見出し画像

第四話

「今年は何かある。」
 永人がそう確信したのは里緒ちゃんから返信があった次の日のことだ。
 高校生の頃追いかけていた地元の先輩のバンドは今もまだ都内で活躍している。あの頃何度もライブに行き、サインを貰ったりしていた憧れのバンド。そのボーカルギターを担当する修(おさむ)さんと、同じ大学に通う友人が飲むことになり「良かったら来ないか?」と誘ってくれたのだ。
「もちろん行く!」
 すぐ返事をして駆け足で待ち合わせの居酒屋に向かう。

 そこで待っていたのは紛れもなく憧れの存在であり、フワフワしたまま挨拶と乾杯をして緊張をほぐす為に飲む。
 最初は全く喋れず、二人の会話を聞きながら運ばれてくるビールを次々に胃袋に流し込んでいた。
 酒も回り出しなんとか会話に入っていくことに成功したのだが、何度もライブでサインを貰ったことを伝え、修さんが自分の顔を覚えていないことに気がつくとあからさまに落ち込み、また少しの間ビールを淡々と消化するだけの人形になっていた。
 ハイペースで飲んだせいかだいぶ酔いが深くなり、ここでやっと会話に入っていくことができた。
 初対面に近い修さんに酔っぱらった永人は何故か里緒ちゃんの話をしていた。本当は誰かに聞いて欲しかったのだろう。今する話ではないと途中で感じたが、酒の勢いと興奮で溢れ出した言葉はとめどなく放たれていく。
 必死に訴える姿が面白かったのか変な奴と思われたのか、段々と修さんからいじられるようになり、どの辺りの反応がヒットしたのか定かではないが「お前、面白い奴だな。」とまで言ってくれるようになった。
 舞い上がり調子に乗った永人は面白がられることに全神経を集中させたのだが、自ら狙った笑いはことごとくウケていなかった。
 面白さはさておき、友人は酒があまり強くなかった為にガンガン飲みまくる永人に修さんは興味を持ってくれた様子だ。意外にも後半盛り上がった流れで、店から一番近かった永人のアパートへと皆で遊びに行くことになった。
 半年前は大型の「ゴッキラン」を営む魔界だったあの部屋に憧れの人が来る。「人生は、何が起こるか見当もつかない」とこのとき身をもって体感したのだった。

 酒を買いアパートに着くと、早速部屋に置いてあったギターを使い修さんが遊びだした。目の前で生演奏をみれるという贅沢な時間を楽しんでいると、「お前も弾いてみろよ。」とふいにギターを手渡される。
 突然のことで酔いも吹っ飛んだが、永人は恥を覚悟でデタラメにかき鳴らしていた。もちろん酷い演奏だったが、自棄糞な姿を面白がってくれたのか、帰るときには番号を交換してまた飲む約束をしていた。
 単純ではあるが、修さんがいた部屋と弾いていた自分のギターは今までよりいいものに見える。

 数日後すぐに連絡があり、週末には飲もうという話になった。週末はバイトが入っていたのだが、サボって飲みに行くことにした。急な誘いだったのでバイト先のカレンダーには「ばあちゃん危篤」と書いて休みをとった。
 数日も後の予定に危篤とはおかしいかと思ったが、なんとなくその理由で休みがとれた。
 最低な手法ではあるが、これは親父から教わった数少ないことの一つであり、何かをサボりたい場合「ばあちゃんが亡くなった。」という理由だと一度しか使えないが、「ばあちゃんが危篤だ。」と言えば何度でも使えるうえに「無事に峠を越えました!ありがとうございました!」と報告すれば、「おお!ばあちゃん、無事で良かったな!」などと言ってもらえる二段構えになっている。
 親父との仲は良くなかったけれど、この方法論と小学生の頃大怪我して泣いていた際に言われた「おい。泣くな。怪我は男の勲章だ。」という一言だけが記憶にしっかり残っていた。
 母親から親父はオフロードバイクの大会に出ては怪我をしまくり、事故も多く入院を繰り返し、飲酒運転だったのだろうが車で土手を舞い上がり田んぼの中に逆さまに落ちてICUにも入ったと聞かされていた。それも、2回もだ。そんな親父の言葉にはよくわからない説得力があったのだろう。こんな所で役に立つとは思ってもみなかったのだが「人生は、誠に不思議である。」

 修さんの住む田無まではかなり距離があったが、楽しみが勝っていたのであまり気にはならなかった。
 憧れの人と二人きりで飲むのは緊張もしたが、気さくな修さんに救われていた。特に「お前、バンドやれよ!」と言われたことにはひっくりかえりそうなくらい喜んだ。
 憧れの人からわざわざ呼び出され、バンドやれよと言われたということはつまり「見込みがあるってことか!」と浮かれ、秒でバンドを始めることを決意した。
 その頃の永人には憧れのアーティストなんて修さんぐらいなもので、小学6年か中学1年の時に買った長渕剛のアルバムと中島みゆきのアルバムを未だに聞いていたし、人よりも音楽は聴かなかった方だと思っているのだが、音楽三昧の生活をしている修さんにとってはその真っ白な感じが新鮮に映ったのかもしれないと今になって思う。
 帰ってからすぐに音楽の専門学校に通っている高校時代のバンドメンバーに連絡し、二人で残りのメンバーを探し始めた。

 高校ではサッカー部に入り当然3年間続けるつもりだったのだが、大熊の事件などが重なり部活を辞めざるおえなくなった永人は、モテなかった小中学生の自分を払拭する為にバンドを組んでいた。
 そのきっかけとなったのは、他校に通う同じ中学出身の友人が「近くのライブハウスでライブするから来てくれよ!」と誘ってくれたことだ。
 帰宅部になり、当時では珍しい所謂「オタク」だった永人は完全に引きこもり、パソコンに張り付いて簡易的なゲームのサイトで知り合った人達とチャットやメールのやり取りをするだけの毎日を過ごしていた。
 そんな永人の目には、やりたいことを見つけて活動している友人の姿がとても格好良く映ったのだ。
 ライブから帰宅してすぐ「ギターを始めたいんだけど」と母親に相談すると、「私が昔使ってたアコースティックギターがあるかも」と言い、数日後実家の倉庫から探し出してきてくれた。
 ネックの部分に動物の人形がぶら下がっていたそのギターは男として受け入れがたかったが、「当時の流行だったのよ。」と嬉しそうに話す母親に悪い気がしてそのまま付けておくことにした。
 ギターと一緒に出てきたという長渕剛のスコアブックで練習を開始したが、なかなか綺麗に出ない音、指の痛み、慣れない楽譜、一曲全てなどすぐには弾けるようになるはずもなく光の速さで飽きてしまった。
 そんな一日坊主になっていることを知らず「ギター始めるって言ってたけどどうなった?」とライブに誘ってくれた友人が連絡をくれた。
「興味あるなら作曲している先輩がいるから紹介するよ。」と言い、急遽会わせて貰えることになった。
 しかし、興味こそあったが、作曲なんて一般人が出来るものとは考えてもみず、テレビの音楽番組に出ている人達だけに与えられた「才能」だと思っていた永人には、そんな人間がこんな近くにいることが半信半疑でもあった。が、両親がペンションを経営している先輩の家にはプレイルームという部屋があり、ピアノや何本ものギターが置いてある。部屋を見ただけですぐ、プロミュージシャンの家に遊びに来た感覚になれた。
 気さくで大らかな先輩は初対面の永人にも優しくしてくれて、「今、丁度作りたてのCDがあるからあげるよ」とオリジナル曲が十曲程入ったCDをくれた。
 加えて、残った時間を使い作曲やレコーディングの仕方も簡単に教えてくれたのだ。
 現代のようにパソコンで手軽に録音できる環境もない中、ドラム、ベース、ギター、全部自分一人で録っていく。初めて目にする「作曲している人間の姿」は驚愕の一言だった。
 ギターを弾きながら咥えたタバコが灰になって床の上に落ちる。そんなことを微塵も気にせずに演奏している先輩の姿が今でも鮮明に記憶に残っている。
 先輩の曲はメロディも好きだったが、何よりも同世代が書いた歌詞だったことも影響しているのか、店で売っているCDより格段に共感できる良い曲に聞こえた。
 数週間は興奮した状態のまま貰ったアルバムだけを聞き続けていた。
 そして、永人は「一般人でも曲を作ることができるなら、自分で曲を作ってみたい」と強く思うようにもなっていた。

 断念していたギターを取り出し、練習をほとんどしなくても簡単に弾けそうな3コードの曲を探し、覚えた三つのコードを弾きながら思いつくままに鼻歌を歌う。曲を作っているなど口が裂けても言えないクオリティ、チューニングさえちゃんとできていないため音程も酷い。練習も1、2曲しかしておらず、トータルで数時間しか費やしていないド素人が不協和音の中で高らかに鼻歌を歌い、それが部屋からもれて家中に流れている。
 家族からすればこれはただの「騒音」であり、不気味な日々が数日間続いた。

「メロディーはこれで完成だ!」
 満足げに部屋から出てきた彼を家族はどう思っていたのだろう。
 とにかくこの日、永人一家を襲っていた悪夢の数日間はようやく終わりを告げた。それと同時に、彼は思い切って歌詞も書いてみようと決意する。ここから数日間はノートと向き合っていたため、今まで不協和音が鳴り響いていた部屋からは物音が一切しなくなり、その部屋をそっと覗けば机に真剣に向きあう永人の後ろ姿がみえるという、またしても不気味な日々が家族を襲った。

 ギターと歌のみではあるが、試行錯誤の末に完成した曲はいい悪いを抜きにしてこれまで感じたことの無い達成感を与えてくれた。
「音符も読めない俺でも曲が作れた!」
 もともと単純で思い込みの激しい永人は「曲を作るのって案外簡単かもしれない。」そんな自己満足の渦にどっぷり飲みこまれ、勢いでメンバーを探してバンドまでも結成したのだった。
 実に単純な思考回路だが今となっては羨ましくもある。

 しかし、そもそもが「ただ曲を作りたい」という好奇心のみで動き出したため、ドラムやベースに関しての知識など一切ない。他のメンバーも同様作曲は始めてで、上手くはいかなかった。
 結局遊ぶために集まるだけの「集団」となり、バンド活動は続かず仲良しグループが完成しただけだった。
 それでも得たものは多く、CDをくれた先輩はバンドを組み作曲に挑戦したことを素直に褒めてくれて、永人の作った曲にドラムやベースを打ち込み簡易的なレコーディングも経験させてくれた。
 ライブハウスにも頻繁に通うようになり、数回だがライブも経験できた。他校の音楽仲間と出会いコミュ二ティも広がっていく。その中には同じように作曲している同年代のバンドが沢山いて、それぞれがデモCDを販売していることが何より永人を驚かせた。中でも修さんのバンドは頭一つ抜けていて、手売りのCD一〇〇〇枚があっという間に売り切れていたのだった。
「皆、当たり前のように作曲してる。」一瞬でも自分が特別に感じたことを恥じた。

 ライブは観に行くことがメインになった永人に、突然転機が訪れる。
 通っていたライブハウスに出入りする中に、色々な意味で異彩を放つバンドがあった。そのバンドは地元の高校界隈、特に男共の中では誰もが憧れていたと言っていいほど、可愛い女の子が多いうえにオプションで制服まで可愛いと評判の高校があり、そこに通う女子生徒5人で組まれたガールズバンドだ。
 彼女達もオリジナル曲を作って活動していたし、5人ともギャルだったのですごく華やかだった。年頃の男共には堪らないバンドである。曲もキャッチーで凄く良かった。
 当然のように人気もあったのだが、何かの理由でボーカルとギターがバンドを抜けることになったらしい。
 女性と話すのが得意ではなかった永人はやめていくメンバーとも残りのメンバーともあまり話したことはなかったが、同じ場所に通う仲間が減るのは寂しく感じていた。
 そして永人のバンドも同時期に活動をやめることになり、一人あてもなくライブハウスに通う日々が続いていたのだった。

 バンドも組んでいないのにライブハウスに通っていたのは、店長が簡易的なボイストレーニングを受けさせてくれたことと、父親との関係が最悪で家に帰るのが嫌だったためだ。
 最終的には家出し、夏休みの一ヶ月近くの期間をライブハウスに住まわせて貰っていた。居候となった永人は次第に通ってくる皆と打ち解けていき、ガールズバンドの女の子達ともよく話すようになっていた。
 何かの拍子で数組のバンドのメンバーが集まりカラオケに行くことになったのだが、そこには例のガールズバンドでドラムを叩いていた明奈も来ていたのだった。彼女は作曲も担当しているリーダー的な存在だ。
 カラオケ自体は初対面の人も多く緊張もしていたが、なんとか最後まで楽しんで終わることができた。
 その帰り道、永人は明奈から「ウチのバンドでボーカルやってみない?」と唐突に聞かれたのだ。女の子の中に入ることには動揺もしたが、明奈が作る曲は温かく才能に溢れていると感じていたし、何より今日のメンバーの歌声を聴いたうえで自分を誘ってくれたのが嬉しかった。自身で作った曲は認めた人以外にはあまり歌わせたくないものだったはずだ。
 だからこそ尚更誘ってくれた気持ちが嬉しくて「加入したい!」とその場で伝え、後日すぐにスタジオに入った。
 最初は苦手な女の子3人の中に自分一人。加えて皆可愛い。制服もいい。そこに男一人。年頃の永人は練習に集中できなかったのだが、すばらしい曲と真剣な3人の姿にどんどん引き込まれ、気づけば意識することなく皆と向き合って「バンド」をしていた。

 練習を重ね、初めてしっかりとしたレコーディングに挑戦して自分達のデモCDを作った。フリーペーパーの取材も受けたりといい経験ができたと思う。皆のテンションも上がっていき、「このメンバーで有名になりたい」なんて話もたまには出ていた。
 バンドの空気も良く、続けていくうちにプライベートでもほとんどの時間を一緒に過ごすようになった。ライブハウスの近所にある喫茶店がいつものミーティング場所で、毎回数時間は居座っていた。
 メンバーの仲はとても良かったのだが、それを見ていたお客さんなのかバンドの関係者かはわからない複数人から、永人に向けたアンチの意見が日ごとに増えていった。
 簡易的なホームページの制作が流行り永人達のバンドにもホームページがあったのだが、ページ内のBBS(掲示板)が特に酷かった。
「女と仲良くするためだけにやってる音楽なんてやめろ。」
「下心でバンドやるな。」
「歌ヘタクソ、早くやめろ。」
 書き込まれるのはほぼ永人に対するアンチの声だ。
 かなり落ち込んでいたが、真剣に音楽を続けていけばやる気は伝わると信じていたし、なによりメンバーも皆でフォローしてくれた。永人自身、やっと見つけた大切な「居場所」を他人にとやかく言われたくもなかった。

 無事にアンチの声も収まってきた頃には高校3年の半分が終わろうとしていた。ギターとベースは就職を選ぶことになり、明奈は専門学校、永人は大学へ進むという進路の違いからバンドは解散となった。
 作曲できたときに一度は信じた「才能」は活動をしていく中で凡人以下だと気づき、それ以降全く自分を信じていなかった永人は才能に溢れる明奈と離れたことで「音楽は趣味でやれればいいかな」と思うようになり、大学では現在の音楽サークルに入ってそれなりに楽しくやっていたのだ。
 音楽の専門学生というだけなのだが、妄想で作り出した明奈はもう普通に会話することすらも申し訳ないと思う程の人間になっていて、もはや有名人のような感覚に近かった。少し緊張しながらもバンドを始めたい一心で久しぶりに連絡したのだ。

 相変わらずの調子で電話に出た明奈に安心した永人は、素直に「もう一度、一緒にバンドをやりたい」と伝え、明菜はすぐに「やろう!」と返事をくれた。
 きっと今彼女は沢山の才能と出会っている最中で、自分から切り出したにも関わらず「本当に俺でいいのか?」とも思ったのだが、あまりにも躊躇なく返事をくれたことと修さんから貰った言葉の魔法に背中を押され、「なんだか俺ならこの先大きなことが成し遂げられるじゃないか?」とも思えてきた。真に単細胞である。
 それから数週間程度の間に、明奈と同じ専門学校に通うあやこがギターとしてメンバーになり、永人と同じ高校に通っていたベースの恭二に声をかけていた。地元で就職していた恭二だが、これから始めるバンドの話をすると仕事をやめて上京してきてくれるとのことだ。
 思っていたよりもすんなりとメンバーが集まり、1ヶ月足らずでバンドを結成できた。
「天が、俺にバンドをやれと言っている。」
 途方もない勘違いのもと、永人のバンドと生活が大きく動き出したのである。

 高校時代のバンドでは明奈が曲作りをしていたが、永人も趣味で作曲を続けていたので二人で協力しながら曲作りを始めた。曲があの頃より早いペースで完成していく。
 今聴けば「完成」などしてはおらず恥ずかしくなるくらいの曲ばかりだったが、メンバーと「都内のスタジオ」に入っているだけでミュージシャンを気取れていた。専門学生二人の意見を聞き作品を作るのは高校時代より遥かにハイレベルなことは確かで、そんな環境の中試行錯誤するのは純粋に楽しかった。
 こうしてバンドは順調に動きだしたのだが永人には明確な目標や夢が特に無く、当面は修さんに認めて貰うことが唯一の目標だった。「修さんに認めて貰うことができればそのまま有名になれる気がする。」そんな風に漠然と思っていたのだと思う。
 恭二は上京を決めた際に
「俺、昔付き合っていた彼女に貰ったネックレスを未だに大切に取ってあってさ、もしこのバンドが売れてテレビ番組に出れるようになったらそれを着けて出るんだ。その後俺がもう一度連絡したときに『恭二、まだ私のこと想ってくれてるんだ!』って喜んでくれたらそれが今一番の夢だな。これから一緒にがんばろう!」そう永人に話してくれた。
 ここまで明確な夢を持っている恭二は頼もしくみえたし、まっすぐに夢を語ってくれた恭二に対し「自分も明確な夢を見つけないと申し訳ないな」と考えるきっかけになった。
 この話を聞いた後、後付けで作り上げた永人の「夢」とは高校時代所属していたサッカー部の皆への「謝罪」だ。その夢自体が恭二の元カノに対する想いにだいぶ引っ張られていることにはもちろん気づいていない。

 大熊事件から約1ヶ月後に起きた停学騒動でサッカー部に危うく「大会出場停止処分」という大迷惑を掛けそうになり、色々と周りにバレるギリギリのところで部活をやめることに成功した過去。一歩間違えていたら、と未だに罪悪感が染み付いていたのだ。
 努力を重ねた同期のサッカー部員は、3年に上がった年全国大会に出場するまでのチームになっていた。そのことにずっと負い目を感じていた永人は、「CDが全国発売できたらようやく皆と同じ目線で話が出来るかな?」と考え、まずは遅れた全国デビューを目指し、それが叶ったらサッカー部の皆に謝罪に行くことを「夢」として設定した。
 はっきりとした夢が決まったのはいいが、いくら曲がスムーズにできても技術は簡単には上達しない。代わりに精神論や夢の果てのことばかりが妄想の中で大きく育っていく。技術の伴わない精神論を振りかざして動く永人のバンド方針はメンバーにストレスを与え、尚かつ自分は肺気胸になり入院してしまい半年程でバンドは停滞感に包まれた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?