見出し画像

高橋源一郎「銀河鉄道の彼方に」を読んで

2,3週間ほど前のことだったか、死にたいという気持ちを自分が抱いていることに気づいた。生活が困窮しているとか、失恋したとか、何かイヤな目に遭ったとか、大切な人が死んだから、とかではなく、「ウィズコロナ」のせいではないか、と結論づけた自分の内部の心的現象だった。コロナウイルスの感染によって多数の人が亡くなっていると連日ニュースが流れ、「緊急事態」なのだと政府が警鐘を鳴らし、私が住んでいる立川では午前11時に毎日警告のアナウンスが流れる。繰り返し繰り返し、目や耳から頭のなかに人々の死の情報が蓄積され続け、時代が、社会が、そして自らが死にまとわりついているように思った。そういえば昨日高橋源一郎さんが出演しているNHKラジオ番組「飛ぶ教室」でADHDと自閉症を発症している学者の書いた本を紹介していて、その著者は空気を水のように感じていたそうだ。「水のなかにいる」そう思いながら日々生きているそうだ。そういう意味では、「死のなかにいる」私が自然に死ぬべき存在に思えた、というのも当然の成り行きか。

この作品を読み終えるのに、5週間ほどかかった。あ、この作品を読んだから死にたくなったっていう訳でもない…と思うw 以前から読みたいと思ってはいたのだが、なかなか手にしなかった。ある本との出会いはタイミングに左右される、と思うことがある。その文章を読むべき時機があるのだ、と勝手に考えている。この作品と「ミヤザワケンジグレイテストヒッツ」をセットで考えていたが、そちらのほうはまだタイミングではなさそうだ。図書館や私の目に触れる位置に見当たらない。そう、「銀河鉄道の彼方に」というタイトル通り、宮沢賢治「銀河鉄道の夜」みたいな作品なんでしょう?と先入観がモロにあった。その直感は間違いではなかった。ジョバンニと名乗るキャラクターが出てくるし、鉄道で旅をするシーンもある。極めつきは、銀河鉄道の夜の一部をそのまま抜き出して書いたのではないか、という箇所もある。ただ…

梅雨空の灰色の雲が強風にあおられて飛びすさっていくのを眺めながら考えているうちに、決定的に違うな、と思い至った。

「銀河鉄道の夜」は私なりの考えだと、生と死のハザマから、死ぬとはどういうことなのか、そして生きてある、生かされているとはどういうことなのか、を見つめるという作品だと解釈している。

対して高橋源一郎さんは、生と死を考えようとしているのだろうけれど(実際「死人」と交流するシーンもあるし)、どうもそれよりももっと伝えたいこと、いや、考えたいことがあるように思えてしょうがない。それはズバリ、「書くこととは何か」。自分はなんで小説を書いているんだろう?コトバを用いて文章を書き連ねて小説、という物語にすることにどんな意味があるのだろう?そんな問いかけをずっとしているように見えた。

私がこの作品を読み終えたとき考えたのは「noteの文章、すぐ書こうか、一晩寝かせて明日書いたほうがいいのか」だった。映画であれ、読書であれ、観終わった直後に感想を言ってしまいたい場合と、衝撃が強すぎて呆然となってしまい、直後だとすぐに言葉を紡げない場合がある。この作品はそういう意味で、読んでる間中にも考えていたことがあったし読み終わってすぐ何か言いたいんだけど、ショックを受けてうまく言葉にできるか自信がない…が正直なところだった。あと、明日だと交流戦優勝で昨日も首位楽天に勝った勢いづいているオリックスバファローズの試合を昼に観るかもしれないしw

ここで手荒れの指がかゆくなったのでボリボリ。去年母が亡くなった10月頃から症状が出た手荒れは、8か月経ってようやく完治しそうな状況。ただし時折ストレスからくるのだろう、精神的に圧迫があるとかゆみを覚えてしばらくかいてしまうし、手の爪は手荒れのためかデコボコしてしまっている。ただ何が幸いするかわからないもので、この痒みのために禁煙が3か月ほど続いている。症状がひどいときはまったく吸う気になれなかったのが、最近治りかけてくると、またぞろタバコを指にはさんで吸いたくなって困っている。

それでも結局こうやってすぐ書き進めている。書きながら考えがまとまることを期待してのことだ。注目した部分は以下。

⑴なぜ「G※※」と主語を記したのか?
⑵「あまのがわのまっくろなあな」と「流動」という現象

とても、難しい。この2点を説明しながら「なぜ小説を書くのか?」へ結びつけようとしたら、ものすごく長文を書かないといけない気がする。いや、そうでもないかもしれないが、ネタバレはしないといけない。

(P.493 集英社)
そこまで書いた時だった
わたしは気を失った
いや そうではない 気がつくと わたしは空中に浮かんでいた
いや それも違う
気がつくと わたしが書いていた原稿用紙はなくなっていた

この作品で、書き手が作品のなかに入る。現実の高橋源一郎とおぼしき人間を書き手として用意し、その子どもとおぼしき少年がジョバンニと旅をする。小説を書く前に、書きながら、作者は物語を考えているのだろうけれど、これはまさに文字のなかに作者を埋没させようとしている。なんでも文字に書いてしまえばそれは作品のなかでリアルになる。ここがこの作品のキモだ。すなわち、現実に生きている小説家としての高橋源一郎と、作品内に存在している「銀河鉄道の彼方に」を執筆している書き手と、その二人の高橋源一郎が対話をしながら作品が進んでいるのだ。これはなかなか出来ることではない。翻ってみれば、そうまでしないと「小説を書くこととは何か?」を結論づけることはできなかったとも言える。では、その結論とは?

(P.563)

最後のページを引用して、締めくくろうと思ってそのページ数まで記したところで、ここは引用すべきではない、と頭のなかで声が響いた。なので、止める。この作品は、高橋源一郎の最高傑作じゃないかな。私は以前、高橋さんに直接話す機会があって「いちばん上手く書けたと思った作品は何ですか?」と聞いたことがある。彼の答えは「君が代は千代に八千代に」だった。しかしそれは、今から15年近く前の話で、この作品は書かれていないし、東日本大震災もまだ起こっていなかった。

高橋源一郎「今夜はひとりぼっちかい? 日本文学盛衰史 戦後文学篇」を読んで
https://note.com/aoisoma/n/n6ef802464a67

前の記事にもした、彼の戦後文学篇を読んで気づいたが、彼にとって東日本大震災は小説家としての目線を変えるほどの大きな出来ごとだったのではないか。それが証拠かどうか、とにかくこの「銀河鉄道の彼方に」のラストと、戦後文学篇のラストのほうがダブって考えられるシーンがある。すなわち、誰もいない町に登場人物が現れ、そして歩き出す、というシチュエーションだ。なので私にとって「銀河鉄道の彼方に」の最後に降り立った駅も実はメルトダウンした死の町を想起してしまった。

何百ページもの長さで書きながらずーっと考え続けて、言葉がその意味をなくす事態を想定したり、ある日連れ添った恋人が突然変わってしまう流動する生活のなかで立ち現れたことが読者と同様、さまざまな人生を重複させ経験を反復し、反芻するそのものを一見消化不良に提示しただけにみえるがたぶん、高橋さんはそこをうまくつなげて書いているのだろう(私には理解できない箇所があった)。その結びにシンプルに「ある」ことの重要さに気づくこと。ただ、そこに怒りを感じること、その意味をかみしめて、私もいつまで続くかわからないがこのような形でも、つぶやくだけでも、文筆することにしがみついていきたいものである。生きて、ある、ことだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?