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伊藤比呂美 読み解き「般若心経」 を読んで

ガツン、と来た。noteをしていない間にも本は読んでいた。村上春樹の「騎士団長殺し」は感想文をここに記そうと思って読んだ。30半ばの男が妻に浮気されて「別れてほしい」と言われ、怒ることなくあてもなく車で出かけて立ち寄ったファミレスのトイレの鏡を見て泣く…そんな情けなさすぎる姿をみてそれ以上読むのが苦痛でしかなくなり、途中で挫折した。その後台湾武侠小説金庸作品をいくつか読み、アクションシーンに心躍らせたものの、noteに記すまでにはならなかった。
それが、である。この作品はやられた。「わかるぅ~」と何度も共感した。この当時の伊藤比呂美は50代だったはずだが、私も50代にそろそろ突入する。親の死に接したり、若い頃にしてきた罪深い業のようなものが、若い頃は気にしなかった(からしてしまったのだろうけれど)のが、この年齢になってくると後悔、とも違うな、古傷のうずき、に近いだろうか。ただ、やたらと思い返したりする。昔の恋人とのいさかいや、不義理をしてしまったこと…そういう心の澱と向き合うようになるのがこの年代、50歳前後という年頃ではないか、と今は思う。
で、「お経」との出会いである。私の場合で言えば、数年前にニコニコ動画、ニコニコ生放送の「ニコニコ超会議」というイベントで「超テクノ法要」という番組に出会った。

電子音楽をバックにお経を聴く、それがとても心地よかった。母の死に接し、コロナウイルスで死ななくても良い人々が倒れ、私は年に一度されるこのイベントを観て、瞑目し、手を合わせずにはいられなかった。今、自分にとって「お経」とはどう位置付けられているのか、説明しようとしたが、あまりに自然な成り行きですぐに言葉にできない。お経を聴いて手を合わせて祈ること、日々感謝すること、そして新しく「宗教」というものを開いてみたい、という願い、その成り行きがここ数年の私のなかでほんとうに自然に経過していったからだ。なので、伊藤比呂美さんのお経へのアプローチをここに改めて書き写しながら、そう、「写経」をする気持ちで抜粋しながら、彼女の考えに「腑に落ちた」私を改めて客観視して、その位置づけを言葉にできるか試したい。

  • 「懺悔文」
    本の構成は伊藤さんが、母親の認知症の看病のためにサンフランシスコと日本を往復するなかで、父親とのことや娘たちや友人のこと、そこでの気づきを反映するようなお経や、仏教由来と認識して気になった文言を挙げ、さらに彼女の言葉で訳した文章を各章の最後にもってきている。

    わたしが
    これまでに
    なしてきた
    いろんなあやまちは
    はるかなむかしから
    みゃく
    みゃく
    とつながる
    むさぼる心・いかりの心・おろかな心

    をもとにして
    からだ・ことば・いしき
    をとおして
    あらわれて
    きたものだ。
    わたしはいま
    きっぱりとここにちかう。
    そのすべてを
    ひとつ
    ひとつ
    心をきりきざむようにして
    悔いて
    いきます。

  • 「香偈」「四奉請」
    もともとは「なぜこの経文や偈(げ)を伊藤さんが選んだのか」をこの本に書いてある通り要約して、それとともに最後の訳も載せようと思っていたのだが、これは私にとって「写経」だった。だからまず、そのまま箇条書きにして彼女の訳を無心に連ねてみたい。

    「香偈」(こうげ)
    わたしのからだ
    香炉のようにきよらかに

    わたしの心
    ほとけのちえの火のように

    こころをこめて
    身をいましめて
    香をたき

    いつでも どこにでも
    あらわれてくださる
    ほとけのために
    これを

    「四奉請」(しぶじょう)
    お花を散らしてございます。音楽も奏でてございます。
    お花を散らしてございます。音楽も奏でてございます。
    十万においでの
    真理の道から来られる如来さまがた、
    どうぞおはいりください、お花も散らしてございます。
    真理の道から来られるお釈迦さま、
    どうぞおはいりください、お花も散らしてございます。
    真理の道から来られる阿弥陀さま、
    どうぞおはいりください、お花も散らしてございます。
    道をもとめ、人々をみちびいてくださる観音さま、勢至さま、
    そしてもろもろの、道をもとめ、人々をみちびいてくださる菩薩さまがた、
    どうぞおはいりください、お花も散らしてございます。

  • 「般若心経」
    自由自在に 世界を 観ながら 人々とともに
    歩んでいこう 道をもとめていこうとする かんのんが
    深い ちえに よって ものを みつめる 修行の なかで
    ある 考えに たどりついた。
    わたしが いる。もろもろの ものが ある。
    それを 感じ
    それを みとめ
    それについて 考え
    そして みきわめることで
    わたしたちは わたしたちなので ある。
    しかし それは みな
    「ない」のだと
    はっきり わかって
    一切の 苦しみや わざわいから
    抜け出ることが できた。

    ききなさい しゃーりぷとら。

    「ある」は 「ない」に ことならない。
    「ない」は 「ある」に ことならない。

    「ある」と 思っているものは じつは 「ない」のである。
    「ない」と 思えば それは 「ある」に つながるのである。

    「感じとる」。
    「みとめる」。
    「考える」。
    「みきわめる」。
    どれも また そのとおり。

    ききなさい しゃーりぷとら。

    在るものは すべて 「ない」のである。
    「生きる」も ない 「死ぬ」も ない。
    「きたない」も ない 「きよい」も ない。
    「ふえる」も ない 「へる」も ない。

    つまり。
    「ない」という そのなかには
    「ある」も ない。
    「感じとる」も 「みとめる」も
    「考える」も 「みきわめる」も ない。
    「目」も 「耳」も 「鼻」も 「舌」も
    「からだ」も 「心」も ない。
    「いろ かたち」も 「こえ」も 「におい」も 「あじ」も
    「さわれるもの」も 「思いを おこすもの」も ない
    「目で 見る 世界」も ない。
    「心に 思う 世界」も ない。
    目で 見る 世界から 心に 思う 世界まで
    人の 心の はたらきは いろいろ あるけれども
    そのどれも ない。
    また そのはたらきが なくなることも ない。

    「ものを 知らぬ 苦しみ」も ない。
    「ものを 知らぬ 苦しみ」が なくなることも ない。
    「老いて 死ぬ 苦しみ」も ない。
    「老いて 死ぬ 苦しみ」が なくなることも ない。
    ものを 知らぬから 老いて 死ぬまで
    人の 生きる 苦しみは いろいろ あるけれども
    そのどれも ない。
    また その苦しみが なくなることも ない。

    生きるための 苦しみも ない。
    苦しみを つくりだす 迷いも ない。
    苦しみや 迷いが
    いつかは なくせるという 希望も ない。
    苦しみや 迷いを
    なくそうという 努力も ない。

    「知る」ということも ない。
    「得る」ということも ない。

    つまり なんにも 得られない。
    だから。
    道を もとめるものたちは
    このちえに したがうのだ。
    それで。
    心に こだわるものが なくなる。
    こだわるものが なんにも なくなる。
    だから。
    恐怖を 感じることも なくなる。
    一切の 迷いから 遠く 離れ
    苦が なくなる 心が すみきる。
    現在 過去 未来
    目ざめた人たちは いつも
    このちえに したがって 生きてきたし 生きていくのだ。
    それで。
    はっきりと 目ざめることが できるのである。
    だから。
    知っておきなさい 向こう岸に わたれる このちえ。
    これは つよい まじないである。
    これは つよくて あきらかに きく まじないである。
    これは さいこうの まじないである。
    これは ならぶものの ない まじないなのである。
    どんな 苦も たちまち のぞく。
    ほんとうだ。うそいつわりでは けっして ない。
    だから。
    おしえよう このちえの まじないを。
    さあ おしえて あげよう こういうのだ。

    ぎゃーてい。
    ぎゃーてい。
    はーらー ぎゃーてい。
    はらそう ぎゃーてい。
    ぼーじー そわか。

    般若心経でした。

  • 「発願文」
    発願文の直前に、善導という中国のえらいお坊さんが同じく書いたという「日没無常偈」という偈(げ、詩のようなもの)があり、それも伊藤さんが訳している。

    「日没無常偈」
    これを聴け。
    日没の無常の偈だ。
    人はあくせくと日々をいとなみ
    いつか来る死について考えない。
    風に揺れるともしびのように
    はかない命である。
    死に変わり生き変わりつながっていく縁である。
    まださとらないのか。
    苦しみから逃れられないのか。
    どうしてそんなに安穏としていられるか。
    おそれはないのか。
    これを聴け。
    強くて健康で気力のみなぎるいまのうちに
    死について考えておけ。

    「発願文」
    わたしは願っています。
    死ぬときには
    あわてず
    さわがず
    みだれずに
    自分らしい心のままで
    死んでいけますように。
    身にも心にも
    くつうはなく
    落ち着いていけますように。
    悟りに入るように
    穏やかに
    仏さまを目の前に見ているような心持ちで
    仏さまが迎えにきてくれたような心持ちで
    わたしたちを救いたいという
    仏さまの本とうの願いに乗って
    じょうずに
    死んでいけますように。
    そうして浄土にたどりついたら力を得て
    いつか元の世界に帰って
    こんどはわたしが
    苦しむ人々の助けになりたい。
    人々が迷うのをやめないかぎり、
    いつまでも
    いついつまでも
    わたしはずっと願いつづけます。
    以上です。
    身も心も投げ出して
    救われることを信じています。

  • 「大地の歌」
    王維からグスタフ・マーラー、そしてキャスリーン・フェリア―(コントラルト)から伊藤さんへ伝わった詩

    「大地の歌 告別」
    友人は馬から下りて
    彼に別れの杯を差し出した
    彼はたずねた。
    どこに行くのか。
    なぜこんなことになってしまったのか。
    低い声で、友人は答えた。
    きみ、いい友でいてくれた。
    わたしは人生に倦み果てた。
    今からどうしようか。
    どこへ行こうか。
    山にさまよい入るもいい。
    今はただ、ひとりになって
    しずかに時を過ごしたい。
    帰ろう、ふるさとへ
    わたしの居場所と呼べる所へ
    そして、もう、けっして、そこを離れまい。
    しずかな、済んだ心で
    最後の時を、待っていたい。
    ゆたかな大地に春が来て
    みわたすかぎり、花が咲く、緑になる。
    遠くの空は、青い光でみちみちる。
    みわたすかぎり
    永遠に、永遠に、永遠に、永遠に、永遠に。

  • 「ひじりたちのことば」

    「となえるがよい
    ――法然」
    現世を生き抜くには
    念仏をとなえるために生きようとするのがよい。
    念仏に専念するためにじゃまになることは
    何であれ
    捨てて、忘れて、やめてよい。
    ひじりとして生きておっては念仏ができぬというなら
    妻を持ってとなえるがよい。
    妻がおってはできぬのなら
    ひじりになってとなえるがよい。
    定住しておってはできぬというなら
    家を追ん出てとなえるがよい。
    放浪しておってはできるのなら
    一所(ひとところ)に住み着いてとなえるがよい。
    生活をやりくりしておってはできぬというなら
    人に食べさせてもらいながらとなえるがよい。
    養われておってはできぬのなら
    自力で生活してとなえるがよい。
    一人ではできぬというなら
    仲間とともにとなえるがよい。
    人といっしょではできぬのなら
    一人で閉じこもってとなえるがよい。

    「髪の毛いっぽん切るようなこと
    ――法然」
    軽い病で死にたいと祈るのもいいのだが
    病気ひとつしないで死ぬ人でも
    いよいよの最期になると
    断末魔の苦しみというものがある。
    つきぬ煩悩から来る病が身をなやませる。
    何百何千の刃物で身をきりさかれるおもいがする。
    目を無くしてしまったように見たいものが見えなくなり
    舌の根はすくんでしまったようにいいたいこともいえなくなる。
    これが人間の八苦のうちの死苦である。
    本願を信じ往生をねがって修行してきた人も
    この苦ばかりはのがれられない。
    悶絶することもあるだろうが
    息の絶えるときには
    阿弥陀仏のちからで
    きっと正気をとりもどす。
    かならず往生できる。
    臨終とは髪の毛いっぽん切るようなことである。
    関係のない凡夫にはわからない。
    ただ、仏と
    修行する本人の心だけが
    それを知っている。

    「そこがわからなかった
    ――親鸞」
    唯円(ここでは「私」)が、親鸞(1173-1262)の教えを伝え、そのことばをよみがえらせたのが「歎異抄」。

    「念仏したんですけど、ちっともうれしくならないのです。
    急いで浄土へ行きたいとも思えないのです。
    どうしてだろうとなやんでいるのです」と私がいいましたら
    「親鸞(おれ)もそこがわからなかった。
    唯円房(おまえ)も同じ心でいたんだな。
    よくよく考えてみれば
    天におどって地におどるほど喜んでいいのに喜ばないんだから
    こりゃ往生は確実だということだろう。
    喜ばなくちゃいけない心を抑えて喜ばないのは煩悩のせいだ。
    だが仏はそれをちゃんとご存じで
    おれたちのことを、煩悩だらけのつまらない人間と呼んでくださる。
    何がなんでも浄土に連れて行いってくださろうというせつない本願は
    おれたちのためにあったのだということがわかってくる。
    するといよいよ頼もしく思えてくるじゃないか」

    「ころしてくれよ
    ――親鸞」
    「唯円房(おまえ)はおれのいうことを信じるか」とおっしゃるので
    「もちろんです」と私が答えましたら
    「そんならいうことをちゃんときくか」とまたおっしゃるので
    「つつしんでなんでもいたします」といいましたら
    「それじゃ人を千人ころしてくれよ。
    そうしたらかならず往生できるんだぞ」とおっしゃる。
    「いえそうおっしゃいますが
    私なんぞに一人もころせやしません」といいましたら
    「そんならなぜいうことをきくといったんだ」と。
    「これでわかったろう。
    なんでもおれたちの心にまかせてしまっていいのなら
    往生のために千人ころせといわれたらころすことになる。
    でも一人ころすのもできないというのは
    ころさなくちゃならない業縁(ごうえん)がないからなんだ。
    おまえの心が良いからころさないんじゃないよ。
    ころすまいと思っていたって
    百人や千人をころしてしまうこともあるんだよ」とおっしゃいました。
    私たちが、心の良いのを良い、悪いのを悪いと思うばかりで
    じつは本願のちからに
    たすけられていることを
    知らないのだとおっしゃったのです。

    「ひとり
    ――一遍」
    かかわるのをやめて
    一切を捨てて
    ひとりに
    ひとりきりに
    なりはてることが
    「死ぬ」ということだ。
    生まれたときも
    ひとり。
    死ぬときも
    ひとり。
    人と住むということも、また
    ひとり。
    添いとげなければならぬ人などいないのだ。

  • 「白骨」
    つまりこういうことでございます。
    ただよっているような人の生きざまを、
    つらつら観察しておりまして、
    はかないなあと感じるのは人のいのち。
    はじまるときもその途中も終わるときも、
    まぼろしのような人のいのちです。
    そういうわけで、
    一万年生きた人の話はいまだに聞いたことがございません。
    一生はすぐ終わります。
    百年間、老いずに生きた人が、これまでにおりますか。
    自分が先か、人が先か、
    今日かもしれない、明日かもしれない、
    滴が、木の根もとに落ちたり葉末にひっかかったりするのよりも、
    せわしなく、人は、
    死に後れたり生き急いだりしてゆきます。
    そういうわけで、
    朝のうちにはあかいほっぺをかがやかせておっても、
    夕方には白骨となってしまうかもしれない身の上です。
    今にも無常の風が吹いてくれば
    二つの目はたちまち閉じる。
    一つの息はたちまち絶える。
    笑顔がむなしく死に顔となり、
    花のようだった美しさが消えてなくなる。そのとき、
    親類縁者があつまって嘆き悲しんだところで、もう、どうしようもない。
    ほっとくわけにもいきませんから、
    野辺の送りをして夜のうちに煙となる。
    そして、ただ白骨だけが、残るのであります。
    あわれというだけでは、とうてい言い足りませぬ。
    おわかりいただけましたか。
    人間のはかないことは、老いも若きもございませんから、
    どなたもお若いうちから、いつか死ぬのだということを心がけ、
    阿弥陀仏におまかせして、念仏をおとなえするべきなんであります。
    しつれいいたしました。

  • 「観音経」
    P144
    かんのんは、女のようでもあり、男のようでもある。そして、よく見聞きしわかり、救いを求める声を、ちゃんと聴き取る。ねんぴーかんのんりきだ。その上、呼び声に応じて、地球上のどこにでもあらわれることのできる超能力を持っている。ねんぴーかんのんりきなのである。
    つまりいつなんどきでも、あたしたちに危険がせまれば助けに飛んでくるスーパーマンやアンパンマンのような存在だ。
    「You've got a friend(あなたにはともだちがいる)」に出てくる自称「ともだち」のような存在でもある。そういえばあの歌は、ときに女声(キャロル・キング)でうたわれ、ときに男声(ジェイムズ・テイラー)でうたわれた。
    その訳し出したものを次に。

    落ち込んで
    悩みがあって
    助けが必要で
    何もかもうまくいかないようなとき
    目を閉じて、わたしのことを考えてごらん
    すぐにわたしはそこに行く
    あなたのいちばん暗い夜だって明るくしてあげる
    あなたはわたしの名前を呼ぶだけでいい
    いい?
    どこにいようと
    わたしはあなたに会いに駆けもどってくるから
    冬も、春も、夏も、秋も
    あなたは呼ぶだけでいい
    わたしはたちまちやって来る
    そう、そう、そう
    あなたには友だちがいる


    「観音経偈」
    そのとき、尽きぬ心を持つ修行者が、ききました。
    「もっともとうといおかたよ。
    あなたのお顔には
    人々を救おうという思いがあふれていらっしゃる。
    わたしはもう一度うかがいたい。
    どういうわけで、この修行者は
    『世の音を観る』という名を持つのですか」
    人々を救おうと決意されたとうといかたは
    尽きぬ心を持つ修行者に、こうお答えになったのであります。
    「あなた、よくおききなさい。
    かんのんの実践してきた修行とは、
    救いをもとめるどんな声ものがさずに
    受けとめるとうものなのだ。
    人々を救いたいというその誓いは、
    海のようにひろくておおきい。
    かぞえきれないくらいの長いとしつき、
    何人ものめざめた人たちのもとで
    かんのんは、この誓いを実践してきたのだ。
    あなたに、ここでかんたんに教えてあげよう。
    かんのんの、その名を聞き
    その身を見て、心に念じれば
    できないことはなんにもない。
    どんな苦だってちゃんと消し去る。

    たとえ、あなたを殺そうとする人によって
    燃えさかる火の穴につき落とされようとも
    あのかんのんの力を念じれば(ねんぴーかんのんりき)
    火の穴は水を湛える池にかわる。

    あるいは大洋に漂流して
    龍や大きな魚に襲われようとも
    あのかんのんの力を念じれば(ねんぴーかんのんりき)
    なみに呑まれてしまうことはない。

    あるいは世界の中心にそびえる山から
    まっさかさまにつき落とされようとも
    あのかんのんの力を念じれば(ねんぴーかんのんりき)
    太陽のように空中にとどまっていられる。

    あるいは悪人に追われて
    岩だらけの崖下にころがり落ちようとも
    あのかんのんの力を念じれば(ねんぴーかんのんりき)
    ひとすじの毛も傷ついたりはしない。

    あるいは賊にとりかこまれて
    あわやというときにも
    あのかんのんの力を念じれば(ねんぴーかんのんりき)
    賊はたちまち情け心をおこす。

    あるいは悪政の王にとらえられ
    死罪に処せられようとするときにも
    あのかんのんの力を念じれば(ねんぴーかんのんりき)
    振り下ろされた刀はぼきぼきに折れてしまう。

    あるいは鎖につながれて
    手枷足枷にくくりつけられようとも
    あのかんのんの力を念じれば(ねんぴーかんのんりき)
    縄目はとけてゆうゆうとにげだすことができる。

    あるいは呪いや毒薬で
    あなたを傷つけようとする者がいても
    あのかんのんの力を念じれば(ねんぴーかんのんりき)
    呪いも毒薬もその本人にかえっていくのだ。

    あるいはよこしまな神々に
    悪霊や妖怪に襲われようとも
    あのかんのんの力を念じれば(ねんぴーかんのんりき)
    毛穴ほども害されることはない。

    あるいはけだものがあなたをとりかこみ
    牙や爪をむき出して襲いかかってこようとも
    あのかんのんの力を念じれば(ねんぴーかんのんりき)
    たちまち遠くへ走り去っていく。

    とかげやへびやまむしやさそりが
    毒を吐き出しながら近づいてこようとも
    あのかんのんの力を念じれば(ねんぴーかんのんりき)
    もとのところへかえっていく。

    かみなりに惑い、いなずまに打たれ
    ひょうに降られ、大雨に濡れそぼっても
    あのかんのんの力を念じれば(ねんぴーかんのんりき)
    雨も嵐もたちまちしずまる。

    みなさんの身の上にわざわいが降りかかり
    はてしない苦しみに悩みもだえているときも
    あのかんのんの力を念じれば(ねんぴーかんのんりき)
    苦はすっきりと抜けてなくなる。

    かんのんは、超能力をもち、よく修行につとめているから
    十万の国土のどこにでも
    いつなんどきでも
    あらわれることができるのだ。

    死んだ後の、報いを受けて地獄に堕ちる苦しみも
    生きている間の、生老病死の苦しみも
    あのかんのんの力を念じれば(ねんぴーかんのんりき)
    たちまちなくなる、楽になる。

    かんのんは、真実をみぬく眼をもち、
    きよらかな眼をもち、
    ひろくておおきいちえの眼をもち、
    あわれみの眼をもち、いつくしみの眼をもつ。

    たよりなさい。
    つねに。
    うやまいなさい。
    いつも。

    やがて、きらきらと光がさしこんで、
    かんのんのちえが
    太陽のように夜の闇をひらいていく。
    災いの風火もしずめていく。
    せかいを、あまねく、あかるく、照らす。
    あわれみにあふれたその行は
    雷のように力強くわたしたちにとどき、
    いつくしみにあふれたその心は
    大きな雲のようにわたしたちをおおう。
    やわらかな雨のようにわたしたちを濡らし、ゆたかにうるおす。

    いさかい、訴訟で、にくみあい
    むごい戦いの中でおそれおびえていようとも
    あのかんのんの力を念じれば(ねんぴーかんのんりき)
    おそれもにくしみも、なにもなくなる。

    かんのんの声は、うつくしい。
    ふしぎなしらべでひびきわたる。
    かんのんの声は、てんの声。
    海鳴りのようにとどろきわたる。
    この世に聞こえるどの声も
    かんのんの声には、かなわない。

    だからみなさん、
    かんのんを念じなさい。
    念じて、念じて、ゆめ疑ってはいけません。
    かんのんは、きよくてとうとい。
    苦しみ、悩み、死や災いに
    こんなにたよりになる存在は、ほかにない。

    かんのんは、惜しみなく人々を救い、
    いつくしみの眼で、人々をみまもる。
    かんのんのめぐみは、大海原のように
    どこまでも尽きることがない。
    だからみなさん、
    かんのんをうやまいなさい」

    そのとき大地を支える修行者がたちあがり、前にでて、いいました。
    「もっともとうといかたよ、もし人々がこの章で、
    『世の音を観る』修行者ならなんでもできるということ
    どこにでもあらわれるということを知ったなら、
    その人々は、きっとすみきった心を持てるでしょう」
    人々を救おうと決意されたとうといかたが
    このおしえをとかれたとき、
    そこには八万四千人の人々がいましたが、
    みな、他にるいのないほどの
    すみきった心にたっすることができたのであります。

  • 「賽院の河原地蔵和讃」
    これはこの世のことではありません。
    死んだたましいが旅をして、
    野を越えて
    山を越えて
    ようやくたどりつくという
    賽の河原のものがたり。
    あわれでならないおはなしでございます。
    賽の河原には
    二つや三つ、四つや五つ
    せいぜい十くらいまでの子どもらが
    やってきまして
    泣いておるのでございます。
    とうさんにあいたいよ
    かあさんにあいたいよ
    かあちゃんよ
    どこにいるの
    かあちゃんよ
    おうちにかえりたいよと
    子どもらが
    親を慕って泣く声は
    この世の子どもの声ではございませぬ。
    悲しさが
    聞くものの骨身を
    ぴしりぴしりと
    つらぬきとおす声でございます。
    子どもらは
    泣きながら
    河原の石をあつめ
    塔を積んでゆくのでございます。
    一重に石を積めますと
    「これはかあちゃんのため」
    と祈ります。
    二重に石を積めますと
    「これはとおちゃんのため」
    と祈ります。
    三重にじょうずに積めますと
    「おうちにのこったきょうだいのため」
    「それからじぶんのため」
    と祈ります。
    あかるいうちこそそうやって
    一人で遊んでおれますが、
    日がだんだんと暮れてまいります。
    くらくつめたくものさびしくなってまいります。
    そうすると、そこに地獄の鬼が出てまいりまして
    おそろしい声音で子どもらに
    こう申すのでございます。
    「おい、おまえらは何をしておる。
    おまえらがこんなことをしておるから、
    親どもは供養もせずに
    朝から晩までただ悲しんでおるのだぞ。
    子どもに死なれた、ああむごい、
    子どもを死なせた、ああ悲しい、
    死んだ子が、ふびんでならぬと
    親が嘆けば嘆くだけ
    おまえらは地獄で痛い苦しい目にあうのだぞ。
    いっそこうしてしまったほうがいいのだ。
    おれを恨むなよ」
    鬼は鉄の棒をふりあげて
    子どもらの積んだ塔を
    さんざんに
    打ちくずすのでございます。
    その時です。
    ひとのみがわりになろう
    ひとをみちびいてやろう
    というお地蔵さまがゆるぎ出ていらっしゃいまして
    泣きさけぶ子どもらを抱きかかえて
    こうおっしゃるのでございます。
    「子どもらよ。
    命が短かったせいで冥途にきたのだね。
    親のいる世界からこの冥途まで
    それはそれは遠いのだ。
    これからはわたしが
    おまえたちの冥途の親になってやろう。
    昼でも夜でも
    わたしを頼りにしておいで」
    そうして小さな子どもらは
    衣のなかに抱き入れて
    あわれんでくださいます。
    ありがたや。
    まだ歩けない赤ん坊は
    錫杖の柄につかまらせ
    はだにしっかり抱きとって
    やさしく撫でてくださいます。
    ありがたや。

  • 「七仏通戒偈」(しちぶつつうかいげ)
    わるいことをするな
    よいことをしなさい
    きよいこころをもちなさい
    これがほとけのおしえだよ

    「無常偈」
    諸行無常(しょぎょうむじょう)
    是生滅法(ぜしょうめっぽう)
    生滅滅巳(しょうめつめっち)
    寂滅為楽(じゃくめついらく)

    常なるものは何もありません
    生きて滅びるさだめであります
    生きぬいて、滅びはて
    生きるも滅ぶもないところに
    わたくしはおちつきます

「四弘誓願」(しぐせいがん)
衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)
煩悩無尽誓願断(ぼんのうむじんせいがんだん)
法門無量誓願学(ほうもんむりょうせいがんがく)
仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう)

ひとびとはかぎりなくいます。
きっとすくいます。
ぼんのうはつきません。
きっとなくします。
おしえはまだまだあります。
きっとまなびます。
さとりはかならずあそこにあります。
きっとなしとげます。

観音経のところ、最初と最後の節は本来太字ゴシックで文字数を下げて表記しているのだが、文字数を下げるとスマホとPCで見方が変わる可能性があるので敢えてこのような表記とした。
写経のつもりで抜き出してそのまま記してみたが、こうしてみると般若心経の「無い」ことを強調して最後に「在る」なのかな、と思いきや「まじない」でしめるやり方とか、観音経が読んだときより長く感じたり…と内容を改めて考えたり、同時にやはり伊藤さんがこの文言を選んだ背景のエピソード、特に「白骨」以降は母の死や友人の死、疎遠にしていた師匠の死、という死を念頭にいれつつ、それでも花が咲くさまがイヤでも目に飛び込んでくる、という情景が私にもガツン、と腑に落ちるところがあって…

愛猫が亡くなって二年経とうとしていた去年の11月の終わりに、お寺にお参りしたときの私のツイート。死者を思うとき、生きてあるものどもがより輝いて感じた。伊藤さんが「七仏通戒偈」「無常偈」でサブタイトルにした「いつか死ぬ、それまで生きる」との言葉と私の解釈が同じ、とは限らないのだが少なくとも私にとって、その言葉は「死を念頭にいれて生きるからこそ自らの生も充実する」と現在では考えている。
それにしても、宗教って何だろう?と思うことしきりだ。私が開きたい宗教はあくまでも皆さんと語りあえればそれで良し、という部分があるのだけれど、こうして伊藤さんがかみ砕いてくれた言葉をさらに飲み込んでみたら宗教って人を救うものじゃないか?という気がしてくる。それって、私がやろうとしたら物凄くおこがましいな、というか、困ってる人を救う、だなんて、簡単に言うけど真に救うって何?たとえばホームレスに食べ物をあげたとして、毎日あげつづけないと救うことにはならないし、じゃあ仕事や住む場所を一緒に探すことが救うことなの?というと違うんじゃないか、それは行政や社会保障、政治で出来ることでもあるし…となる。一口に「まじないを唱えたら救われるよ!」なんて言ってしまえない自分がいたのだ。
ただ一つだけ言えることがあるとすれば、それは「寄り添う」ことだ。お経にしても、救うにしても、自分自身を委ねたり、また委ねてもらうように接したり、その寄り添いを無意識のうちに重ねて行う、その寄り添うことの重要さに気づけるのがお経だ、と結びたい。仏や神が自分に寄り添ってくれると思うとき、また自分も他人に寄り添うことが大事だと気づく、ということだ。
今年でコロナウイルスは終息するんじゃないか、と思っている(感染者数だけに目をつけて神経質に怖がり続けるなら終息はしないのだろうけれど、ワクチンと経口治療薬があって、オミクロン株で重症者がそれほどいないのになんでこんな騒いでいることに物凄い違和感がある)のだが、先に行政がやれば…なんて言ってしまったけれど、確かにそれなら宗教が果たす役割は無いのか?とも考えてみたり…。
今年はどんな一年になるのだろうか。2020年から「有事」の時代に入ったと思っているのだが、それを私以外の人も痛感するような出来事が起こるのだろうか。いずれにせよ、心静かに、あらゆる出来事に「死ぬまで生きる」という青い炎のような情熱をもって迎えたいものだ。

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