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井川聡「頭山満伝 ただ一人で千万人に抗した男」を読んで

気に入った曲をループしたいと思ってもわからないので、一つの曲が何時間もループになっている動画を求めていた。この動画を見つけたのは僥倖としか言いようがなかった。
人生観を変える本、というのも、なかなか出会うことはできない。巷でベストセラーといわれるものは、アマノジャクの私にとってはネガティブな感情から入るし、実際村上春樹の小説などは、まさにネガティブな感情のまま、可愛い女の子が川で水浴びしている最初のシーンで読み捨ててしまった。

私が無知なのだろうけれど、頭山満という人すら知らなかった。地元の中央図書館で、この1年ほどよく本を借りる。仏教や鈴木大拙といった宗教に関する知識に興味をもち、それは阿頼耶識とクラウドソーシングの置換や、量子力学と宗教の関連を私なりに感得し、小島毅さんの陽明学や、日本国王と名乗った足利義満に行きついたところで、50歳を過ぎた私にとって、人間50年以上を生きて来た人たちが時代を問わず、妙なリアリティーを持ってその人生が私に迫ってきて、幼稚な言い方だがワクワクドキドキしてきた。そこで陽明学つながりから安岡正篤、宗教つながりから佐々井秀嶺や大本教出口なおと王仁三郎、また極左から極右への転回ともいえる大変化をもたらした清水幾多郎、参政党が農本主義か?という宮崎哲弥氏の疑問から橘孝三郎、と、大正から昭和という時代を駆け抜けた人物たちの本を連続して手に取った。
図書館の棚にしまわれた、様々な傑物たちの人生を選り好みしているとき、目に留まったのがこの本だった。何しろ、600ページ以上ある。単純に分厚くて、黒字に白の「頭山満」という名前だけは何度も見かけるハメになっていた。そして上に挙げたなかで、出口王仁三郎の本を読んでいた際、確か515事件の前に起こった、未遂に終わったテロ事件が起こる前後で、出口と頭山満が会っていた、という記述を見かけた。そのとき、これは頭山満のこの本も読まないとな、となかば義務感が私のなかで生じていた。しかし、本の分厚さから、手にとることはためらいもあって、少し間を置いた。その上で、今回ようやく読んだ。

今まで豚の角煮が好きでスーパーの総菜コーナーでよく購入していたが、参政党を知って食品添加物の多さから買い控えるようになり、ずっと食べてなかった。これが頭山満の本を読んだから、かどうかわからないが「食べたいなら自分で作ればいいのだ」という当たり前のことに気づいた。三元豚ステーキ用の肉を使い、トロトロ3時間ほど合計煮込んだ。とても美味しかった。下茹でに使ったショウガ4片がとても良いアクセントになっていた。

久しぶりに「面白いから読みたいんだけど、読み終わったときのロスが怖くて最後まですぐに読み終わりたくない」と思えた本だった。レイナルド・アレナスの「夜明け前のセレスティーノ」以来かもしれない。だとしたら、もう20年以上になる。最近だと、高橋源一郎の「銀河鉄道の彼方に」かもしれない。しかし……

これを見返しても、そういうワクワク感を自分では書いていないことからすると、そこまでではなかったようだ。

前置きが長いのはいつものことである。そもそも私は、読書感想文と日記を兼ねて文章を書き連ねているのだから、私自身の現在の心境や来し方をここに紡ぐつもりなので、ダイレクトに感想を書くつもりはない。私のヘタな文章で頭山満を汚したくないし、井川聡さん、著者のイメージも悪くしたくない。タイトルを野放図においておいて、あとは読者が勝手に自分で手を取ってもらいたいのが理想。私の文章で、手に取りたいと思っていただけたらそれこそ僥倖、縁を結べたと欣喜雀躍である。

と、いささか難しい熟語を並べてみたのは、頭山満翁が幕末に生まれ明治期に西郷隆盛を尊敬して西郷の愛読書、大塩平八郎の書物を胸に刻んだことからかもしれない。そう書くと、頭山満の人生の概略を述べるのか、と思われるかもしれないが、とりあえず彼は昭和19年に89歳で亡くなった、とだけまず記したい。なぜか?
私はこの本は、単純に一人の男の人生を描こうとした本ではない気がしたからだ。私がそうだったように、時間経過かもしくは戦後アメリカの恣意的にか、知るべき国士、傑物の記録が消され、忘れられてしまった人たちを、著者井川聡さんは掘り起こしたかったのではないか?と考えたからだ。以下に述べる、この本に出てきた素晴らしい人たちを、私は一人も知らなかった。若い時分、予備校で日本史の成績だけは全国でそれなりに上位だった私ですら、だ。つまり、現在の歴史教育において、語られることのなかった、封印された人たちだった、のではないだろうか?

・高山彦九郎
尊王の志士。北は津軽半島、南は鹿児島まで歩きまくった健脚の人。おそらく頭山満と同じように、裸足で街道を歩き、やぶ蚊にさされるのもいとわず野宿して、語り合える友を探した。最後は藩からの弾圧をうけ自害したと思われる。

・高場乱(たかば おさむ)
身体は女性の医師だが、自らは武士として振る舞い、塾を開いた。
頭山満曰く「無欲と親切よりほかには、何も持ち合わせのない先生だった」。福岡市博多区崇福寺の玄洋社墓地で、頭山の隣に眠る。墓碑の題字「高場先生之墓」は勝海舟の書。

・野村望東尼
幕末の志士を援助したことで、玄界灘にうかぶ孤島姫島に、二年間幽閉された。高杉晋作の最期を看取り、彼の有名な「おもしろきこともなき世をおもしろく……」の下の句を「すみなすものは心なりけり」と望東尼がつけ、高杉は安心したように息を引き取った、という。
彼女が庵を結んだ平尾の庵は現在「平尾山荘」と呼ばれ、歴史公園として開放され、そこに歌が刻まれて残っている。
武士(もののふ)の やまと心を よりあわせ
ただひとすぢの おほつな(大綱)にせよ
私は、古事記などを読むうち、大和魂という吉田松陰に抵抗がある。まごころ、やまとごころ、が大事なのだ、と考えるようになった。

・箱田六輔
初代玄洋社社長。頭山満が最初自由民権を主張し、のちに吏党(与党側)を援護するようになって孤立したことを憂い、玄洋社の分裂を防ぐため自害することで阻止した。自らの命よりも大事なことがある、という証明の一つと私はとらえた。彼の家は資産家だったが、玄洋社の活動のため、私財をかなりの規模でなげうった、という。

・進藤喜平太
二代目玄洋社社長。高場乱曰く「門下生のうち、心情が高明で、素練(白い練り絹)を秋水(秋の澄み切った流水)に洗うようにすがすがしいのが進藤である」と評した。かつて勤王志士として幕府に捕まって拷問されたとき、全く顔色をかえず仲間が裏切ったか、と着物をはぐと全身血まみれだった、という逸話や、戊辰戦争で敵の銃弾を歯で受け止めた、大野仁平という荒くれ者が料亭でうるさくしていたとき「静かにしないと小便かけるぞ」と進藤が注意して「やってみろ」と煽ってくるので本当に小便をかけ、大野を逃げ出させた、という逸話がある。著者は「沈勇」と表現している。

・平岡浩太郎
玄洋社の進藤、頭山と三人並ぶ存在として言われた人物。無一文から「玄洋社を大きくするには金が必要」と炭鉱で働いて山師になり、巨万の富を得て政界に進出、当時の伊藤博文が中心だった藩閥政治を終わらせるため、当時険悪だった大隈重信と板垣退助のそれぞれの政治家に働きかけ、今ではゼッタイ許されないが、黄金で名刺を作り、それをそれぞれの政治家に渡しまくって大隈板垣の隈板内閣を作る立役者となった。明治の坂本龍馬と言われた男。今でいえば、立憲民主党と日本維新の会を一緒にさせた、という感じだろうか。信念をもって、できないと思われることをやる、それが玄洋社にいる傑物の特徴だと知った。

・来島恒喜
私がここで人物を列挙したい、と思うにいたった二人のうちの一人。今ではゼッタイ許されないつながり、となるが、彼は言ってみればテロリストである。明治時代は、幕末に結んだ外国との不平等条約を撤廃させることが大きな課題の時代でもあった。その不平等条約の一つ、治外法権を、大隈重信が外務大臣をしているとき「最高裁判所の判事のうち、4人を外国人にすることで撤廃する」と決めた。そんなことしたら日本が外国の支配を受け入れるきっかけになってしまう。やむにやまれぬ気持ちで、来島は大隈の暗殺を決めた。ただし、来島はあくまで、そのような形での治外法権撤廃をやめさせることが目的であって、無関係の人を巻き込むつもりはなかった。彼は爆裂弾を大隈がのっている馬車に向かって投げ、成功した、とみるとその場で来島は持っていた短刀で自らの両耳の下を刺し貫き、そのまま前に出して首を切断した。前に出した勢いがあまって、詰襟のボタンが跳ね飛んだ、という。もちろん暴力は良くないだろう。しかしここで述べたいのは、国の行く末を案じ、自らの命よりも国を思う志の高さを、私は少なくとも否定するほどの高潔さを持ち合わせていない、ということだ。言下に否定するにはあまりにも……純粋に思えるのだ。「武士道とは死ぬことと見つけたり」とは良く言われるものだが、その言葉の重みを、私は知ったのかもしれない。それが証拠に、そのことで右足の大部分を失った大隈重信自身が、彼が眠る谷中墓地に墓参し、次の言葉を残している。「爆裂弾を放りつけた者を憎いやつとは少しも思っていない。いやしくも外務大臣である我が輩に爆裂弾を食わせて世論を覆そうとした勇気は、蛮勇であろうと何であろうと感心する。若い者はこせこせせず、天下を丸のみにするほどの元気がなれればだめだ」。身を殺して仁を成し、己を損して国に殉ずる、というモラルが、幕末から明治の時代には色濃く残っていた。

・荒尾精
正直疲れちゃったので、列挙したい二人のうちの二人目を最後に記しておこう。彼は一言で言えば日清戦争前に中国で活動したスパイ…になるのだが、行動力がすごい。彼は高山彦九郎や頭山満のように健脚で、しかもハダシで歩くので、足裏が靴底のようにめっちゃ硬かったそうだ。頭山満は彼を高く評価しているが、それは彼が「一人でいても寂しくない人」だから、と著者は記している。よく人間は一人では生きられない、という。しかし、頭山にせよ、明治に生きる人は一人で生きることのできる人だった。たとえば、頭山は若い自分、家をふらっと出て山に入り、洞窟で座禅を組んで過ごした。ロクなものを口にいれず、自然のなかにいれば思索が進む。荒尾もそのような人だったのではないか、と思われる。彼が日清戦争前に中国探査のために示した「楽善堂規則」のなかの「人物の部」に次のことを記している。
東洋君子の志、左の如し
道を修めて全地球を救う 第一等
道を修めて東洋を興す 第二等
国政を改良して其国を救う 第三等
子弟を鼓舞して道を後世に明らかにす 第四等
つまり荒尾としては、「道を修めて全地球を救う」人物こそ最高で、彼もそれを目ざしていた、ということだ。彼を一介のスパイ、と評して終わるのは簡単だ。しかし彼の薫陶によって、その後の孫文による革命に中国の現地で日本が協力する礎になったのは間違いないだろう。

玄洋社に係る日本人としては、その他にも内田良平、杉山茂丸(夢野久作の父)、広田弘毅、中野正剛、中村天風(大谷翔平の愛読書)などの名前が挙げられるが、疲れちゃったので、とりあえず名前を挙げるのみにしておこうか。頭山満はこのような集まってきた傑物たちに慕われるなかで、国政選挙の結果を誘導したり、今ではかなり批判されることも平気でやった。それはとても純粋だったからだ、と私は思う。国を思う気持ちであって、まったく私欲は無い。だからこそ軽々に批判できないのだ。むしろ惹かれる。しかし、そのようなことをしても、頭山が時の総理に直談判してもならぬことがあり、彼は日本の政治に嫌気がさして無冠の浪人という身分のまま、日本の国外へ目を向けることになる。そこで頭山が知り合ったのが、金玉均、李容九、孫文、インドの革命家ボース(新宿中村屋のカレーのスパイス調合などを教えた人。頭山が中村屋に匿わせた)という人たちだ。
私がこの本を読んで人生観、思想が変わったのだが、それは彼らとの関わりを読んだことからだった。金玉均は凌遅刑に遭ったことは知っていた。死後のことらしいが、身体の一部をちょっとずつ削ぎ、四肢は切断されて首などがさらされた。李容九もだろうけれど、韓国では売国奴扱いされている。
日本人の保守的な人たちの多くが、朝鮮人を嫌っている。私はそんなことはなかったが、さらに朝鮮人を嫌う感情について抵抗を覚えるようになった。保守的、右翼的な思想というのは、確かに、その国の伝統を重んじ、排外的になりがちではあるだろう。しかし、だ。金玉均にせよ、李容九にせよ、彼らの立場から、国を思い、どうすればいいか必死に悩んだ結果、私欲なく行動したことが現在の歴史において都合が悪く、封印もしくは悪者の烙印を押されてしまった。日本だろうが韓国だろうが、どの国にも私利私欲なく国を思い立ち上がる国士がいる。参政党は大調和をうたう。その理念は、それぞれ国を思う者同士がそれぞれ連携することで、全地球を救う、そうとらえているはずだ。李容九がいなければ、おそらく日露戦争で日本軍は朝鮮半島から旅順や鴨緑江といった前線に物資兵員を輸送できず、完全にロシア軍に負けていただろう。日本との併合ではなく、合邦を夢見た李容九ら東学党員系の25万人を超える朝鮮の人々が日本のために朝鮮半島の鉄道を整備してくれたからこそ、日本はロシアと戦えたのだ。それは間違いない。李の立場からすれば、自らの国の王妃を日本人に殺されているのだ。それでも、頭山らと協調し、合邦を模索したのだ。その意味で、実際に行われた韓国併合に、頭山満は反対している。なぜ朝鮮神宮の神を朝鮮の神ではなく、天照大神、日本の神にしたのだ、と。ついでに言うと、日本にいる保守的、右翼的な人たちは「前の戦争で日本はアジアの植民地支配から解放した」と胸を張る人がいる。この本を読み、頭山満を知ると、それに異議を唱えたくなる。なぜなら、実際日本の軍部が行ったことは、現地の国士とともに立ち上がるのではなく、あくまで英仏の軍隊と戦ったのみであり、日本軍が進出したところに、日本の神社を置いたではないか。それは明らかに、植民地としての進駐だった、と考えざるを得ない。その証拠に、日中戦争を頭山は停戦させることを望んでいた。孫文の行った革命を頭山らは支持し、孫文が日本に国賓として来たときも、逆に密入国者として亡命してきたときも同じような態度で温かく迎えた。孫文の後継者蒋介石とも繋がりがあった。その革命の矛先だった清国の最後の皇帝を満州国の国家元首にしたこと、対華21箇条の要求で抗日の機運を盛り上げてしまったこと、それは明らかに日本の帝国主義のなせる業だ。いくら結果論や、つぎはぎの理屈で「アジアを解放した、八紘一宇」と言っても、それこそ物を知らず、狭い見識と私は考えている。頭山満翁の言葉「斬り取り強盗の真似をして、国を広くすることはいらぬ。目先を掠めて富を増すこともいらぬ。国それぞれの文化を進めるのが理想だ。征伐し、略奪し、弱小国民を苦しめるだけならば、国家をつくる必要はない。いやしくもこの地球上で国を作る以上、人間らしい道を踏み、天下後世に恥じない立派なものにしなければならぬ」と。昭和15年、アメリカと開戦する前ですら、頭山満はもう80歳をとうに過ぎていたのに、日中戦争停戦の段どりがつけば、今よりももっと不自由な交通機関を使って、中国へ渡り、蒋介石と話をつけるつもりだった。しかし、それを東条英機がアッサリと壊してしまったのだ。私がここで想起したことがある。安倍晋三が暗殺される前、ウクライナとロシアの戦争に対して、安倍晋三が「ともに未来をみたウラジミール」プーチンのもとに行き、命をかけて停戦交渉する胆力と国士としての決意があれば、果たしてどうなっていたか?を。
北朝鮮拉致被害者問題にしてもそうだ。岸田文雄は甘い汁を北朝鮮に吸わせることで、もしくは日本にいる北朝鮮と平和条約を結ぶことで甘い汁を吸える利権団体のため、百人以上残る拉致被害者の数人を日本に帰国させることで事実上の幕引きをしようとしている、という話がある。私はかつて、自衛権を発動し、拉致被害者奪還作戦はできないものか?と考えていたが、この本に接して完全に変わった。曰く「韓国にいる国士と連携し、韓国が主導で朝鮮半島を統一する。それによる経済的な不況に対し、日本が支援すればいい。統一した韓国は中国と陸地で国境を接することになる。そのリスクを負う韓国に対して、日本が温かい手をさしのべる。その協力関係のもとに、自然に拉致被害者は全員帰国でき、完全なる解決ができる」と。問題は、日本にいる国士が今の自民党与党内には一人もいないことだが……。

それこそ参政党が言うように「歴史を知ること」それが大事なのだ。物事には様々な見方があり、解釈がある。そして、私たちが知らない国を思う人たちや、意図的に封印されてしまった傑物、国士が、時代を経ることによって少しずつ現代によみがえりつつある。まだ見ぬ素晴らしい先人の人生に接する機会を、熱い心の高ぶりと沈勇をもって、迎えたい。

最後に蛇足なのでまだまだ沈勇とは程遠いなぁw
この本の最後のほうに紹介されているのだが、靖国神社に、力士の像があるがそこに「国技」と揮毫がある、それは頭山の筆である。あと、北九州市の河頭山の通称「はまぐり岩」にでっかく「忠孝」の文字。これも頭山の揮毫からである。いつか実際見てみたい。


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