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軟膏

 夏は嫌いです。
 古き夏を思い出すならば真っ先に、母が軟膏を私の腕に塗りたくる様子を思い出します。母のやさしいやさしい手は、私の白くかさつくところを真っ新に綺麗にして、赤くぷくりと炎症するところを若干刺激して、そして白波のような艶をはしらせます。あの軟膏のなんともいえない不愉快さ、それにうるさい蝉の声や、微妙に回転して誰もいないカーテンを揺らす、気の利かぬ扇風機が、それとあいまって、私はますます、腹が立つのです。やけになった私は、その鈍重な扇風機の頭をガツと掴んで、醜く回転しようとするそれを止め、ガチガチと呻き声をあげてそれでも諦めぬ扇風機を睨みます。するとそこで怒号が聞こえるんです。
「壊れるでしょう!」
 これには、蝉も驚いた。
 母がちょいと扇風機をいじると、その扇風機はえらい利口になって、自分の方へ首を傾げたまま、すこしも動かない。私は軟膏の粘りっこい感じをどうかしたくて、大変もどかしい思いでしたので、その腕をぬるい風に晒していますと、またもや怒号が聞こえます。
「塗った意味がなくなるでしょう!」
 母は忙しない忙しない手で、私の腕を揉みしだきます。その手には、たくさんの軟膏が。
 扇風機は、母の乱れた後れ毛を、ゆたりゆたりと揺らしている。

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夏の思い出

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