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「金魚屋の徒然なる日常 御縁叶冬の邂逅」 第九話 母の虚言

 一人暮らしをする際に、母からいくつかの条件を出された。どれも、俺を遠隔操作するためのルールだった。
一つ、母からの電話は必ず出ること。
一つ、母からのメッセージには一時間以内に返信すること。
一つ、一日の終わりにその日の行動を、一時間単位で報告すること。
一つ、自宅では必ずリモートで部屋の様子を映すこと。
一つ、友達ができたら報告すること。母が相応しくないと判断したら交流をやめること。
一つ、サークル活動は不可。
一つ、他者との旅行は、学校行事を除いて不可。
一つ、アルバイトは不可。無断でアルバイトをした場合は仕送りを停止する。
 まず最初に感じたのは、嫌悪だった。空飛ぶ金魚が視える俺は、たしかに変だ。普通ではない。
 だが母の行動も常軌を逸している。高校までは実家で生活していたが、近所で噂好きの奥様方からは、よく『お母さんやりすぎよね』『早く一人暮らししたほうがいいわよ』と言われた。
 世間で異常だと判断されるのは、俺ではなく母だった。
 大学に入り一人暮らしを始めると、母の過干渉が病的だと知った。母の連絡に逐一応答していたら、歯に衣着せぬ男子生徒が『お前の母親、異常じゃね?』とサラリと言った。
 それまでは『心配性なんだね』と濁していた生徒たちも、次々に『子どもを所有物と思ってる典型』『子離れすべき』と意見を変え、最終的には『毒親だな』と締めくくられた。
 俺は、だよな、と思った。母を侮辱されたと不快に想うこともなく、それどころか、歯に衣着せぬ男子生徒に好感を持った。歯に衣着せぬ男子生徒は、鈴木隆志といった。
 それ以来、俺は隆志と仲良くなった。十年越しの俺の苦悩を『無視すりゃいいんだよ。どうせ勝手にくっついてくるんだから』と言い、母からの通知はミュート、サークルに入って『入ってない』と虚偽の報告、バイトをしても『やってない』と虚偽の報告、あまりにもうるさければ寝る前に『おやすみ』とだけ返信――など、常に様々な解決策を提示してくれる。
 最初は不安に思ったが、母への返信をまばらにしても、母の行動は変わらなかった。ただメッセージに『どうして電話にでないの』という文章が増えただけだ。
 一人の時間と正直者の友人ができたことで、俺は人間としての自由を知った。同時に、母が酷く愚かに感じた。
 だから、我ながら意外だった。母の体調不良を心配する感情がまだあったらしい。
 東京から実家の福井までは、片道だけで一万五千円かかる。『お前は異常だから行動を慎め』と言われるために使うには、金額が大きすぎた。一年生のころ、母に内緒で始めたカフェのアルバイトで貯めた数万円の中から、惜しげもなく四万円引き出して新幹線に乗る。
 乗車は十七時すぎだったから、到着は二十時をすぎる。寝てしまえばすぐなのに、眠ることもできない。金魚になる夢も恐ろしいが、それ以上に心がざわついていた。救いは、一緒に来てくれた店長が冷静だったことだ。
 店長は、ぽんっと俺の手を叩いてくれて、包み込むような微笑みを向けてくれる。そして、その微笑みから発せられた言葉は、まったく逆の言葉だった。
「心配するだけ無駄だよ。倒れたっていうのは、アキちゃんを連れ戻す嘘だから」
「……え?」
 店長は、黒猫喫茶から持ってきたらしい、黒猫のクッキーをバリンと食べた。どう、と俺にも差し出してくれて、虚を突かれて呆けたままクッキーを受け取る。
「あの、断定はできないと思うんですけど」
「え~。だって、普通電話してこないかい? 今までは通話も多いのに、なぜこんな重要事項だけメッセージですますんだ。メッセージ送信してきた前後に、チャット画面には通話してきた記録がなかったよ」
「ああ、そういやそうですね。打ち間違いするほど具合悪いんだと思ったんですけど」
「それは確実に演技だよ。まず、チャットは『文字入力』『送信』という二つの作業が発生する。文字列のキーとは離れた場所にある『送信』ボタンを押さなきゃいけないんだ。つまり、誤タップした文字を慌てて送信する場合、複数の文章ではなく、文字を間違えた一文が届くはずなんだ」
「……そうですよね。はい。俺も誤タップで意味不明な文章を送ったことがあります」
「そう。意味不明になるのが誤タップだ。でも『おかあさん』『たおれ』と、正しい単語を二度も送信してる。『おかあさん』も『たおれ』も誤タップじゃない。『途中で送信しよう』としない限り、あの打ち間違いは発生しないよ」
 説明を聞きながら、脳内でスマートフォンのキーボードを思い出す。どんなレイアウトにしていても、誤タップによる誤送信とは思えない。
「ちなみに、お父上から連絡はあったかい?」
「いいえ。とくには。なんでですか?」
「本当に緊急事態なら、お父上からも連絡はあるはずだ。だってアキちゃんとお母上は不仲だ。なら、間を取り持たなきゃいけない、妻からの連絡じゃ信じないかもしれない、俺が連絡しなければ――と考えるのが普通だよね」
「あ、そうですよね。マンションの契約とか、重要なことはすぐ連絡くれます」
「ならお父上にとって、連絡するほどのことは発生していない、もしくは知らない。お母上の虚言なら、お父上に言わないだろうからね」
 父は石動家でもっとも『普通』の人だ。母には過剰だと諫め、俺には呆れている。そんな普通の父なら、母が倒れたことを連絡をするはずだ。それこそ、戻ってこいと言うのが一般的な対応に思える。普通の対応をしないのは、異常が起きていないからだ。
「は⁉ そうなら四万円を返して欲しいんですが! 学生には痛手なんですよ!」
「そうならね。けど、本当の可能性もあるから、怒るのはご本人から『嘘だ』という証言を得てからにしよう。時にアキちゃん、藤堂ホールディングスから連絡はあったかい?」
「また話跳びますね。たしかキャリアセンターを通じて連絡があるはずで……」
 キャリアセンターからの通知は、マイページに登録したメールで届く。メールボックスを開いて確認すると、新着メールがあった。件名は『スカウトが届きました』だ。開封すると、できるだけすぐに面接をしたい、都合がいいなら今日明日でもいい、とある。
「面接しませんかってきてました。急いでるみたいですけど、どうします?」
「ぜひ一度お会いしたいです、候補日は追ってご連絡します、と返しておくれ。なあに、別に就職希望を出したわけじゃない。あちらさんが勝手に会いたがってるだけなんだから、最終的には断ればいい」
「そういうものですか。まあ就活の練習にはいいですね」
 言われるがままに、俺は『ぜひ一度お会いしたいです。候補日は追ってご連絡します』と返した。
 そうこうしているうちに福井へ到着し、疑心暗鬼のまま自宅へ向かった。
「僕は少し離れて待っているよ。もしお母上が病気だったらそのまま家へ入って、嘘だったら僕を呼んでおくれ。せっかくだしちょいと話を聞きたい」
「わかりました。元気な気はしますけどね」
 店長は玄関から数歩離れて、俺は緊張しながらインターホンを押し、扉を叩いた。
「秋葉です。ただいま。誰かいる?」
 倒れたならば母は病院か、布団で横になっているだろう。父もこの時間なら仕事から帰っているはずだ。
 十秒ほどして、「はいはい」と、緊急事態らしからぬのんびり調子で玄関扉が開かれる。出てきたのは父で、俺を見たらぎょっと目を丸くした。息子の帰宅を知らないあたり、店長の予想は当たっているのかもしれない。
「どうした急に。珍しいな。大学は? なにかあったのか」
「ちょっとね。母さんは? 具合どうなの?」
「ネットでドラマ見てるよ。韓国の、なんとかいう。具合ってなんだ?」
 母は韓国ドラマが好きなようだった。「たくさん見たいから動画配信サービスに登録してほしいの」と頼まれたことがある。ウイルス感染症が流行して、自宅時間が増えたので暇つぶしだ。
 ――それを今、見てるのか。
 では父が出迎えてくれたのは、まさかとは思うが、一時停止するのが嫌で代わりに行くよう指示したのだろうか。
 店長の推理が的中していたと察し、頭を抱えていると、番組に区切りがあったのであろう母が笑顔で走って出てきてしまった。この期に及んで笑顔とはどんな性根か。
「アキちゃん! よかった! 帰ってきてくれたのね!」
「……あのさ。倒れたんじゃないの? だから帰ってきたんだよ、四万円もおろして」
「葉子。お前まさか、病気だとでも嘘ついたのか?」
「だって! そうでもしなきゃ、アキちゃん帰ってきてくれないんだもの!」
 詐欺師に異常者扱いされるなんて腹が立つ。顔を見るのも嫌で、母へ背を向け店長に視線を向け手招きをした。店長はふわりと柔らかく微笑みながら俺の元へやってくる。
 家族が争っている状況で、見知らぬ男が登場したことに両親は不思議そうな顔をした。
「突然申し訳ありません。秋葉くんと外出していたんですが、急遽自宅に帰らないといけないと聞いて、ここまで遅らせていただきました」
「はあ。秋葉、こちらは……?」
「この人は」
 あ、とここにきて気付いた。誰だと説明すればいいのだろう。金魚を調べてる人ですなんて、騒がれるだけだから言えない。友達というには年齢が離れている。年齢的には教師とするのが妥当だが、特定の生徒と行動を共にするのは違和感がある。
 咄嗟に言い訳は思いつかなくて焦っていると、店長はきらきらと輝く笑顔をみせた。
「御挨拶が遅れて申し訳ございません。私はこういう者です」
 店長は胸ポケットから名刺ケースを取り出した。名刺といえば、勤め先が書いてある。店長の仕事といえば、金魚屋だ。まさか金魚屋の名刺なんてものがあるとは思ってもいなかった。今ここで金魚屋の話をするなんてとんでもない。俺はやめさせようと、店長に手を伸ばす。
「店長! ちょっと待っ――」
「これは……」
 俺が止めるより先に、両親が名刺を見てしまった。どうやって誤魔化そうか悩んでいると、両親は目を丸くして店長の肩書を読み上げた。
「「藤堂不動産ホールディングス株式会社代表取締役社長?」」
「……はい?」
 それは、店長に指示されてブックマークし、面接を請けたばかりの企業だった。
 店長はにこやかに微笑んでいた。黙っていれば誰が見ても美しく、凛とした佇まいと優雅なお辞儀は上品な育ちであることが窺える。
 両親は正体不明の店長に見惚れ、俺の頭は真っ白になっていた。


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