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無味無臭(短編小説)

ある大手文房具メーカー社長は呟く
「最近味がしなくなったんだよ、色々と」
部長はニヤリとなったが笑いを殺して、まるでレモンを噛んだ後のような顔をして、その社長に同情の同情による挨拶をかけた。
「大丈夫ですか?社長。最近は、あのウィルスがあるから、やっぱり心配ですよ。無理をしないのが一番です」
「ああ、それはそうなのだが。私が言っているのは、そうじゃない」
部長ははてなとなって、それはどういうことです?と言った。
「私は昔は貧乏であって、これは君も知っているだろう。だから、一粒の米ですら、一滴のラムネですら、一香りの肉の匂いですら、当時の自分は大事にしていてまたその大切さも分かっていたのだが。ましてや金なんてものは、五百円を二キロ純金延べ棒のように崇めていたものだが。こう成り上がってしまっては、淋しいものなんだ。だから私の言う味がしなくなったは、つまり欲が、明日の為の欲が無くなってしまったのだよ」
部長はこれはチャンスかもしれないとも思い外してしまって、つまり?と言ってしまった。
しかし、その社長は部長の言うことなどまるっきり無視して、
「昨日の欲がない者は、明日の欲を求める。明日の欲がない者は、昨日の欲を求める。つまり、私は明日の○○社の社長と共に食べる高級料理店のステーキよりも、少年時代のあの、一粒の米を食べたいわけなのだよ」
とか細く呟いたのだった。

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