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入院9日目の夜に思ったこと

職場で気を失い、ど派手に緊急搬送されて入院して早9日。明日の退院が決まったので、せっかくの経験を記録に残しておきたく、久々にnoteを使ってみる。公開すべき内容ではないかもしれないけれど、人に読んでもらう前提だと文章の整理が進むと思ったからだ。

失神時に下腹部からの出血があったため、消化器科の病棟に入院した。翌日には体調が回復し、やることのない生活が続いた。
仕事も移動もできないこの状況は、転職のきっかけとなった3年前のコロナ下の夏に酷似している。自分の人生に再びこんな状況が訪れるとは思ってもみなかった。

この9日間で、死と人生について深く考えることになった。自分が死にかけたわけではないが、病室での経験がそうさせたのだと思う。

病室内にプライバシーはない。同部屋の方々の体調や治療内容は、看護師や医師との会話から筒抜けだ。4人部屋の同居人のうち、1名は終末期の膀胱癌患者、もう1名は痛み止めを強化され、緩和ケア病院への転院を打診されている患者、最後の1名は元気だったが、手術後の痛みで一晩中唸っていた。これらの状況を目の当たりにし、恐怖と共に現実を痛感した。

「〇〇さんは終末期だから」といった言葉が普通に飛び交うのを、現実の世界で初めて耳にしたため衝撃的だった。終末期の患者もふさぎ込むことなく、普通に会話し、テレビを見て過ごし、転院先にコンビニはあるのか?理髪店はあるのか?WAONは使えるのか?などを気にする様子にも驚かされた。この感情が失礼に当たるのかすら分からなかった。

父と祖父の死は突然で、その過程を経験していなかった。慢性心不全で亡くなった祖母は、自分が小さかったこともあり、苦しむ様子を見たことがなかった。今回の経験を通じて、死の存在が日常の中に溶け込んでいる現実を初めて実感したのかもしれない。

これまで、死の存在を理解しているつもりで、自分の人生は無限に続くかのような幻想の中で過ごしていた。焦点の定まらない将来をよりよくするために必死で勉強したり、働いたり、努力したり(しなかったり)してきたが、今回の経験で時間の有限性に気づかされた。

人は最後には死ぬ。病気になったら苦しい。

このシンプルな原則を理解して生きることが大切だ。
自分だけでなく家族も同じだ。
だからこそ、今どんな選択をすべきかを考えなければならない。

ここ数年、投資や転職で状況を改善してきた。
それまでの10年間はひたすら働き続けてきたが、今はより人生を楽しんでいると思う。経済的にも労働環境的にも改善が進み、定年まで勤め上げれば困窮することはないだろう。会社が傾いても自立できるよう資格取得も進めている。

足りないものは何か?どうやって手に入れるか?不満や無駄は何か?どうやって打開するか?そんな自問自答と行動の先に、より良い人生があると信じて進んできた。

しかし今回、時間と健康が有限であることに気づかされた。

時間が無限にあり、健康であれば、お金や資格は無限に手に入れることができ、人生の可能性はどこまでも広がっていく。でも、時間と健康は有限なんだ。どこまで時間を使って、人生の可能性を広げ続けるべきかを考えてみるべきだと思った。

以下2つを最大化することが、人生の満足感に直結するのではないかと考える。

  1. 裁量権のある時間の総量

  2. その時間から得られる満足感

増える資産や資格に喜びを感じることは事実だが、それを人生の目標や満足感と錯覚してはならない。お金や資格、地位はこれらを手に入れるための道具に過ぎない。これを誤解すると、人生を無駄にしてしまうかもしれない。

子どもたちには、自分が与えられた環境以上のものを提供し、その後は夫婦で人生の満足感の最大化を目指す姿を見せてあげたい。それが子供の人生の満足感を高めることにもつながるのではないか。
嫁さんに共感してもらえるかはわからないが、今度相談してみよう。

また、今回の入院は疑似FIRE体験となった。
貧乏性の私は有り余る時間を満喫する度量がなく、フルFIREは私の満足感を高めないことがわかったのも収穫の一つだ。また、仕事ができるほうではないことを自認はしているが、自分がいなくても周囲のメンバーのフォローがあり十分仕事は回ることを確認できたことも大きな収穫だった。
フォローに労力をかけさせてしまっている事実については反省する。


・・・結局かなりの散文となってしまったが、退院前夜にこんなことを考えていたという記録として残し、もっと思考してみようと思う。

そんな夜の駄文でした。

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