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まちとねこ

 まちに、ねこが出るというのであった。
 最初に出たのはとある古ビルの地下の薄暗い喫茶店であった。マスターがコーヒー用のお湯を沸かした、細くて、白鳥の首のように優美な曲線を描いたやかんの注ぎ口から音もなく出た。ねこのからだはねこという文字を描いてくねるかと思われたほどそれはまったくねこらしい格好であったため、やかんからねこ、というちぐはぐな組み合わせであったにも関わらず、口ひげを生やした初老のマスターは、
「ねこかっ」
 即座にそう、くちばしったものであった。
白磁のカップに落ちたねこは反り返った縁から顔と前脚と後脚の一本と尻尾とをはみ出させて「みゃあ」とでも鳴いたのだったか、そのとき遠くから地鳴りのような音がとどろいて通用口の扉がバタン! と乱暴に開かれたかと思うと、その狭い入り口から、幾千、万とも知れないねこが、店になだれこんできたのである。
マスターと、一人だけ居合わせたお客―痩せた、不健康そうな顔色をした青年だった―は、息つく間もなくねこの渦にのみこまれた。のたくりのたくり、ごうごうとねこは流れた。床から天井に至る空間は寸分の隙間もなくねこに埋め尽くされた。それなのにどうしたことであろう、二人は圧迫されるでも押し流されるでもなく、呼吸にさえ支障を感じなかったというのは。あるなまぬるい流れが皮膚のうえを滑ってゆく―そんなおぼろな感覚だけを、ねこは残して去ったのである。
以来、ねこはまちのあらゆる場所で出た。
水道の蛇口から、郵便ポストの投函口から、歯医者の玄関に並べられたスリッパの中から、布団の中に持ちこんだ本のページの間から。開店前のパン屋の窯の中からも出たし、誰かがむいたバナナの皮の中からも出た。どの場合もねこは何の前触れもなく頓狂な場所から出たのであったが、居合わせたひとにはそれがねこだということがすぐに飲み込めた。それほどまでに、ねこはいかにもねこ然としたありさまをしていたのである。
このようにしてねこは出た。ねこが出たあとの空間は一見して出る前と何の変化も認められなかった。物も壊れなかったし怪我人も出なかった。つまり出て、どうということもないわけで、出るものは出るのだから出るにまかせておけば良いというのはだから一つの理屈ではあった。けれど私が不思議に思うのは、まちの人間がこうして出るねこを、ふだんまるで口の端にものぼらせないことだった。
たとえばねこは宿屋の風呂場の蛇口からも、パン屋の窯からも、喫茶店のやかんからも出たわけで、客商売にとっては良くない噂がたちそうなものだし、現場が飲食店ともなれば、保健所が放っておくはずもない。それだのに、宿の女将は騒ぎ立てる旅客の話に
「ああ、そらお客さん、ねこやがいね」
と、慌てるどころかむしろそっけなく答えたのみであったし、ねこが出た店に保健所の職員が出向したという話はいっさい聞かれなかった。
私はといえば、止まり木に落ち着けた腰を常連客がなかなかあげようとしない、古くからあるいくつかのそうした類の喫茶店にわざわざ出向いて、聞き耳をたてていたのである。
どの客も、店主も、物憂そうに、あるいはこれ以上ない大事だとでも言わんばかりにお天気の話をするばかりで、ねこのねの字も口にしない。実際、どうしてこうもお天気の話ばかりするのだろうと、かえってそのことをいぶかりたくなるほどであった。
いぶかる。事実、私はうたがいを持ち始めていた。
ここのひとたちは、口裏を合わせて、ねこをないものにしようとしているのではないか―黙殺、でなければ、実はまちはもうねこに乗っ取られていて、人間の言動が、操られているのではないか。
そのどちらの考えも私をゾッとさせた。いずれにしてもまちの人間が何かに憑かれていることはうたがえないような気がしたからだ。
私はよそ者である。よそ者の目からみて、この古いまちの人間は一種自覚に欠けている。何の自覚か。それは自分らの住んでいるまちが、意識を持ち過ぎるようになってひさしい、ということへの自覚である―散歩の途中、両側から軒が押し迫るほどに狭い真昼の道で、私は何度、持ち主の知れない溜め息を耳にしたことであろう―そのことにまちのほうがずっと前に気付いている。ねこは、そこにつけこんだのだろうか。
市場のそばのコーヒー屋は低いざわめきに満ちている。入り口に近いカウンター席に陣取って、もう二時間近く煙草をふかしている爺さん。その右隣で、とうに飲み干したアイスコーヒーのグラスの氷をストローでじゅうじゅう吸い続けている六十代くらいの女。私の隣のテーブル席でにぎにぎしくおしゃべりしているおばさん達のグループ。奥のほうのカウンター席に並んで座った中年のカップル。その後ろのテーブルの若い男女。
聞こえてくるのはみんなお天気の話ばかりで、はっきりしない声は低くくぐもったざわめきになる。ねこは日陰に潜み、まちは耳をそばだてている。黄色い目。かそけき溜め息。
「なんだかねこねこしているわい」
つい、魔が差したのだ。
それはほんとうに小さな小さな、自分でも聞こえるかどうかというほどのささやきであったのに、呟いた瞬間、ざわめきとお天気の話がパタリと落ちた。
鳴きしきる蝉の声。たしかに梅雨が明けてからこっち、雨は一滴も降っていない。

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