「死にたい」という感情と小さいから美しい僕たち

今回はちょっと真面目回です。
みなさん、死にたいと思ったことはありますか?僕は今片思いしてるあの子を好きになるまではほとんど毎日この感情に囚われていました。なぜだかわからない漠然としているがしかし確実にそこに存在する憂鬱と希死念慮が僕の心をナイフのように突き立てました。その時でも微かな光はありました。しかし、光があるからこそ暗闇は暗闇だとわかるように、そのせいで僕は少しずつしかし確実に「死」に対する執着は増加していきました。いつしか僕の感情は、「死にたい」という不確定かつ漠然としている感情から、「自殺したい」という直接的な感情へと変化していました。その頃は僕は毎日手首を切っていました。毎日泣きながら布団に入っていました。しかし考えてみてください。恐らくこの感情は今の人生の何かがとてつもなく嫌なせいで起こっている感情だと思います。ではなぜ「辛い現状から解放されたい」という誰もが一度は持つであろう感情が「死にたい」という感情に変化するのでしょうか?今回は僕の意見を書き殴っていこうと思います。

「学校行きたくない」「バイトだるい」このような感情は恐らくほとんどの人が一度は持つと思います。僕も実際あの子に片思いするまではそうでした。そしてその「学校行きたくない」がいつしか僕の中で「この変わり映えのしない退屈で憂鬱な日常に僕の生きる意味はあるのか」という結論に至ってしまいました。そこからは毎日が地獄でした。僕たちを平均化する高等教育、僕がいなくても何不自由なく周り続ける地球など、この世界のありとあらゆるもの一つ一つが僕にとってはまるで凶器かのように錯覚しました。なんのかけがえのない万物が僕の心を突き刺しました。そうして僕はこんな辛い現状から早く逃れたいと思うようになりました。しかしそれを毎日毎日考えていくにつれて、「何を僕が考えようが現状は変わらない。ストレス発散することがあっても本質的には何も変わってないじゃない。」という考えが徐々に強くなって行きました。そしてそれに比例して少しずつ「死にたい」という感情が僕の心の中に現れて行きました。

2 「死にたい」という感情
それから僕は自分の命を早く終わらせたい、早くこの苦しい社会にさよならを告げたいと思うようになりました。今考えるとポジティブにも捉えられる事も、当時はネガティブにしか考えられませんでした。次第に僕は衝動的に手首を切るようになり、手首から滴り落ちる血液が唯一僕の生きている証でした。当時を思い出すといろんな方々にご迷惑をお掛けしていたと思います。本当にすいませんでした。

3 人間は塵のように小さい、だからこそ美しい
そんな絶望的でギリギリの生活を送っていた僕にも、転機が何個か訪れました。一つ目は、山に登って壮大な自然を目にしたことです。そこにただただ漠然と力強く存在している大きい自然。僕は胸がはっとしました。圧倒的な美を目の当たりにした時に人はここまで心を奪われるものなのかと。今まで自分という存在はなんて小さいんだと苦しんでいましたが、そうではなく自分という存在は小さくて当たり前なんだと感じました。大きくなろうとする事自体が恥ずかしくて愚かだと考えるようになりました。二つ目は、初めて音楽のライブに行ったことです。僕は元から音楽バカでしたがライブに行く機会がありませんでした。しかしいざライブに行ってみた最初のアーティストKANDARIVASの一発目のギターの音、その瞬間から僕は心を奪われていました。耳をつん裂くような爆音のギターに心臓が揺れるようなドラム・ベースの音が僕の心を突き刺しました。僕の声はあの100Wのマーシャルのアンプに掻き消されてしまう。でもそれでもいいんだと、そう感じました。僕達はちっぽけで自然みたいに美しくなれないし僕達の声はあのアンプよりも小さい。でもだからこそ美しいんじゃないかと思います。だから、大きくある必要なんてないんです。小さい自分を誇ろうぜ。

最後まで読んで頂きありがとうございました。拙い文章なのをお許しください。
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