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娘が教えてくれること

不登校の娘を見ていると、娘って私に似てるな〜と思わされる。

娘の困りごと↓
心配がたくさんあること、
他の人と何かをするのが嫌なこと。

私も昔からとても心配が多かった。
こんなんで大人になれるのかなぁと小1の時に思っていた事を思い出す。

他の人と何かをするのが嫌なのも、大人になると付き合う人をある程度選べる機会が増えるので目立たなくなるけれど、学校のように不特定多数の人と何かをしないとならないのは、たしかにストレスだったなぁと思いだす。

今でも付き合う人はかなり限られているし、限られた信頼できる人がいれば、あとはわりとどうでもいいと思うタイプだ。

場面緘黙のように、状況によって押し黙ってしまう時があるのも、興味の幅が狭く、興味があることしか興味がないこともこれまた同じだなぁと。

大人になると、小学校のように不特定多数の集団に押し込められるような機会も減るのでそういう困り感が色々と目立たなくなるけれど、根本的な性質は子どもの頃から変わらないし、娘と似てるよなぁと改めて思った。

私はわりと周囲に合わせて半ば無理して乗り切ってしまったけれど、それが良かったのかというとよくわからない。

もちろんどちらが良い悪いという話でもなく、それぞれがそれぞれの方法で頑張ってきた結果、こうやって過ごしてきたというだけの話だけれど、自分自身は無理して乗り切ってきたことの代償みたいなものもとても感じている。

なので娘が、嫌なものは嫌、無理なものは無理と拒絶しているのをみると、それも大切だよな〜とも思う。

私は今でもついつい無理しがちだけれど、娘を見ていると、あんなに無理して頑張る必要もなかったかもしれないな〜とか、今現在も、もっともっと無理せずに過ごせるのかもな〜と感じさせられたりする。

娘が発しているメッセージから、たくさんの学びがある。

冷静になると、正直娘の不登校は大した問題でなくて、それよりも私自身がどこに向かいたいのかだよなとも感じる。

自分自身を振り返ると、基本的に、積極的に何かをしたいみたいな欲求はあんまりなく、時間に余裕を持ってぼんやりして、その時にやりたくなった事を自分のペースで丁寧にしたい、というくらいの欲求しかない気がしている。

けれど、社会的に生きていくとなると、いろんな場面で積極的に誰かや何かに関わったり、スピード感を持って取り組むことを求められる事が多い。

そういう社会的に煩わしい事をできるだけ回避して、周りにあれこれ言われず、一人でぼんやり自由にいたいといというのが子どもの頃からのモチベーションだよなと改めて感じた。

それを実現するために、勉強や就活などいわゆる社会的にすべきとされる事は頑張ってきた。とりあえずやるべき事をやっておきさえすればあれこれ言われなくて煩わしくないから。

ただその習慣が染み付くと、やるべき事さえやっておけばいいんでしょと他責的な感じになるし、やりたいこともよくわからなくなってくる。

特に子どもができてから痛感したのは、やるべきことをやってからやりたい事をやろうとすると、やりたいことはいつまで経ってもできないという事だ。

一般的に良しとされる
やるべきこと→やりたいこと、ではなく、
やりたいこと→やるべきこと、に切り替えていかないと、いつまで経っても準備だけしてるみたくなり、そのうちに準備自体が目的のようになってしまい、何の準備をしてたのかもよくわからなくなってしまう。

なので最近はとにかくやるべき事よりも、やりたい事を意識的に優先させているけれど、まだまだ難しい事が多いな〜!

基本的にぼーっとしていたくてあまりあれこれ考えたくないので、家事も仕事もルーティンにしてしまいたく、でもルーティンにする為には、どうすれば良いか初めに考える必要がある。

考えない為に考える、みたいな、なんだか禅問答みたいなターンにいる事が多い。

そのターンを通過してもはや細かい事を考えないで済むようになったことはたくさんあるのだけれど、目下料理に関してだけは、試行錯誤の山を越え切れてなくて、ストレスがある。

あともう少しな気がしてるけれど、料理は自分一人でなく家族にも関わってくるので、その塩梅が難しい。

久しぶりに開いた本のメッセージは以下で、まさにその通り!なメッセージだった。

Give yourself
自分にも与えてあげましょう

人に与えるだけでなく
自分にも与えてください

あなたが喜ぶもの
幸せに感じる時間をプレゼントしましょう

花に水をあげるように
自分にエネルギーを与えてください

ウィリアムレーネン著「生き方の答えが見つかる本 」より

きゅうり達だけに水をあげてる場合じゃないぞ!
自分にもあげよう!

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