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幻のアンティーク着物ショップ「花あかり」

日本文化の粋を集めた祖母の婚礼衣装は衝撃でしかなかった!黒のお引き振袖はレンタル市場にまだなかった。


またまた、しばらく休業いたします!鳥取は、どこにいっても三密が少ないのに、コロナで街がさらに静かになった。

一体、鳥取みたいな、のどかで、どこ行っても三密はほとんどなく、ドライブなどに出かけても、恐ろしいくらい人がいなくて、

大丈夫か「鳥取」って、

叫びたくなるような過疎の地は、本来、この季節のドライブなんて最高なんです。3月の末から、里山の紅白色とりどりの梅の花が、咲き競い、香りはじめ、続いてコブシの白い花が、そこだけ雪が降ったように(確か宮沢賢治がコブシについて、何かの本の中でこんな表現をしていたかと思う)咲き始め、山桜がそれに加わって、赤い葉っぱが雅やかなお姫様を連想するような、風情のある姿で彩りを加え、だんだん山桜の種類が増え、万緑の季節に変わり始める姿は、本当に美しい。

県外からの観光客の方には、公園や土手に咲く、見事なソメイヨシノだけではなく、ドライブで鳥取の里山の美しさを堪能してもらいたいものだと、常々思っている。しかしながら、今年はドライブすら出かけていない。なんともったいない、と思うけど、キャンセルや延期の対応、補助金の申請とか、自粛のための会議とか、これが、全く、暇ではないのだ。また、外でのんびりと言う気分に慣れない今日この頃なのです。

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弊社のすぐ裏手に自宅がありますが、鳥取城址の近くでこの辺りは旧市街です。山と言えば、久松山があるっきりの公官庁街で、鳥取の永田町ともいうべき都会にあります。しかしながら、その都会でも、朝、庭には、4時か4時半ごろでしょうか、鳥がやって来ます。そして、いつまでも聞いていたいと思うほど美しい鳴き声で、朝の澄んだ空気の中で、鳥たちがお話しし始め、その鳥たちの声に清められたような清々しい朝がやってきます。

田舎でなくても、鳥の声で目覚める(時には眠る)朝が日常にあります。

そんな、静かでのどかな鳥取が、コロナでさらに静かになっています。

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実際には、おそらくほとんど感染者がいないと思われますが、ほとんどの方が、自粛しておられ、平日に営業していても、あんなに慌ただしくなっていた電話も静か、来店客も、極めて少ない状況が続いております。

いいかどうかはわかりませんが、お葬式の衣装など、おめでた婚のお急ぎフォトウエディング、学校が始まるまでに成人式の撮影を済ませたいなど、可能な限り、お客様に迷惑をかけないと言う前提で

ついに、

今週の平日も本日5月11日(月)から5月15日(金)まで、一旦休業を決めました。

ネット上で、きちんと皆さんとコミュニケーションが取れるようにするということを、今まで、いかにサボっていたかということを痛感しています。これからは、スマホで、自宅や、お仕事の合間に、ストレスなく、お客様からのご要望にお応え出来るようにしなければと、今、つくづく思います。鋭意、ATリテラシーを高めつつ地道に努力の毎日です。有名な方のお話を自宅で、しかもチャットで質問とかしながら、直接聞けたりするので、オンライン飲み会にも、オンラインセミナーにも、少々面倒なことでも、あえてトライするのみとの心意気で、無料だろうが有料だろうが、色々参加しています。

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子供の頃貸衣装店はカッコ悪いと思っていた!

さて、物心ついたときは、質屋と中古品販売業(確か、質流れ品センターという名前の支店が駅前の、駅に向かってどこかの路地を入ったところにあった)で、加えてかつ呉服店だった時期もあった。いつの頃からか、貸衣装業も始めていて、お店もどんどん大きくなった。


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子供の頃、貸衣装を斜に見ていて、失礼ながら、婚礼衣装は、「皇族の衣装に其処か共通点のある、一般の服と少し違って、何か、時代の流行には関係のない、なんとなく古い感じの衣装」というのが当時からの私の印象でした。朝日新聞出版のブライダル雑誌で働くようになって、メーカの取材や、SPプロモーションを通して、この業界の舞台裏を知るようにになると、企画開発の現場には女性はいなくて、こういう仕組みで商品を作るのであれば、いつまでたっても時代の流行のファッションからは、どうしても少なくとも2年は遅れるのは仕方ないなと思っていた。

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結婚式に自分が着たいと思う着物がない!

実家が貸衣装店だから、通常なら、自分の結婚式では、実家の貸衣装店の衣装を着るのが当たりまえですが、お店の中に特に着てみたい衣装がないことを伝えたからなのか、母がおばあちゃんの婚礼衣装を出してきた。おばあちゃんは、私が、大学生の時に確か81歳で亡くなったので、母が、おばあちゃんから預かっていたものだ。

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火災で実家と店舗全て消失

20年前の火災で、実家は店舗と共に全焼しましたが、この火事の時に、おばあちゃんの部屋の入り口にあった、柘植(ツゲ)の木でできたタンスだけが、ほとんどすべてが燃え落ちた実家の焼け野原の真ん中に、スックとっていたのを記憶している。火事ですべてが焼け落ちピアノは跡形もなく焼けてしまったのに、不思議なことに、このタンスだけが残っていた。

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おばあちゃんの部屋は、茶室だったようで、入り口の扉は、まるくなっていて、天井が低くて、和紙でできた太鼓張(たいこばり)で(お茶を習い出してから、後であの部屋が茶室だったと解ったことですが)閉めると、「トン」と響くいい音がしたものだった。

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おばあちゃんの婚礼衣装は、その柘植(ツゲ)のタンスの中にしまってあったが、もちろん着物も帯も蒸し焼き状態となり、且つ水浸しになってしまい、着物の裏地の紅絹(モミ)の色が落ちて、姿はあるが元の姿を想像することは難しい状態ではあるが、今も大切にしまってある。

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ある時代に作られた贅沢な婚礼衣装に、二枚襲、三枚襲があった

この衣装は、白と黒の2枚襲で、白には、秋から冬の模様が、黒には春から夏の模様が描かれていた。2枚重ねて四季を着るという発想に「なんて昔の着物ってカッコいい!」と、一瞬で、すっかりアンティーク着物の虜になった。

また、帯がびっくりするほど立派な唐織で、瑠璃の色がところどころ効いており、瑠璃色とか、ターコイズとか、そういう種類の青系の色にめっぽう弱い青好きの私としては、さらに、帯の中に散りばめられたその瑠璃の色目に心を打たれた。その色は、ある特定の時代にだけ存在した色で、現代の着物では、不思議なことに、滅多にお目にかかれない珍しい色で、一層、心惹かれるものがあった。

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また、これらの着物は、三越のたとう紙に入っていたことから想像すると、おばあちゃんの婚礼当時は、うちも、おばあちゃんの実家も、まだ、どっちも質屋で、まだ、呉服商ではなかったと思うから、着物を誂えに東京まで出かけたのか、三越が行商で地方に営業に来ていたのか、いずれにしても、婚礼の着物を誂える先は、地方の呉服屋ではなかったのかもしれない。当時の婚礼衣装の調達先について、事情について、知っている方があったら、聞いてみたいものだ。

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子育ての最中に起業を決意

そして、この着物との出会いが、結婚後に、アンティークショップを起業しようと決意させることになる。結婚した当時、東京の吉祥寺に住んでた頃、子供が生まれても、待機児童が400人もいると言う三鷹市では、子供の預け先もままならなかった。それまでの私の仕事は、雑誌の編集、映像制作、tレントのマネージャーと、残業が当たり前の職業ばかりだった。

月8万円くらいも払って、私学の保育園に預かってもらっていたが、定時出勤定時退社の会社でなければ、働けるはずもなかった。自分のペースでできる仕事で、何か起業をしよう考えた時に、「やってみたいな」と思ったのが、アンティーク着物に関する仕事だった。

それから、子供を連れて、せっせと、アンティークの着物市に出かけては、貯金をはたいて、買い着物や帯を漁った。買えば買うほど夢中になった。当時はまだ、アンティーク着物のショップも少なくて、今、前線で活躍される着物スタイリストさんのお店も、まだマンションの一室だったりした。

衣類商の許可を取りに実家の鳥取へ

開業にあたり、「衣類商」という中古品販売業の許可証を取得するには、営業所が必要だった、自宅の借家は、住居なので、営業所にはすることはできなかった。新しい事業所を借りる余裕もなかった。思いついたのは、実家お店を営業所にし、母を管理者として、鳥取で許可証を取得し、自分自身は行商にて東京で働くのであれば、お店が営業できるという方法。

着物を一切合切東京から一旦、実家に送って、母にそのコレクションを見せて、一緒にやらないかと話を持ちかけた。母に手伝ってもらう代わりに、実家の仕事を期間限定で手伝うからと約束して、無事に許可証を取った。そして、しばらくの間は、母とともにアンティーク着物の面白さにのめり込み、仕入れに明け暮れ、二人して、この世界にハマりにハマった。

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火事で商売道具の着物コレクションが全て消失

そうして二人で集めたコレクション、300万円相当の全ては、本当に残念なことながら、20年前の火災で全焼し、今は、一枚の写真も、一枚の着物も、何一つ残っていない。着物を集めていたという証拠すらも、跡形もなく消え失せた。

火事の直後に「あなたに帰ってきて欲しくて、あなたの着物をご先祖様が焼いてしまわれたんですよ」言った人がいた。最初は、ずいぶん東京に未練を残していたが、今は、もちろんこの仕事を続けてきたことに後悔はない。

少し実家の仕事を手伝うつもりが、まさか、こんな展開になるとは想像すらしていなかったなあ。さらに、絶対やりたくないと思っていた婚礼の仕事をこんなに長く、続けることも予想していなかった。人生とは本当にわからないものである。

実はすでに、店舗の名前も決めていた。春の夜に、桜が咲いている様子が、まるで、灯りがついているかのように見える様を「花あかり」という、この言葉の持つイメージに惹かれてつけた名前だ。着物を入れる予定で、骨董屋で、買う約束をしていたオルガン箪笥(引き出しを開けるとハーモニカみたいな音がフワンと鳴る作り)は、しばらく自分のために使っていたが、父と母が立て続けに亡くなり、実家に住むことになった際に、置き場がなくて、ついに処分してしまった。

残っているものはと言えば、アンティーク着物を買うたびに、心を動かされた記憶

大正、明治の時代に作られた着物には、着物の職人さんの、今からは考えられない程のパッションと夢とロマンが詰まっていた。気合の入った渾身の一枚一枚に、売り手と買い手の両方が、いちいち感心して、アンティーク着物談義に話が弾んだ光景は、今でも鮮明に目の奥に焼き付いている。

もうどこだったか、忘れてしまったが、荻窪かどこかのアンティーク着物ショップだったような気もするけど、娘にと、仕入れのついでに、大正時代の七五三の晴れ着を母に買ってもらった。オダマキとチューリップの柄のついた瑠璃色の七五三の着物を眺めながら、ショップオーナーのおじさんが、こんなことを言っていた。

「いい着物は誰にでも似合う。いろんなことをよく考えて、色や柄を選んで作ってあるから、昔の着物は包容力があるんです。」

のちに自社で、花振袖というオリジナル着物を製作するようになって、改めて思う。確かに、よく考えて作ったものは、どの打掛にも相性が良くて、使い勝手がいいと思うことがある。本当にその通りである。

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自分の結婚式も済み、やがて、ブライダルのレンタル市場に、黒のお引き振袖と言うものが登場し始めたが、集めてきたコレクションを凌ぐ商品には、なかなかで会うことができない。あるお客様の時に、瑠璃色のお引き振袖を、消失したコレクションの記憶を元に、再現したのだが、その話はまたそのうちに披露することにします。

失った着物の記憶が残っているうちに、チャンスがあれば、一枚でも多く、かつての素敵な着物を現代に蘇らせてみたい。

と、いつも心の底で、密かに思っている私です。

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