジャイナ教、ヒンドゥー教が成立していった。またドイッセンはこの時代の中に、『マハーバーラタ』によってさまざまな思想が萌芽的に語られた「叙事詩の時代」を設けた。

 インド哲学は、表面的な内容においては古代ギリシア哲学に似ているが、哲学書は対話、論争の形式で展開された。実際にインドの哲学者たちは「合理的な論理の形式的枠組みを共有しながら議論することができるほどには、自由であった」のだ。

 インド哲学、特にウパニシャッドの「梵我一如」における「我(アートマン)」は、不死性を持ち、認識に関わる主体であり、また「自己同一性の基体」であるという側面を持ち、ニヤーヤ学派の『ニヤーヤ・スートラ』ではこの側面から「我」の存在を論理的に論証しようという試みもなされた。
 ウパニシャッドからニヤーヤの間の過渡期である叙事詩の時代では、『マハーバーラタ』において、同一性を保持する輪廻の主体として生成論的かつ認識論的に語られたり、また自己意識の生まれた元として語られた。

6. 古代ギリシアにおける哲学の始まり

 第六章では、哲学とは何かという問いに答えるために、古代ギリシアにおける哲学の始まりはどこなのか、その基準は何であるのかについて論じられている。私(あおき)としては、序章の25ページに記されている

「私たち人間が日々漠然と抱く疑問や思念、それを社会的に共有する神話や宗教儀礼といったものを超えて、宇宙を含む世界の全体と私たち自身のあり方に思いを致すこと」

を哲学(特に哲学の始まりにおける哲学)とする捉え方は的を射ていると思う。

 私たちが(慣習的に)哲学の始まりとみなすのは、初期ギリシアの、タレスに始まる哲学者の思想である。だがそれはなぜか。また、それ以降においても一体哲学者たる条件は何なのか。
 哲学者の条件を「抽象的な概念を用い、論理的に整理して思索を連ねる能力」だけに求めるならば、プラトンによって「ソフィスト」として退けられた人々も含まれるはずで、また哲学の始祖はタレスではなくパルメニデスということもできる。
 また原理の探究を条件とするなら、ヘシオドスのような詩人もここに含まれる。

 筆者(松浦和也氏)はここから、しばしば主張される「詩から哲学へ」というギリシア哲学形成の経緯の問題点を挙げたうえで、典型的なイメージとは異なる哲学像の一例を、数学を足掛かりにして提案する。

 ホメロスやヘシオドスといった詩人と違い、初期ギリシアの哲学者と呼ばれる彼らには数学的素養があるという共通点がある。ここから、数学的思考のプロセスが哲学者にとって重要なのではないかと考えられる。ギリシアより数学が発展していたメソポタミアやエジプトで哲学が発展しなかったのは、「すでに知られた公理や定理から、新たな数学的事実を発見する営み」つまり数学的な証明がそれらの地域にない、古代ギリシアに独自のものだったからだ。
 それに加えて、パルメニデス以前の哲学者が哲学者たる理由は、ホメロスらの詩や、他の哲学者の見解を無批判に権威として扱わずに、検証し、別の可能性を提示した、思索に対する態度なのである。

 数学的思考という観点から例を出し、従来とは違う枠組みへの挑戦を提案したのは面白いと思うが、この文章では、結果的には従来通りの哲学者の定義を補強するだけであり、また他の地域の哲学の始原には当てはまらない、普遍性に欠ける提案だと感じた。

7. ソクラテスとギリシア文化

 紀元前6~5世紀に、世界各地での「源流思想」と呼ばれる知的活動において、関心が世界の始原から事故・魂に向かった。この不思議な共時性の理解のために、まずそれぞれの思想と背景を理解すべきとし、筆者(栗原祐次)はこの章でソクラテスの哲学を取り上げている。

 ソクラテスにとって世界は、客観的対象として観察する自然ではなく、他者とともに自分たちの幸福を実現する共同体であった。
 そのソクラテスが実際に生きた民主政ポリス社会は、自由と平等の理念を持っていたが、その実、言葉巧みに評判を勝ち取る政治家・詩人と意見を聞いて判定する大衆の間の政治的格差に根差した二重構造社会であった。その中で、ソクラテスは「政治的な公的空間でも経済的な私的空間でもない、半公的、つまり『セミパブリック』ともいうべき公共広場の『アゴラ』でもっぱら話をして時を過ごし」た。彼が作った一対一の対話は、参加資格を制限しないという平等性と、意見の表明に制限がないという自由性を持っていた。

 ソクラテスは不知の自覚(無知の知として有名だがこれは不正確)を経て、「知ることを愛し求める愛知者」としての歩みを進めた。彼は、「人は皆、幸福であることを願っている」という幸福主義の公理から出発し、幸福であるために必要な、自己のあり方の正しい認識、行為の良さや幸福感の正しさの判定のために、真の知恵を愛し求めるとした。(私(あおき)は、ここには論理の跳躍もしくは、人間に普遍的な正しい「良さ」「幸福感」があるという前提があると考える。)

 ソクラテスは、「徳」に至り幸福になるために「魂への配慮」を、自分が如何に世界の通念に染まっているかを自覚してその限界を意識するために「思慮への配慮」を、そして、知を愛する者同士で対話によって共に学びあうために「真理への配慮」をせよと説いた。私たち現代人も、こうした魂への配慮を実践することでソクラテスの呼びかけに応答することができるのだ。

8. プラトンとアリストテレス

 この章では、プラトンとアリストテレスにおける知性と魂が取り上げられている。

 8.1 プラトン

  プラトンはその著作で対話篇という形式を採用し、それぞれの登場人物の発言だけでなく、その性格のような要素にも一定の役割を担わせた。

 彼は魂の中で知性を働かせて捉えるべきものとしてイデアを定式化した。人は絶対的な尺度によって的確な判断を下せるように、また、理想を認識することでその理想を目指せるようになるために、イデアを知る必要がある。とりわけ、すべての事物に価値を付加する源泉である善のイデアを学ぶことが重要なのである。

 プラトンは善のイデアに到達するためのプロセスを以下のように示した。
 まず、「音楽や体育を通して感情が知性に従うように陶治される必要がある」。その後、「魂の三つの部分のうち『欲望』と『気概』を『知性』に従わせる訓練」として社会に出て実務的な経験を積む。
 そこからさらに数学的な学問を学び、認識の方向性を現実世界からイデアの世界へと向けかえる。最後に、哲学的な対話によって善のイデアの認識へと方向づけられねばならない。

 8.2 アリストテレス

 アリストテレスは知性の種類・学問を分類し、善のイデアを認識しなくてもそれぞれの学問は自立して遂行されているとプラトンを批判した。

 アリストテレスの魂論によると、人の魂は「道理を持つ部分と道理を持たない部分から成り立っている」。そのうち道理を持つ部分の卓越性である知性を発揮し、学問や思慮をすることが人間の幸福なのである。
 アリストテレスは学問の方法として、先行研究を行った。その前提には、「人間は真実な見解を手に入れることができる」という認識に対する信頼があった。そして、「経験を積み重ねてデータを集積」し、原因を把握することが学問だとした。
 更に重要なこととして、人間に都合のいいように世界を捉えないように、純粋に知識を求める(生活の必要に迫られてするのではない)「自由な学問」をすることを説いた。

9. ヘレニズム哲学

  第九章では、ヘレニズム哲学を代表するストア派、エピクロス派、懐疑派について世界哲学史として記述するために、それらが世界においてどうとらえられたかを紹介し、そのうえで実情を紹介している。

 ヘレニズム哲学は、ソクラテス~アリストテレスらの黄金時代に次ぐ時期であるがゆえに「大したことはない」と思われ、著作が断片的にしか残っていないために「いまひとつ堪能できない」と思われ、神や魂まで物体として捉えているため「どうにも救いようがない」と思われている。

 9.1 ストア派

 ストア派にとって、世界はロゴス(理法、理性)によって支配されていて、それは神とも呼び変えられる世界の展開プログラムのようなものである。その中で自身も理性を持つ人間は、理性的に認識し行為し生きることが幸福である。
 ストア派は物体主義の存在論をとっており、自立的に存在するものは物体のみである。神も魂も物体であり、魂を物体とする点はエピクロス派と同じだ。
 ストア派は判断と行為を、「魂の統括的部分(ヘーゲモニコン)が、自分に与えられた表象(ファンタシアー)に同意を与えること」と説明した。この同意を与える能力は、のちの「意志」の走りだと言える。
 ストア派には、出来事の間に「共に宿命づけられている」という連関があると説明される宿命論があった。これは、人の行動に関わらず結果が決まっているということではなく、人がある行動をとったならその結果はもともと宿命づけられていたということである。

 9.2 エピクロス派

 エピクロス派では、「宇宙」全体の中に「世界」が多数ある。宇宙の中で自立的に存在しているのは原子と空虚だけであり、世界も一種の原子群である。
 エピクロスは原子の運動法則を、意志の力と「突然の逸れ」を例外として想定していた。また、感覚器官の認識を、影像(エイドローン)という薄い膜が物体から絶えずはがれ飛び出しているのが通過しているのだと説明した。
 エピクロスによると、善いとは「快いか、快を生み出しうること」であり、幸福は必要な欲求が満たされている静的快の状態(アタラクシア―)である。よって、魂がかき乱されないよう、「隠れて生きよ」(政治に携わるな)と説く。
 そして、彼によれば哲学はアタラクシア―に辿り着く鍵である。人間をアタラクシア―から遠ざけている要因は、神罰の恐れと死への恐れの二つであり、これらはエピクロスの哲学によって取り除かれるからだ。

 9.3 懐疑派

 懐疑派にはピュロン派とアカデメイア派がある。

 ピュロン派では、「判断保留」が目指され、「ある説に説得力が認められるとき、これと反対の説にも同等の説得力を認めていき、両説間に均衡をもたらす」という方法がとられた。

 アカデメイア派は世界というものを次のように捉えていた。「第一に、論争しながら懐疑的探究を続けていく場所。第二に、それについて確実なことは何も知りえないにもかかわらず、そのつど当座の判断を下して行為していかなければならない場所」。

10.ギリシアとインドの交流

 ギリシアとインドの思想の出会いの始まりの一つは、アレクサンドロス大王がインドのパンジャーブ地方にまで遠征し、インドの「賢者」たちと出会ったことだと考えられる。またその後、バクトリア周辺にギリシア人による諸王朝が建国された。両思想の直接的な接触はこうした背景で行われた。

 10.1 ピュロンのインド思想との接触

 ピュロンはアレクサンドロスの遠征に同行しており、ディオゲネスの『ギリシア哲学者列伝』には、ピュロンがインド人やペルシア人との出会いから思想上の影響を受けたと記述されている。
 サンジャヤ・べーラッティプッタ率いる学派は、「日常生活を離れた問題に対し、どちらとも断定せず、自身の確定的な主張を行わないなどの答えをした」。しかしこの学派のアレクサンドロス時代の実態は不明である。
 仏教の「無記」の思想もピュロンの立場に近いが、仏教の根源にも「真理」を必要とする点から異なっている。ピュロンは「対象の一義的な把握の不可能性をあくまでも主張する」。
 ジャイナ教も、一義的に断定せず相対的な観点を持つ方法論を持っていたが、重要な教義である「不殺生」が「生物」の規定を必要としており、実際に原子論を中心とした自然観を有していたためやはりピュロンと異なっている。

 よって以上の思想がピュロンの思想に直接影響を与えたと考えることはためらわれるが、ピュロンの「孤独のうちに哲学的生を営む」生活態度はインドの影響が認められる。

 10.2 アショーカ王碑文

 インドのアショーカ王が自らの仏教的な統治理念を記した「アショーカ王碑文」というものがあるが、これのギリシア語翻訳碑文がアフガニスタンで発見された。ここには「ギリシア思想とインド思想の或る種の融合」が見て取れる。
 この碑文の翻訳者は、仏教思想とギリシア哲学を認識し理解しながら、直訳を超えて、ピタゴラス派やアリストテレス派の哲学的な語彙を用いた。これは「インド文化圏にまで達し、それどころか仏教思想の代弁者となった、ギリシア哲学の新たな姿だ」。

 10.3 『ミリンダ王の問い』

 バクトリア周辺のギリシア王のミリンダが自身の疑問を解決すべく仏教僧ナーガセーナと対話したことを記録したのが『ミリンダ王の問い』である。この対話篇では「無我説と輪廻思想の調和」が討論されている。しかし、ナーガセーナの説明に対しミリンダ王は無我説を受け入れたものの、依然としてギリシア的な「有我説」の立場から問いを発していた。そのため、ミリンダ王が行為者と責任という観点で無我説と輪廻思想を統一的に理解できたとはいいがたい。
 それでもなお、身体と魂、魂と行為主体などの問題や、輪廻の構造について、「ギリシアの立場から質疑がなされることで、相互の思想の一致点と不一致点が明らかになった」ため、この作品はギリシア思想史にもインド思想史にも属する書物として評価できる。

 以上で要約は終わりです、まとめた結果面白みはどこかに行っているのでここまで読み切れるような物好きな人は本を買ってください。引用ばかりのお粗末なノートですが自分で考えたことはどんどん追記するつもりです。
 読んでくれた人がもしいらしたら、ここまでお付き合いいただきありがとうございました。

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